四話 十二月十三日
十二月十三日
浅利さつきは食堂で遅い朝食をとっていた。隣には、この後同じ講義を受ける木下瑞希が座っている。彼女は片肘をついて、浅利が白身魚フライ定食を咀嚼しているところをじっと見ていた。
「何見てるの」浅利は言った。
「相変わらず美人だなぁと思って。綺麗な人ってさ、何してても綺麗なんだよね」
「何それ」
食堂にはこの二人以外にほとんど人はいなかった。今日は土曜だし、昼までは大分時間があるからだろう。それに、熱心な学生はどこかの講義を受けているはずだ。
「裕子がさ、さつきを見てると、どうして自分は綺麗に生まれてこなかったんだって、落ち込むんだってさ」
「へえ」特に思うことはなかった。
「へえ、って何、へえって。私さ、思うんだ。世界中の人間にはね、生まれる時に美人値が振り分けられるんだって。神様が悩むんだよ、きっと。この子にはこれだけ振り分けようかな、この子はこれぐらい、って」
「面白いね」
浅利は心にもなく言った。木下は、はあ、と息を長く吐き出した。
「それでね、美人値が少ない人には他の、才能っていうのかな、違った値を多く振り分けるの。それでプラマイゼロでしょ」
「それって私が何か裕子より劣ってる部分があるっていうこと?」
「それがそうでもないんだよね」木下はより大きくため息をついた。「同じ大学にいるってことがまず絶望的。でもそうでも思わないとやってらんないって」
「ふうん」
浅利は今まで、自分が美しいと感じたことはなかった。中学校に上がってたくさんの男の子から告白されて初めて、もしかしてそうなのかも、と思い始めた。女の子同士では、たとえそうでなくても互いに可愛いと言い合うことは普通だったし、一緒に遊んでいた男の子は女の子と比べて成長が遅く、そういったことに疎かった。だからまるで気がつかなかったのだ。
特に視力が悪くて鏡の中の自分が見えない、というわけではなかった。むしろ良い方だ。それが長い間不思議だったのだが、ある時気づいた。
自分は何かを美しいと感じた事自体ないということを。浅利は焦った。何か大事な感情が自分から抜け落ちている気がした。中学校に入って、周りの子が化粧に興味を持ち始めた時、自分も同じようにやってみた。服も同じように可愛らしいと思われるものを揃えた。しかし告白してくる男が増えるだけで、美しい、ということが何なのかはまったくわからなかった。
「さつきって変だよね」
「変で悪かったね」
「そうじゃなくて、すごく綺麗なのにさ、それを鼻にかける感じでもないじゃない。私綺麗でしょ?っていう雰囲気がないんだよね」木下は笑った。「裕子も憎めない、って言ってた。はは。私だって、さつきがあの立花佳織みたいだったら友達になってないよ」
立花佳織という生徒は有名らしかったが、浅利はよく知らなかった。テレビなどに出ているらしいが、生憎あまり観ない方だ。
「立花佳織は美人値は凄いけど、謙遜値とか、たしなみ値とかが低いんだよ。きっと」
「なるほど。じゃあ、私は何が低いのかな」
一瞬子供の頃を思い出した。何を見ても美しいと感じることのない日々。浅利はいつもそのことが気がかりで、解決策を模索していた。
浅利は中学生の頃、一人で美術館へ行ってみた。両親はそういった場所には無縁で、連れて行かれたことはなかったので、初めての経験だった。
鮮やかな色合いの絵画、そうでもない絵画、本物と見まごうかというくらいの彫刻、そうでもない彫刻など全ての美術品を何度も何度も見返した。
しかしどれを見ても少しも美しいと感じることはなかった。浅利は落胆して美術館を出ようとしたが、どうしても諦め切れなくて、一冊の画集を買った。これを毎日眺めていたら、もしかして美しいとは何なのかがわかるかもしれないという淡い希望を抱いて。
家に帰ってページをぱらぱらとめくってみるが、どれもぱっとしない。浅利の感性に訴えかけるものはほとんどなかった。
だが一枚だけ、目を引かれるものがあった。
それは殴り書きにも似た、本の最後の方に申し訳程度に載せられた習作だった。作者が自暴自棄にでもなっていたのではないだろうか、と思えるほどにひどい有り様だった。線は要領を得ず、まとまりがなく、無作為に重なり合っていた。絡まった毛糸の塊のようにも見えた。
浅利はその習作になぜか心惹かれた。そう確かに気づくのはずっと後になるが、それが浅利の感じた最初の『感動』だった。
何年後かに街にピカソ展が来た時は、その『感動』をさらに強く認識できた。ピカソの作品は晩年になればなるほど、余計なものがそぎ落とされて、人間のありのままの姿が描き出されているような気がした。
それはまさに無意識だった。ピカソは無意識だったに違いない。
浅利は何か確信めいたものを手に入れた気がした。
「さつきはさ、規格外なんだよ」
木下は何か諦めたように言った。
「規格外?」
「限界突破。マイナスもマイナスとかけてプラスになってるタイプ。神様が見落としたんだ、きっと。裏技だよ裏技」
「裏技ね」
「そう裏技。あんたは十六進数を知ってるんだよ」
意味がわからなかったが、わかった振りをした。
「さつきって、どうせスポーツとかも得意だったりするんでしょう、どうせ」
「どうせって何、どうせって」中学の頃はテニスで全国大会に行ったがそれは黙っておいた。「私だって欠点はあるよ」
木下は苦い顔をした。「くだんない欠点だったら、私怒るかも。少し」
そう言われて、『感動の不足』はくだらない欠点に含まれるのだろうかと少し考えた。くだらないと言えばくだらないかもしれない。だから「秘密だけど」と言っておいた。
しばらくして定食を食べ終わる頃に、食堂の入り口から知った声が飛んできた。
「あ、浅利だ」
東だった。なぜ奴が土曜に学校にいるんだ、と思ったので「なんであんたがいるの」と実際に訊いた。
「いちゃ悪いかよ。あ、そうだ。来週サークルで蝋人形美術館に行くからな。俺の美学を思い知らせてやる」
東は購買部でパンを買ってすぐさま姿を消した。すると木下が声にならないようなおかしな声を上げた。
「はぁ〜、東君かっこいいよね。ちょっと変わってるけど」
「かっこいい?あのアホが?」意外だった。
「アホなの?」
「アホ。あいつはね、自分は頭がいいと思ってるの。芸術について語ったりさ。でも実際はお調子者でおっちょこちょいで、さらに一度思い込むと周りが見えなくなるタイプ。自分はそれに気付いてないんだよ。だからアホなの」
「でも美青年じゃん。ちょっと変わってるけど。美青年値マックスだよ」
「だったらその分知能が低いんじゃない?」
「辛辣だねぇ」
東はおかしなことを言っていた。俺の美学を思い知らせるとはどういうことだろう。たしか昨晩飲んだ時に彼と議論を交わした気がするが、あまり覚えていない。そういえば昨日自分はどうやって家に帰ったのだろうか。楠木あたりに訊いてみようと思った。
「ていうかさ、さつきが入ってるサークル、名前なんていったっけ?」
浅利は黙った。
「…もしかして、覚えてないわけ?」
「もう少しで思い出す」
「いいよもう。あのサークルのメンバーってさ、美男美女揃いだよね。入りたいって言う人大勢いるのに、リーダーが却下してるって聞いたけど」
「神楽坂さんが気に入った人じゃないと入れないって」
あのサークルは神楽坂が作った。同じ美意識をもった人間を集めて、お互いを高め合うという目的があるので、恋愛目当ての人間が入られても困ると彼は言っていた。浅利は、神楽坂の物腰とその崇高な芸術論に惹かれてサークルに入った。彼の描いた油絵を見たことがあるが、それを見て、神楽坂は天才に分類される人間なのだと確信した。
「女の子みたいな男の子もいるよね。すごく綺麗な人。最初女の人だと思った」
「九藤のこと?」
九藤は髪が長く、かなりの女顔なので、近くで見ても女にしか見えない。間違って男に告白されたことがあると彼は話していた。
「あの人って、その、ゲイなの?」
「違うと思うけど」
浅利が言うと、木下はどこか満足げな表情を浮かべた。そして少し頬を赤らめる。
木下は九藤に気があるのだろうか。だとしたら、彼の病気のことも言った方がいいかもしれない。だが、人の病をぺらぺらしゃべることも憚られる。様々な思いを頭に巡らせた。
「あ」浅利が言う。
「な、何?」
「私の欠点あった。酒癖が悪い」
「あ、そう」




