三十六話 一月九日 その二
一月九日 その二
講義が終わると、生徒達はあわただしく教室を後にしていった。浅利はその姿の見ていて、何をそんなに急ぐことがあるのだろうかと思った。世の中の動きは早すぎる。カードをかざしただけで通り抜けることの出来る駅の改札、注文してからすぐに品物が出てくるファーストフード店、出勤するサラリーマンの早足。すべてが浅利にとってどうしても馴染めないものだった。
もう少しゆったりと過ごしてもいいではないか。結果だけを求めるのではなく、経過を楽しめるような心の余裕のようなものが他の人間には欠けているのではないか。
浅利は自分は気が長い性格なのかもしれないと思う。最近は九藤を何時間見ていても飽きない。少しずつ弱っていく彼が、自分の中に徐々に浸透していくのを感じるのと同時に、彼の中にも自分が入り込んでいくのがわかる。その感覚は快感だった。神楽坂の言うとおり、今の関係が崩れることなく続いていくことが、自分は最も望んでいるのかもしれない。
しかしこれでいいのだろうか。九藤が苦しみ続けることが自分の願望だとしても、彼にとっては違うのではないか。だからきっと九藤が死に、彼の心に拘泥する暗澹たる思念の道筋を断つことができれば、一番いいのではないのだろうか。
彼が死ぬことは、彼自身も望んでいるし、浅利も望んでいる。そうは思うが、浅利は心に釣り針が根がかりするような強いひっかかりを感じる。その死に対する疑いのようなものは、いったいどこから湧いてくるのだろうか。
確定しない自らの精神の方向。今の浅利にはそれが悩みの種だった。
浅利は教室にほとんど人がいなくなってから、ようやく席から立ち上がった。筆入れや教科書類を鞄に入れ、出口へと向かう。
そこで、あることに気付いた。
誰かが、開いたドアの陰からこちらの様子を窺っているのだ。浅利は怪訝に思ったが、そういうことは初めてではなかったので、堂々とその出口から出て行くことにした。鞄を持って、そこへ一直線に歩く。すると、陰にいた誰かが、もぞもぞと動き、姿を現そうとしているのがわかった。
誰だろうか。姿を隠す必要がある人間などとあまり関わり合いになりたくはない。
だが意外にも、それは知り合いだった。
「神楽坂さん」
浅利は声を上げた。だが、彼女は神楽坂さん、の語尾の音を上げそうになった。その理由は、神楽坂の風貌とその表情からだった。
「どうしたの?」
浅利が心配をして言うと、神楽坂は力なく手を上げ、平気だという仕草をした。だがとても平気そうには見えなかった。いつもは綺麗な身なりをしている神楽坂の服はよれよれで、長時間着替えていないように見える。しかしそれよりも、彼の表情が異様で、今まで浅利には見せたことのないものだった。目に力がなく、口は真一文字に結ばれている。眉間にはまるで長年にわたって刻みつけられたような皺がくっきりと浮かんでいた。
神楽坂はどんな時でも微笑みを絶やさず、余裕を持って人に対して振舞っていた。だがその面影は今の彼にはない。神楽坂は何かに疲れ切って、活力を無くしている。
「浅利君…」
声にもいつもの張りと艶がなかった。浅利はますます心配になる。
「訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと?何?」
神楽坂は一呼吸置いた。彼の体は壁にもたれかかっていて、いかにも元気なさげだ。
「サークルの皆のことだ。東君、九藤君、楠木君、そして君のことも」
サークルメンバーのこと――それは平凡なことのように感じた。彼はそんなことが知りたいのだろうか。浅利は疑問をそのままぶつけた。
「サークルの皆のことって…いったい何を知りたいの?」
神楽坂はゆっくり目を閉じると言った。「皆の様子。何か変わったことはないかい?」
「変わったこと?」
変わったこと。それは山ほどあった。自ら死へ向かう九藤、ナイフを購入したあの時の楠木、おかしなことを言う東、そして、九藤の死を願う自分。
浅利はそのサークル内で起こっている異変に今気付いたような気がしながら、それを神楽坂へ核心を隠しながらそれとなく伝えた。すると彼の表情はみるみるうちに驚きへと変化していった。
「やっぱり、そうか」
神楽坂はがっくりとうなだれ、壁にかける体重をさらに多くした。
「こうなったのは、僕のせいかもしれない」
浅利は思いもよらない言葉に、戸惑った。「どういうこと?」
「僕の言うことは、誰でも知らず知らずのうちに心に残らせることになる」
確かに、神楽坂の発言力というものは、並外れている。しかしそれを彼が自覚しているということが、浅利を奇妙な気分にさせた。
「蝋人形美術館で」神楽坂は少し姿勢を正し、浅利の目を見た。「僕が話したことが、君たちの精神に影響を与えているのかもしれない。心のどこかで、美しい死体というものが、彼らを変えてしまっているように思える」
「気のせいじゃない?」
自分の美意識の目覚めも、彼からの影響だというのだろうか。
「そうならいいが…実際に彼らはおかしな行動に出ている」
「そうだけど…」否定はできない。
「でもそれも仕方がないのか…そうだ、仕方がない…」
神楽坂はぶつぶつと何かを喋りだした。浅利はその半分も聞き取ることができなかった。
「ありがとう、浅利君」神楽坂は疲れきった表情で言った。
「大丈夫なの?」
「ああ。大丈夫さ。今日のことは忘れてくれ。大したことではないんだ」
神楽坂は体を半身にして「それじゃあ」と言い、生徒達の雑踏へと姿を消していった。浅利はそれを見て、ごちゃごちゃとした考えを頭の中でまとめようとしていた。
サークルが妙な方向へ向かおうとしていることは確かだ。浅利もそれを察知していた。だがあらためて思うと、それが形を持ち、現実感を伴って脳裏に浮かび上がってくる。
今までそれを深刻な問題だと感じていなかったのは、神楽坂の存在があったからかもしれなかった。いつも悠然と構え、頼りになって、支えとなるうる神楽坂。しかしその彼までもが今見た限りではおかしくなってしまっている。
サークルメンバーの全員がおかしい。東はなぜあのような妄言を吐き、不思議な行動を繰り返すのだろうか。楠木はなぜ、ナイフを買い、それを浴室に持ち込んだのだ。九藤はなぜ急激に精神を落ち込ませたのだろうか。神楽坂は何を気に病んでいるのだろうか。自分は、九藤にどうなってもらいたいのだ。
浅利は正体不明の不安感に襲われた。このままでは、何もかもがめちゃくちゃになってしまうかもしれないと感じる。
なんとかしなければ。
軌道を修正しなければならない。浅利は得体の知れないものが迫ってきている気がした。それに立ち向かえるのは自分しかいないと思う。それに孤独感を感じながら、浅利は今の現状を以前に戻すため、あのサークルに戻るために動く決意をした。




