三十七話 一月十日
一月十日
浅利は夕方六時半に、駅の前で東が来るのを待っていた。彼に訊きたいことがあったのだが、東は今日学校を休んだようだった。だから今、呼び出している。
周りは仕事帰りのサラリーマンや、自分のように学校から帰る途中の学生が占領していた。彼らは駅の明かりに照らされ、スーツや鞄の黒が闇に溶け込むことはない。その中から東の姿を見つけるのは容易なはずだった。しかし彼はいつまで経っても現れず、浅利に焦燥感を抱かせた。
だがそういったただ待つだけの時間も過ぎ去り、駅から見慣れたジャンパーを着込んだ東がこちらへ向かってくるのを見つけた。浅利は軽く手を上げ、そこにいることを伝えた。東はすぐ気付いたようで、ふらふらとした足取りをしながら近付いてきた。
「遅いじゃない。何してたの」浅利は言った。
「悪い。人と会ってたんだよ」
東の表情は暗かった。いつもの軽快さは無く、構内の明かりを受けて顔の影を濃くしていた。浅利はまた、彼の様子のおかしさに気付いた。前街で会った時と同じように、彼の目がうつろで、淀んでいたのだ。
「何だよ。話って。寒いから早くしろよ」
「あんた今、何が見える?」
東は少し考えたようにした後に「は?」と答えた。
「この前、神様を味方につけたとかなんとか言ってたじゃない。今もそうなの?」
「別に…」東は浅利から目をそらした。
「別にじゃないでしょ。言いなさいよ」
東は困ったように頭をかくと、わざとらしいため息を吐きながら言った。
「お前の面白い顔が見える」
以前言っていたことと同じだ。だが今度は怒りは湧いてこなかった。彼の異常さが際立っているからだ。東は歪んだ微笑を作った。
「他に何か変なことはない?」浅利は訊いた。
「周りの景色が綺麗だ。色がはっきりしてて、鮮明に映ってる」
「他には?」
東はにやりと口の端を上げた。しかしその笑いにポジティブな要素は何一つなかった。人を安心させる笑みではなく、屈折した感情を意味する表情だった。
「いっぱいいるんだ」東はさらに笑みを深くする。「立花さんが、いっぱい。綺麗なんだ」
浅利は戦慄を覚えた。そう言う東の様子は異様で、不気味だった。いったい立花とは誰なのだ。どこかで聞いたことがあるような気がするが、記憶は定かではない。
東は間違いなく、幻覚を見ている。それもかなり強いものをだ。
「あんた、そういうことはいつから?」
東は笑うのをやめ、顎に手を当てた。「最近だよ。これが起こるのは」
「おかしいとは思わないわけ?異常だよ」
「思わないよ。これは啓示なんだ。俺に対する、お告げだ。俺の行為を後押しする証なんだよ」
「神様が?あんたそういうの信じる奴だったっけ?」浅利は疑り深く言った。
「信じる信じないじゃなく、実際に起こっていることなんだ。これの後は凄い疲れるけど、俺は何てことないと思ってる」東は髪をかき上げた。「もうすぐだ。もうすぐ、俺は幸せになれる」
幸せと聞いて、九藤を思い出した。彼も幸せになりたくて悩んでいる。東もそうだというのか。
「あんたは、騙されやすい性格をしているんだ。東、あんた、自分で考えて行動しているようでも、誰かの影響を受けているんだよ」
「お前にはわからないよ。浅利。ほっといてくれ」
東を拒絶するように、手のひらを広げて前へ突き出した。浅利はなんだか悲しくなってきた。
「ねえ東。今さ、サークルが変になっているんだけど…」
「サークルのことは、もういいんだ」
東は浅利の言葉を遮って言った。彼の目は浅利を包囲するような広がりがあった。何を考えているのだろうか。浅利の知っている東と、この東は違う人間のように見えた。
「サークルは楽しかったけど、もうやめにした方がいいと思ってる」東は言った。
「それはどういう…」
「俺、もう行かなくちゃ」
東は浅利に背中を向けた。浅利はなぜか東が遠くに行ってしまう気がして「ちょっと、待ってよ」と呼び止めようとした。だが彼は何も言わず。そのまま駅の中へ去っていってしまった。
浅利は、何かが音を立てて崩れ落ちていくような感覚を抱いた。もう始まっている。自分達の崩壊は、すでにもう止めることができないところまで来ていると感じた。




