三十五話 一月九日
一月九日
東は教授から資料室へ行き、資料を取ってくることを命じられていた。使いっ走りのような真似をさせられるのは若干不快だったが、一年生だからそれも仕方ないかな、と思っていた。
新校舎の資料室がどこにあるのかわからなかったので、途中で何人かに訊いて回った。しかし知っているものも少なく、ようやく四人目でその場所を知ることができた。東は今そこへ向かって歩いている。毎日立花のことばかり考えているので、気晴らしの意味でもこういうことはやっておくべきだと思った。
だがその思いは、意外な形で破られることになる。階段の近く、資料室の前の曲がり角を曲がると、東が求めてやまない人、立花と偶然出会ってしまったのだ。
立花は二人の女子と一緒だった。彼女は東を見ると、驚いたような顔で「ああ」と言った。今までと違い、心の準備ができていないので、東はあたふたしてしまった。
そんな東を見て「どうしたの?」と立花が笑いながら言う。横の、立花の友人らしき女達も、くすくすと笑っている。東は恥ずかしくなって、慌てて取り繕った。
「やあ、奇遇だね」
「うん。東君、何しに来たの?」立花は言う。
「教授にちょっと頼まれてね。君達は?」
三人の女生徒達は顔を見合わせた。
「私達はただ立ち話してただけよ。次の授業まで時間があるから」
「そうか。それはいい」
何がいいのか自分でもわからなかった。明らかに東は動揺していた。彼は前のように堂々と振舞う自信が無くなってきたので、早々と切り上げることにした。
「じゃあ、俺行くよ。またな、立花さん」
「うん。じゃあね」
東はそこを後にした。彼は興奮した自分を落ち着けようと、深呼吸をしながら歩いた。
今日はついている。今までは東が偶然を装って立花に近付いていた。しかし先ほどは違う。本当に偶然に、立花と会うことが出来たのだ。
これはやはり神様が自分を支持しているのだ。立花佳織を手に入れることを応援してくれている。最近夕方に起こる不思議な現象もその一環に違いない。
興奮は抑えようとすればするほど大きくなっていった。今の自分は無敵だ。何をやっても上手くいくような気がした。立花はきっと自分を好きになってくれるだろう。
そして幸せな生活が始まるのだ。やっと、幸せになれる。失ったものを取り戻せるんだ。
東はうきうきした気分で、階段を上がろうとした。
すると、気がついた。自分は馬鹿か。教授に資料を持ってくることを頼まれていたではないか。東は立ち止まり、今来た道を戻っていった。
立花はまだいるだろうか。このことを知ったら笑うだろうか。でもそれでもいい。彼女の笑顔を見ることができるのだから。
資料室の前の曲がり角までくると、その奥のほうで彼女達が話しているのが聞こえた。姿は見えない。その話の内容から、東はつい、聞き耳を立ててしまった。
「さっきの人、誰なの?」おそらく立花以外の生徒の声だ。
「知り合い?」もう一人の方が言った。
立花は何と答えるだろうか。知り合い、というのがベターだが、少し気になる人、などということも否定できない。東は期待感を膨らませた。
「東っていう人」
立花の答えはそっけなかった。東は期待をくじかれて、がっかりした。しかし自分は調子に乗っているな、と感じもした。
「ちょっと格好良かったよね?佳織、狙ってんの?」
いきなりの確信へ迫る質問に、東は急激に体を硬くした。立花はなんと答えるだろう。恥ずかしがって答えないかもしれない。だがもしかしたら――
「とんでもない。あいつストーカーだよ」
えー?と立花以外の二人が声を上げた。立花は続ける。
「あいつ、私のことつけ回しているみたい。写真撮ったり、ゴミ漁ったり。もう、ホント、気持ち悪い。顔見ただけで寒気がする」
「嘘―っ!信じらんない!」女の声は震えていた。
「この前街に行ったでしょ?皆と別れた後、あいつ偶然みたいな感じで私に近づいてきたんだ。あの時も私達のことつけてたってことでしょ?私喫茶店でお茶飲んじゃったよ。最悪。吐きそう」立花は不快感をあらわにした。
「恐いね。どうするの?」
「とりあえず普通に接して、距離を置いていくよ。いきなり突き放すと何するかわかんないからさ」
「本当に、気をつけてね」
「うん。気をつける。ストーカーとか、ホント死ねばいいのに」
「家も知られてるんでしょ?」
「うん。引っ越すよ、もう。そういえばさ、私この前強盗に襲われたんだけど、その時あいつが強盗をやっつけたんだよね。今考えるとそれも怪しい。あいつがあの強盗仕込んだんじゃないかな」
「え?そこまでする?フツー」
「次の日ロッカーにイタズラされてさ。高橋が呼んでるって手紙に書いてあった。それで指定された場所に行ったら、あいつがいたのよーっ!」
「きゃー!気持ち悪い!」
「あのイタズラもあいつがやったのよ。その時がウケた。その時はまだストーカーだって知らなかったの。一目見て強盗から助けてくれた人だってわかったんだけど、恩着せがましくされるのが嫌で気付かない振りしてた。そしたらあいつ、凄い気付いてほしいみたいな顔しててさ!笑いこらえるのに必死!」
ぎゃはは!と三人の笑い声が廊下に響き渡る。
東は、ゆっくりと振り返ると、その場を後にした。




