三十四話 一月八日
一月八日
楠木は授業を受けている。その間でも教室内が騒がしいのはいつも通りだ。しかし、いつも通りでないことが一つある。
また、芝蔵塔子が隣にいるのだ。彼女は先ほどからしきりに楠木に話しかけていて、楠木はそれをことごとく無視していた。だが臆することなく、芝蔵は喋り続ける。
「私、柔道部だったじゃない。だから力には自信があるんだよね」
柔道部だったじゃない、と言われても困る。そんなこと知らないし、知りたくもない。
「優ちゃん今日具合でも悪いの?全然喋らないけど」
お前の顔と声と臭いで具合が悪くなっているのだ、と楠木は思った。冬休みが終わって最初の授業の今から、芝蔵は楠木に会いに来ていた。それは前と同様に楠木を憂鬱な気分にさせていた。このしつこさは何なのだろう。楠木に何を求めているのだろうか。友達がいないのかもしれない。それもそうだ。この醜さでは誰も近寄ってはくるまい。
それより、楠木は気になっていることがあった。
優ちゃんの秘密と知っていると、芝蔵は言った。それはいったいどういうことなのだろうか。冬休み中はそればかりを考えていた。それを考える度、芝蔵の顔を思い出さなくてはならなかったので、とてつもなく苦痛だった。
今もその秘密という不気味な単語が頭をぐるぐる回っている。
授業が終わりにさしかかると、楠木は覚悟を決めなければならなかった。
このまま悩んでもどうしようもない。芝蔵が知っている楠木の秘密とは何なのか、直接本人に訊かなければならない。楠木は胸の辺りがむかむかしてきた。血液の循環が悪いような気がする。芝蔵が言ったとおり、具合が悪い。
すべてはこの芝蔵が悪い。浅利の気持ちが九藤に向いているのも、この女のせいのような気がした。この女がいるから、何もかも上手くいかないのだ。
訊こう。心を決めるのだ。楠木は、強くそう自分に言い聞かせた。
授業が終了し、講師が講義室から退出した。騒がしかった教室が、さらに騒がしくなる。
楠木はがばっ、とその場から立ち上がり、芝蔵の方を見ずに言った。
「芝蔵さん。ちょっと来てくれるかな」
芝蔵は、ぐふふ、と醜い笑い声を出した。楠木はぞっとしながら、講義室から出た。
後ろをちらりと見ると、芝蔵がちゃんとついてきているのがわかった。
楠木は人気のない場所を探した。廊下ではこの話はできない。食堂でも駄目だし、どうしようか、と思っていると、二階へ上がる階段の横に、ダンボールや資材が置かれているスペースがあった。その辺りには人はいない。楠木はそこに向かって歩いていった。
「何かな。優ちゃん、私に話でもあるの?」
後ろで芝蔵が言った。楠木は「うん」とだけ言った。
「話かあ。楽しみだなあ」
彼女の一言一言で、体調の悪さが増していくような気がした。楠木は目的の場所へ到着すると、芝蔵に振り返った。その顔が正面にきて、あまりの醜さにめまいがする。
さて、どう切り出したものか、と悩んでいると、芝蔵はまたぐふふ、と笑った。何が可笑しいのだろうか。もしかして、楠木が何を話したいのかわかっているのだろうか。
そう考えると、さらに不気味に感じた。彼女は楠木を弄んで楽しんでいるのだろうか。
「芝蔵さん」楠木は言った。「前にあなたが言っていたことについて、訊きたいんだけれど」
芝蔵は笑みを崩さずに頷いた。「何?」
「あなた、言ったじゃない。私の秘密を知っているって。それって何なの?」
楠木は緊張した。芝蔵ばいったい何を知っているのだろう。彼女はしばらく黙っていたが、笑顔のままで言った。
「秘密は、秘密だよ」
楠木はいらついた。言わないつもりだろうか。そうやって、楠木を振り回そうというのか。かつてない怒りを胸に、楠木は強い語調でまた言った。
「言ってよ。聞きたいの」
うーんと芝蔵は唸った。がさがさした手を頬に当てて、身をくねらせている。その姿は未知のクリーチャーのようだった。グロテスクだ。
長い沈黙の後に、芝蔵は言った「いいよ。教えてあげる」
胸の気持ち悪さは最高潮を迎えようとしていた。早く言ってほしい。思い過ごしだとわかればほっとするのだから。そうに違いないのだから。
「優ちゃんはね、私と同じなのよ」
楠木は一生懸命芝蔵の目を見るようにした。そらしたら負けのような気がした。
「同じ?」
「小学校の時から気付いていたよ。優ちゃんの秘密。優ちゃんが皆をみてる目を」
瞬きをしていなかったからか、芝蔵の顔と周りの風景が霞んでいく。そんなはずはない。自分は完璧に振舞っていたはずだ。秘密がばれるなんて…。
「優ちゃん、レズビアンなんでしょう?」
体が震えた。
抑えようとしても上手くいかなかった。
楠木は必死に自分の気持ちの高ぶりを鎮めようとした。
これでは駄目だ。動揺した姿を見せてはならない。
「はは、何を言っているの?」
楠木は乾いた笑い声を出した。芝蔵も笑っている。
「そんなわけ、ないじゃん。私、彼氏いるし…」
「隠そうとしても駄目だよ」
芝蔵のその声がやけに頭の中を反響する気がした。芝蔵は確信を持っている。楠木が絶対に知られてはいけないと思っていて、いままでひたすら隠していたことを見抜いている。
「それとね、言っておくけど」
楽しそうに芝蔵は言う。楠木は何も楽しくない。
「優ちゃんを理解できるのは、私だけだからね」
芝蔵の視線が楠木を射る。全身に鳥肌が立ち、動くことができなかった。そうだ。芝蔵は言った。
自分と同じであると。
「じゃあ、またね。優ちゃん。今度はもっと踏み込んだ話をしましょ」
芝蔵は踵を返して廊下の人ごみの中へと消えていった。
楠木は、何も考えることができなかった。




