三十話 一月四日
一月四日
「まあ、適当にくつろいでいてよ」
神楽坂は台所から言った。この神楽坂の部屋は広く、よく整理整頓されている。散らかりっぱなしの東の家とは大違いだ。高級マンションに値するこの部屋に彼が住んでいることは、サークルのメンバーの家がみな裕福だということから容易に想像できたため、驚かなかった。
東は木でできた椅子に座り姿勢を正して神楽坂が来るのを待った。神楽坂は程なくして、コーヒーカップを二つ持ってテーブルについた。
東は進められたコーヒーを一口飲んだ。美味しい。神楽坂の入れるコーヒーは絶品だった。神楽坂は少し探るような目つきで東を見た後で、言った。
「ところで、話って何なんだい?」
東は緊張した。いったいどこからどう話せばいいのだろうか。それどころか、自分がいったい何を相談すればいいかもわかっていない。仕方なく、東は頭に浮かぶままに話すことにした。
「俺は…好きな人がいるんです。とても好きな人が」
「へえ」神楽坂はにこりと微笑んだ。「それはいいことだ」
「その人はとても綺麗で、美しくて、それはもう…完璧なんだ。一部を除いては」
「一部?」神楽坂は首を傾げた。
東は、立花の良くない噂の数々を思い出した。彼女には性格的な欠点が山ほどあるらしい。実際話してみてもそれは感じられなかったが、あれほど多くの人間が言うのだから、真実に近い可能性は高い。
「気が…その、強いというか。周りによく思われていないんです」
「それは大変だね。美とは、周りの人間がいてこそ成り立つものだ。対人関係をおろそかにしては、美しさも半減する。社会と芸術は密接にかかわっているんだ」
神楽坂らしい意見だと思った。東は次に自分が放つ言葉を苦心して頭の中から探りながら、思いついたことをすぐ言った。
「俺、ロザリアに会いに行ってきたんです」
「ロザリア?」神楽坂は驚きに目を見開いた。「まさか、イタリアまで行ったの?」
「はい。ちゃんとこの目で見てきました。この世のものとは思えないほど」東はここで可笑しくなって少し笑った。「美しかったです」
神楽坂は実に楽しそうに、言った。「それは、凄い。君の行動力には誰も勝てない」
「それでわかったんですよ。俺の好きな彼女の欠点を是正する方法が」
「ほう。なんだい?それは。それならそれを実行すればいいじゃないか」
東は首を横に振った。
「でも、その実行の仕方がわからないというか、それが運任せというか…」
立花佳織が死ぬのを待つのは、あまりにも要を得ない。
「君がイタリアで何を掴んだのかはわからないけど、物事は、どうしようもなくなったら強引に進めることで上手くいくこともあると思うよ」
強引――
東はかすめた一つの方法をかき消すように、頭を素早く振った。そんなことはできない。ありえない。それに…。
「それに、彼女の欠点も、本当にあるのかどうかわからないんです」
神楽坂はコーヒーを一口飲んだ。「というと?」
「彼女と話したんです」東は興奮してきて、早口になった。「そうしたら、噂されているイメージとはまるで違った。ただ少し気が強いかもしれないけど、そんなに悪い人間だとは思えなかったんです。彼女には彼女なりの生き方があって、どうしてもそれと周りが対立してしまう。きっとそうなんです」
だがそう言いながら、東は柚野瞳という女性についてのことを思い出していた。彼女は立花と同じ学年で、同い年。容姿は優れていて、演劇部での演技にも定評があった。身長や体型が立花と近く、長身で細身だ。
東は、柚野についてはこと細かく調べた。だがやはり、一年前のオーディションの直前から先の消息は何一つ掴めなかった。もしその失踪に立花が関わっているとしたら…。
東はうつむいて黙った。神楽坂はその東に言った。
「君は疑いを持っているね」
東は顔を上げた。神楽坂を見ると、不思議な目で東を見返していた。東は自分の思いが言葉にできず、詰まった。
「君はもう一度その人と話をした方がいいね。今度はもっと長くだ。そうすれば、欠点があればそれも見えてくるだろう」
「そう…ですね」東は力なく言った。
欠点が見つかったら…どうすればいいのだろう。その後はいったい…。
「君が何をしたいのかはわからない。でも僕はいつでも協力するよ」
「いえ…」東は手のひらを神楽坂に向けた。「これは俺の問題ですから。俺がかたをつけます。でも、助言をもらえたら、ありがたいです」
神楽坂は腕を組んで考えるような姿勢をとった。
「そうだね。今言えるのは、美は何においても優先される、ということだ」
東と神楽坂の視線が交わった。美はすべてに優先する。そうだ。自分は前からそう思って生きてきたではないか。立花はロザリアになるしかない。それしか、彼女が完璧になる方法はないのだ。
東はなんだか体の底から力が湧いてきた気がして、神楽坂に感謝した。




