二十四話 十二月二十九日
十二月二十九日
浅利は殺風景な自分の部屋の換気のため、窓を開けた。部屋に吹き込む風は冷たいが、新鮮な空気が肺を潤した。浅利は寒さを我慢してベランダへ出た。
外は雪が降っていた。大粒の雪がゆらゆらと風に揺れながら落下していく。それが地面へ到達すると、また新しい結晶の塊が舞い降り、その上へと重なる。幾度もそれを繰り返し、町は白になる。
やがて雪は溶けるだろう。人間がいつか死ぬように、雪も春が来れば溶ける。しかし人間の、特に日本人の寿命は八十年近くある。だがゆきだるまは日が照りつける日があればすぐに死んでしまう。
だから自分は雪が大好きだったのだと浅利は気付いた。
今までは意識してこなかったことが、本当は一番大切なことだった。浅利は思った。自分が何を見ても美しいと感じなかったのは、美しいと感じる対象が他の人間と違っていたからだ。
浅利はベランダに置いてある、二鉢の鉢植えを見た。六月に植えたミニひまわりは、夏にはいくつも花を咲かせた。しかし今は当然枯れていて、茶色く変色しうなだれているように頭を垂れたそれは、生命の終わりを象徴していると思った。
浅利はこの枯れたひまわりも好きだった。
だから冬になってもそれを放置していた。たまに見ると、心が休まる。
自室に戻り窓を閉めると、浅利はいつも着ているコートを着た。携帯電話と財布をハンドバッグに入れて、ファスナーを閉めた。洗面所へ行き、鏡の前に立って髪形と化粧を軽く整えた後、ブーツを履き、傘を持って家を出た。
もう五センチ近く積もっている雪をぎゅっ、ぎゅっと踏みしめながら歩く。たまに傘をかいくぐって雪が浅利の頬にくっついた。それは冷たく気持ちよくて、化粧を直す手間などその時は考えなかった。
ふと後ろを振り返ると、足跡が自分に向かって来ていた。神楽坂は、人間がつけた足跡はそれだけで美しいと言った。浅利もそう思う。足跡は消えて無くなるから。道路には自動車がつけたタイヤの跡もついていた。わだちも本当は美しいのでは?
歩いていると、一軒の家が目に留まった。しかしそれは、家と言うにはあまりにもみすぼらしかった。その家はいわゆる廃屋だ。壁は壊れ、窓ガラスは割れ、中に見える柱は腐っていて今にも折れそうだった。手入れする者がいなくなって、誰にも省みられなくなった家。かつては何人かの人間が住んでいたのだろう。しかし今はいない。これも人間がつけた足跡に等しい。消え行く人間達の記憶は、浅利には快く感じられた。
この廃屋も、浅利は好きだった。
浅利は電車を乗り継ぎ、九藤の家まで行った。マンションの入り口で、インターフォンを押す。かなりの間があって、九藤の返事があった。
『…浅利か。入って』
浅利はエレベーターを使って九藤の部屋まで行った。マンションの廊下は高級感があって清潔だった。しかし浅利は特に良い印象を持たなかった。
九藤の部屋の前まで行くと、それを見計らったかのようにドアが開いた。姿を見せた九藤は、一昨日会った時よりもいっそうやつれていて、弱々しかった。一言も言葉を発さずに、九藤は部屋の奥へ消えた。浅利はそれに続く。
九藤の部屋は、初めて来た時から何も変わっていなかった。家具の位置や雑誌が放り出されている場所、CDプレイヤーの横に乱雑に重ねられているCDケースの順番まで、寸分たがわずそのままだった。うつになると、何にも興味が無くなる。好きだったものも好きではなくなり、何をするにも億劫になる。何もしなくなるから、部屋は変わらない。
九藤は、いつも通りベッドに横になった。そうすると、いくらか楽になるらしいのだ。浅利はそれもまたいつも通りに、コートを脱いで椅子に座った。そして、長い沈黙が続く。これもいつも通りだ。
九藤の様子は、まるで風前の灯のようだった。前会った時より、さらに痩せた気がする。
「九藤、ご飯は食べてる?」
浅利は訊いたが、九藤は答えなかった。また無言の時間が始まる。かなりの時間が経ったあとで、九藤が口を開いた。
「浅利…」息が苦しそうだ。
「何?」
「僕、浅利には、感謝、しているんだ」
言葉を細かく区切りながら言った。浅利は「どういたしまして」とだけ言った。
九藤はのろのろと起き上がり、壁に背中をもたれかけながらまた言った。
「僕は、もう、君無しでは、生きていけない」
「九藤…」
「君が来てくれるっていうだけで、僕は生きている」
浅利は九藤の目を見て言った。「九藤は、きっと良くなるから」
何も言わずにまた九藤は横になった。浅利は彼の女より女らしい細面を見ながら、自分に嫌気がさした。こんなにやつれた彼を自分は…。
「浅利、テーブルの上を、見てくれ」
言われた通りにテーブルを見た。そこには積まれた雑誌と、鍵が置いてあった。
「見たけど」
「そこに、鍵があるだろう?」
「うん」
「この部屋の、合鍵だ」
九藤はマンションに入る時の暗証番号も浅利に告げた。
「どうして?」浅利は疑問を口にした。
「いつでも、来ていいから。ノックも、いらない。そうした方が、安心するんだ」
九藤はもう、インターフォンに対応したり、ドアを開けたりすることすらできなくなってきているのかもしれない。彼は寝返りを打って、また何も喋らなくなった。
浅利は、九藤が好きだ。
そんな自分が、嫌いだった。




