二十二話 十二月二十七日
十二月二十七日
浅利は九藤と二人で部室へ向かっていた。神楽坂に会うためだ。神楽坂の知人から、彼がそこにいることを聞いていた。
一階のバルコニーで九藤と待ち合わせをして、一言挨拶を交わしてから二人はまったくの無言だった。原因は九藤にある。彼のうつ病は重度を増しているように思えた。表情は鉄のように変わらず、目はうつろで、背中は丸まっていた。
部室に着くと、浅利がドアを開けた。暖房による暖かい風が顔にあたった。
「ん?何だ、二人とも。久しぶりだね」
神楽坂は、テーブルに座り、片手で雑誌をめくりながらコーヒーを飲んでいた。彼は立ち上がると、コーヒーメイカーが置いてある棚に歩いていった。「コーヒー入れるよ。二人とも、飲むよね?」
「うん、ありがとう」浅利は肯定した。九藤を見るとコーヒーなど飲んでいる場合ではないようなのだが、もしかしたら暖かい飲み物が彼の心を落ち着かせるかもしれないとも思った。
神楽坂はテーブルに戻ってきて再び座った。「君達も座りなよ」
浅利と九藤は黙ったまま、神楽坂の向かい側に隣り合って座った。神楽坂は足を組んで、椅子の背もたれにゆったりともたれかかりながら、言った。
「さて、今日はどうしたんだ?サークル活動がある日じゃあないけど」
浅利は九藤の顔を見た。彼の息は少し荒くなってきており、明確な言葉を発するのは億劫そうだったので、浅利が代弁した。
「九藤が、あなたに相談があるって」
神楽坂は微笑みながら眉を上げた。「ほう。どんな相談?」
この返答は九藤が自分でしなければならなかった。彼の人格の根幹に関わる問題なのだ。しかし九藤は長い時間沈黙していた。うつ病になれば、誰でも上手く話しができなくなる。浅利は根気強く彼が話しだすのを待った。
神楽坂も、返事を催促したりしなかった。彼は相手の心の流れを汲んで柔軟に対応できる人間だと思う。九藤の様子を見て、待ったほうがいいと思ったのだろう。
それから五分が経過したところで、やっと九藤が口を開いた。
「僕は…」彼の声はかすれていた。「死は終わりだと思っていました」
「ほう」優しい音色の声で神楽坂は相槌を打った。
「でも、わからなくなったんです。神楽坂さんから、あの話を聞いてから…」
「あの話とは?」
「ロザリア・ロンバルドの話です」
蝋人形美術館で神楽坂が話した話だ。それは浅利にも驚きを与えていた。人間が、生きている姿のまま死んでもそのままでいるなど、考えたこともなかった。
「ロザリアの写真、見たんです。綺麗だった。たしかに、美しかった」
「それで?」
「僕は今まで死にたくなかった。死ぬのが恐かった。でも僕は人間のクズなんだって思うたびに、衝動的に手首を切ったんです。何度も」
神楽坂は表情を変えなかった。笑みを崩さずに、九藤の言葉を待っていた。
「切るたびに、あと一歩のところで力が抜けてしまって、死ねなかった。本当は死にたくないと思っていたんです。死んだら消えてしまう。僕は何の役にも立たないでくの坊だけど、消滅してしまうのは恐かった」
たどたどしく九藤は言った。神楽坂はうんうん、と頷いて聞いている。
「どうして人間は生まれてくるんだろう。どうせ死ぬのに、どうして。毎日そればかり考えていました。どうせ死ぬなら、生まれてこなければよかったって。死にたくないって」
浅利はその九藤の言葉にやはり美しさを感じた。彼の過去の話を聞いた時確信した自分の美意識。浅利は自分に嫌気がさした。
「でも…でも…」九藤は口ごもった。そしてまた話し出す。「ロザリア・ロンバルドは死んでもずっと綺麗じゃないですか。八十年以上も、美しいままだ」
「そうだね。あの子は奇跡だ」
「神楽坂さん」
九藤はうつろな目で神楽坂を見つめた。
「死とは、消滅ですか?それとも、永遠なんですか?」
ふー、と息を吐き出すと神楽坂は足を組み替えた。そして穏やかな口調で言った。
「消滅こそ、永遠なんじゃないかな」
「え?」九藤は小さな声を上げた。
「ロザリアは確かに死を乗り越えたのかもしれない。でも、これから先彼女の死体が保存され続けるとは限らない。死とは、人間に与えられた唯一の永遠だよ。だから何も恐れることなんてない」
「それじゃあ、人間は死んで初めて永遠を手にするんですか?美は…人間の美しさは死んだら失われてしまうじゃないですか。それをロザリアは超越した」
神楽坂は目を細めた。「君は、本当は何を訊きたいんだい?」
沈黙が続いた。九藤は何かを考えるように、黙りこくっている。彼はそのうちに、小刻みに震えだした。その様子のおかしさに、浅利は口を挟んだ。
「九藤、大丈夫?」
「僕は」九藤は声を出した。「僕は、死ぬ理由が欲しいんだ」
九藤は突然椅子から立ち上がった。
「どうしたの?」浅利が問う。
「トイレ…だよ」九藤は辛そうに声を出した。
「私も一緒に行こうか?」
「…いいよ。子供じゃないから…」
よろよろと九藤はドアまで歩いていき、無言で部屋から出て行った。神楽坂も立ち上がり、コーヒーメイカーまで歩いていった。コーヒーカップを用意して、それにコーヒーを注いでいる。
「九藤君は、かなり参っているようだね」
こちらを見ずに、神楽坂は言った。浅利はその背中に返事を投げかける。
「かなり、ね。学校に来るだけでも辛いみたい。今日から休みだから助かるけど」
神楽坂はトレイに、湯気が立つコービーカップを二つ乗せて、机に持ってきた。そして、そのうちの一つを浅利に差し出し、浅利の隣にもう一つを置いた。
神楽坂は座りなおし、コーヒーを一口飲んだ。
「ところで君は、どうして九藤君に付き合うのかな?もう恋人同士なのかい?」
「いや」唐突な質問に、浅利は少し動揺した。「違うけど…」
「なら君は、彼と一緒にいる理由があるはずなんだ」
「それは…」浅利は口ごもった。
「何も、恥じることではないよ。君の美意識は、とても素晴らしいものだと思うよ」
神楽坂はすべてを見透かしたように、浅利を不思議な瞳で見た。浅利は何も言い返すことができなかった。この男は、見抜いているのだろうか。浅利の心を。
「サークルのメンバーはみんなそれぞれ美意識を持っている。とても強い意識を。そういう人間を集めたんだ。九藤君も、彼なりの美を掴みたくて苦労している。だから君が助けてやるといい。彼を救うのは君だよ」
浅利は神楽坂の喋りに飲み込まれそうになっているような自分に気が付いた。
「うん…」
浅利はそう言うことしかできなかった。九藤に死んで欲しいと願うことが、彼を救うのだろうか。わからない。自分がわからない。いったい自分はどうしたいのだろう。




