二話 十二月十二日
十二月十二日
九藤望は躁うつ病だった。ある時は、普段は絶対に言えないことが口から出るほどの高揚感に満たされる一方で、ある時は、ベッドから起き上がることすら辛いほど気分が落ち込む。
そう、朝が特に辛いのだ。一番いいのは夕方。日は長い方がいい。気温は暖かい方がいい。だから冬は最悪だった。
「九藤はどう思うんだよ」
東が訊いてきた。九籐は「ごめん、聞いてなかった」と答えた。嘘だが。
「この女がわかってないんだよ」東は浅利を人差し指で指し示した。
「指差さないで」
浅利はそう言うとビールをぐいっと飲み下した。彼女は大学でも噂になるほどの美人だったが、酒の飲みっぷりは見事なものだった。
ここは九藤の家だ。今日はサークルで飲み会をしている。まず居酒屋に行って飲んでから、近くにあるこの自宅で二次会をすることになった。二次会といっても、サークルのメンバー五人は全員出席している。
居酒屋にいた時の喧騒は、うつになっている時には最もわずらわしいものの一つだった。音楽をかけることすら嫌なのに。
しかし今日はどうということはなかった。薬が効いているのか、気分はいい方だ。
窓の外を見てみる。冬は大嫌いだが、雪は好きだった。白が町を覆いつくす眺めは壮観だ。向かいのマンションや、普段は醜い色味を見せているコンビニの看板とか、汚い排気ガスを撒き散らす車たちとか、薄汚れたビルや道端のゲロまですべてが白になる。
白は黒より好きだ。光りを反射するからなのか、いわゆる神々しさを感じさせるからなのか、よく理由はわからない。夏に雪が降ればいいのに、と九藤は思う。
「ゲーテは言った」東はいつもの調子だ。「芸術においては、最善のものに至って、初めて満足がある」
「あなたが言うように、永遠が最善の結果を生むとはかぎらないでしょ」
「生むんだよ、これが」
東はいつも美について語る。彼は永遠の美こそが人間が追い求めるべきものだと主張するが、浅利がそれに反論する。
「失ったものが一番美しいんだってば」浅利は平坦な口調で言った。
「失うべきものを失わせなければいい」
「まあまあ、二人とも」
楠木が仲裁に入る。背が小さく子供っぽい彼女もまた、浅利に勝るとも劣らないくらい綺麗だ。
「美しいもの、っていう基準は皆一致してるわけだし」楠木はちらりと神楽坂の方を見た。
「そうそう」九藤がすかさず言う。「わだちではなく、芸術家の足跡こそ芸術だ、ですよね?先輩」
神楽坂はにこやかに頷いた。彼は下戸らしく、酒には手をつけず、買ってきた焼き鳥を串から外して一つずつついばんでいた。
「そう。足跡は雨に流されて消えてなくなる。だからいいのよ」
浅利は言った。彼女は普段ほとんど表情が変わらない。こうして東と議論を交わしている時も、怒っているのか、楽しんでいるのかわからない。東は彼女を陰で鉄面女と呼ぶ。
「違うって。足跡はなんとかして保存すればいいんだよ」
「まあまあ」楠木は二人をなだめる係だ。
「だから九藤はどう思うんだよ」
東の問いに九藤はしばし沈思黙考した。
「うーん、僕はどちらかといえば東派かな」
「ほら!」
何がほら、なのだろうか。九藤は別に自分には発言力はないと思う。
「そういえば、大学の近くに蝋人形美術館ができたらしいね」
神楽坂が久しぶりに発言した。話題を変えたいのか、あまり関係のないことだ。
「そうだ!蝋人形を見れば浅利も考えが変わるだろ」
東はあくまで浅利を説得したいようだ。
「どうして?」楠木が訊いた。
「人間って、死ぬだろう?蝋人形は死なない。そういうことだ」
浅利はジョッキをテーブルに置いた。「火をつけたら溶けるじゃない」
「屁理屈だ」
東以外の四人は笑った。大学の数多くあるサークルの中でも、これほど笑わない人間たちが集まるものは珍しいだろう。しかし東がやり込められるとなぜかいつも笑いが起こる。
「神楽坂さんも彼女に何か言ってやってくださいよ」
「私がいつあんたの彼女になったのよ」浅利は憤慨する。
「そんなこと言ってないって。酔ってるのか」
神楽坂はウーロン茶を一口飲むと、うーん、と唸った。
「そうだね」全員が彼に注目する。「ゲーテは言った。芸術も人生と同じく、深くいりこめば入りこむほど、広くなるものである、と」
皆彼の次の言葉を待った。神楽坂はいつだって適切な答えを九藤たちに与えてきた。このサークルの人間たちは、彼のいわゆるカリスマ性に惹かれてここにいると思っている。
「枝葉末節だよ。芸術は広い。自分の美を追求するほど、それを痛感しなければならない。探せば探すほど、探しにくくなることを」
五人は黙った。
「つまり」東は言った。
「どういうこと」浅利が言う。
「先輩は君たちを叱責してらっしゃるのです」
九藤はそう言ってみた。すると東と浅利が同時に睨んできた。
神楽坂は意外な形で続けた。「でも僕も同じだけどね。芸術を究めたわけじゃない。どちらかといえば、東君の意見に近いかな。不可能を追求するのは興奮するから」
「ほら!多数決。俺の勝ち」
東が調子に乗るとなぜかいつも全員が黙る。彼は決して嫌われているわけではないのだが。
浅利が据わった目で楠木を見つめた。「あんたはどうなの」
「え、あたし?」浅利はじっと楠木を見つめ続ける。「あ、あたしは…浅利ちゃん派、かなぁ…」
「あ、嘘だぜ。前話した時は俺派だって言ってた」
楠木は口に一指し指を立てて、しーっ、というポーズをとる。
「なんだなんだ、そういうこと。私は一人ぼっちってわけ」
それからしばらく、浅利のご機嫌をとるために時間が費やされた。
神楽坂が「カラオケにでも行こうか」と言ったので、五人は外へ出て、街の方に歩いていった。彼は一向に機嫌が直らない浅利に気を使って、提案したのだろう。
外は雪が降っていた。吹雪いているわけではなく、かといって小降りなわけでもなく、煮え切らない天気だった。しかし街灯や店の明かりに照らされた景色やはり真っ白で、この寒さがなければいい気分になれそうだった。
「どうせ私は」
さっきから浅利は無表情でそればかり繰り返している。感情を表すことが少ない割りに、案外繊細なのかもしれない。楠木がしきりに元気付けようとしている。
神楽坂は寒そうに身を縮めて白く舞う息を出しながら、その様子を父親のような優しい目で見守っていた。彼はサークルメンバー達の精神のよりどころのような人だ。彼が言う、芸術の話や、ゲーテの言葉など、メンバーに与えている影響は大きい。九藤も、その知性溢れる言動と振る舞いに感服している人間の一人だ。酔った浅利も、神楽坂に絡むような真似はしなかった。神楽坂はいつもどこか超然としている。
東はというと、浅利の機嫌などどこ吹く風か、関係ない方向を見ていた。九藤もそちらを見てみると、遠くの街路樹の近くできゃっきゃと騒ぐ若い女性のグループが目についた。
その中の一人には見覚えがあった。
立花佳織。同じ大学の三年生だ。
彼女は芸能人だ。在学中にタレント発掘のオーディションに合格した、今売り出し中の女優だ。日中やっているマイナーなドラマにちょくちょく出演しているのを目にしていた。
九藤は一年生なので聞いた話だが、彼女は芸能人になる前から学校では有名な美人だったらしい。白い肌、美しい黒髪などの美点は男たちを奮起させたが、ことごとくあしらっていたとか。
東も彼女を見ているのだろうか。ファンなのか。
そう思って彼を見てみると、背筋に何かぞっとするものを覚えた。
彼の目は、今まで見たこともないほど歪んで見えた。その視線は遠くにいる立花を打ち落とそうとしている狙撃手のようにも感じる。
先ほどまで会話していた時のような軽快さ、軽薄さは微塵も感じられない。
しばらくすると、立花たちは姿を消した。同時に、東は九藤が見ていることに気付いたのか、「どうした?」といつもの表情で訊いてきた。
九藤は「なんでもないよ」と言って、まだぶつぶつ言っている浅利の方へ体の向きを変えた。
後ろから東が話しかけてくる。
「最近なんか物騒だよな。若い女を狙ったひったくりが多発してるそうだ」
彼の口調はいつもどおり軽い。九藤は先ほどの東の様子は気のせいだったと思うことにした。




