一話 一月二十一日
一月二十一日
地引智に会いに来る人間達はたいてい、片方は生きていて、片方は死んでいる。
今日もまた、生きている人間が死んでいる人間を連れてきた。その組み合わせこそ地引にとっては珍しくなく、何の感傷も抱かせるに至らないが、彼に面会を求める者自体は久しぶりではあった。
蛍光灯が一本切れているようだ。
午前一時頃、玄関から入ってすぐ左側の応接間のソファーに座り、地引は一人の若者と向かい合っていた。薄暗く狭い部屋の中は埃っぽく、たまには掃除をした方がいいな、と思った。小さいテーブルとソファーしかないのに、どこか雑然とした雰囲気を漂わせているのは、自分の家の部屋ながら不思議だった。
「ここが病院ではなく、火葬場でもなく、墓地でもないことは、君はもちろん知っているだろうね?」
若者はこくりと首肯した。その顔に生気はなく、まるで死人が死人を連れて歩いているような錯覚を与え、これは映画にでもすればいい、と地引は思った。
うつむきながら指をまごまごと動かしている客人を見ていると、この仕事を始めて間もない頃を思い出した。あの頃は客はさることながら、地引自身も怯えた犬のように振舞ってしまったものだ。
若者は顔を上げて言った。
「あの子は…今どこに?」
明度が不足した蛍光灯の明かりが若者の顔を照らし出すと、地引はつい美しい、と感じてしまった。いや確かに客人は美しかった。
「今は別の部屋にいるよ。心配しなくていい。責任を持って保存している」
若者の顔が若干安堵の色に変わった。
「君がここに来た理由はわかっているつもりだが、一応訊いておこう。君はあの女性をどうしたいんだ?」地引は言った。
「どうもしたくない。どうもなって欲しくないんです」
「なるほどね」
思いの他若者の言葉は力強かった。自分自身を鼓舞するスポーツ選手と似ていなくもない。ただその目はどこを見ているのかわからず、視線が空中をさまよっているようだ。
美しい客人はまた強い口調で言った。
「できますか?まだ信じられないんです。あの子を綺麗なまま、永遠に存在させ続けられるなんて…」若者は間をおいた。「夢みたいです」
「できるとも」
若者は初めて笑みを見せた。「素晴らしいです。あなたは偉人です。教科書に写真つきで載るべきなんです」緊張がほぐれたのか、口が滑らかになる。
「まあ、ただそれにはいくつかの制限、ないし障害がある。説明を聞いてくれるね?」
「もちろんです」若者はやっと地引の目をまっすぐに見た。
「まず一つ。ミイラを作るにあたって、君はそれを保管する場所を持っていなければならない」
「平気です。家は広いですから。誰にも見つからずに保管できますよ」
「死体を私に預けてとんずらするやつが結構いるんだが、その気はないね?」
「大丈夫です」
「次、この契約通りに仕事を遂行すると、私は死体等損壊罪、君は死体等遺棄罪などに問われる可能性がある」
「それも承知の上です」
「そしてミイラの形体の問題がある」
ミイラを作るには、何種類かの方法がある。一つは、最も原始的な方法で言うと、自然乾燥だ。高温で乾燥した場所に八ヶ月程度放置する。すると自然と乾燥したミイラが出来上がる。
もう少し高度なもので言うと、エジブトのミイラのように、内臓や脳などの腐りやすい部分を取り出して、没薬等を詰め込み、染み出た体液を吸い取り、乾燥を助けるために全身に包帯を巻く。
だがほとんどの顧客はこれらの方法を選ばない。彼らの目的は、不幸にも死んでしまった愛する人を、生前の姿のまま保存したいというものだからだ。とすると、ミイラらしいミイラではその目的を果たすことはできない。
「だから普通は別の方法をとる。まずはエンバーミングという技術だ。遺体の血を抜き、そのかわりにホルマリンを主成分とした保存液を流す。すると一週間から二週間は腐敗を遅らせることができる。土葬のアメリカなどでは一般的な手法だ。そしてその保存液を定期的に交換することで、二週間どころか半永久的に死体を腐らせることなく綺麗なまま保存できる」
「知っています」
「だがこれは手間と費用がかかりすぎる。他にも一年半に一度、死体を特殊な溶液に浸すことで綺麗に保存するという方法もあるが…」
「レーニンのミイラ」
若者は、やけに高揚感を匂わせるような表情でじっと地引を見つめた。地引は少し面食らうが、構わず続けた。
「そう。よく知っているね。ロシアのレーニンは、その方法でミイラにされて、今もレーニン廟に展示されている。だがこれもメンテナンスが必要だ。だから私はもう一つの方法を勧める」
「ロザリア・ロンバルド」
まただ。若者は、先ほどまでの不安げな表情を一変させて、まるで薬物で覚醒したかのようにはっきりとした目で地引を見つめた。だが依然として死んでいるような顔色をしている。この若者は他の顧客とはどこか違っているような気がした。地引は続ける。
「ああ、そうだ。死体を保存するには屍蝋化という方法がある。脂肪が水と化学反応を起こすとことによって石鹸のようになることを利用する。そうすれば死体は腐敗しない。保管方法に気をつければメンテナンスもほとんど必要ない」
「でも本当にできるんですか?屍蝋化ってすごくめずらしい現象なんでしょう?」
若者は地引から目をそらさず、はっきりとした口調で言った。
「通常のミイラの逆に、低温多湿の環境を綿密に計算すれば不可能ではない。世界で研究者は皆無に等しいが、私は成功率を八割程度まで上げることに成功した」
ここで若者の表情がかげった。
「失敗することもあるということですか?」
「それは仕方のないことだ。そうなった場合は代金は返却する」
若者は腕を組み、考えるそぶりを見せた。だが地引はわかっている。ここで諦める客は今までいなかった。この者もそうだろう。
「わかりました。代金は…?」予想通りだ。
「三千万。現金でだ」
「用意します」
「いや、まだいい。遺体の状況を確認しなければならない。それと、了承してもらいたいんだが、屍蝋化を選ぶ場合、内臓を摘出するためにへその横に小さな穴を開ける必要がある」
そう言うと、若者は再び顔を下に向けた。
そして突然、右手を髪の毛の中に突っ込んで掻き毟り始めた。
がりがり、がりがり。
地引はその様子を冷静に観察した。たしかに普通に考えれば、ミイラを作る算段をしているこの状況は甚だしく異常だ。今までも激しく取り乱す客を何度も目にしてきた。
故人を思い、激しく泣き崩れる者、地引の冷淡な口調に怒りを覚える者、死体処理の方法の説明に吐き気をもよおす者。
しかし――蛍光灯の残り二本のうち一本が明滅し出した――しかしこの若者は何かが違う気がする。落ち着きなく手を動かしてみたり、突然明瞭な話し方をしてみたり、そして今。
取り乱し方が違う。タイミングが違う。何かが違う。
「傷つけたくないんですよ…」
明滅していた蛍光灯が切れた。部屋の中はさらに暗くなり、若者の表情も上手く読み取れなくなる。
「気持ちはわかる。だが成功率を上げるためにはやむを得ない。それに完成すれば服を着せて隠せる」
がりがり、がりがり。
暗くなった今、若者の頭部から聞こえるその音だけが部屋を満たしている気がした。
「死斑…っていうんですか?」
消え入りそうな声を客は出した。美しい顔が良く見えないからか、不気味さだけが際立っているように思える。
「あの子の体、ちらっと見えたんです。赤い斑点がたくさん…ねえ、地引さん、あれって消えるんでしょう?」
「残念だが消すことはできない」
黒いワゴン車の後部座席に寝かされて運ばれてきた女性の死体は、死後硬直をしていなかった。それなのに死斑(死んだ後に、血液が体の下部に溜まって出る痣のようなもの)が出ているということは、硬直が解けるほど時間が経っている死体ということだ。
出て間もない死斑は押せばその間消えるが、それくらい時間が経ってしまえば、色素が沈着してもう消えない。
「しかし死斑はそれほど目立たない」仰向けに死体を寝かせていた場合、背中に集まるからだ。「それにさっきも言ったが服を着せれば見えない」
ダン!
若者が机を叩いた。「それじゃあ…だめなんです」地引は驚き若干戸惑った。
「わかった。へその横の穴の件はなんとかしてみよう。だが死斑は難しい」
若者は、今度は両手で頭を抱えながらがりがりと掻き毟っている。「綺麗なあの子の体に…あんなに醜い痣が…体中に…ああ!」
ダン!ダン!ダン!
若者は狂ったように机を叩き続けた。闇に映るその姿は実に恐ろしげだ。だがこちらが度を失っては話が進まなくなる。
「落ち着くんだ。死斑もなんとか消せるよう努力しよう」
当惑しながらも冷静を装って地引がそう言うと、発作が治まったように若者は静かになった。この若者はいったい何なのだろうか。情緒不安定も甚だしい。
若者はしばらくすると、落ち着きを取り戻したのか、自然な声色で話し始めた。
「地引さん」
「なんだ?」
「わだちじゃないんです。わだちでは」
「わだち?」
意味がわからなかった。
「わだちではなくて、足跡…芸術家の足跡です。そう、たとえばミケランジェロの足跡は、永遠に保存されるべきだった」
「よくわからないが」
突然何を言い出すのだろうか。
「彼が食べ残した夕食の跡とか、朝起きた時のベッドの乱れ方とか、そういうものが一番自然な芸術なんですよ」
暗さで相手の顔が見えない分、話の意図をくみ取りにくい。地引は手探りの状態でこの若者の言葉を聞いていた。会話は続く。
「美しい女性に欲情する男は変態なんです」
話の方向性がわからない。
「そうなのか?それは普通のことのような気がするが」
「それが間違っているんですよ。美しい女性はそれだけで芸術なんです。自然な芸術です。ミロのビーナスをみてマスターベーションをする人間は変態でしょう!」言葉にこれでもかというぐらいに熱がこもっている。「ああ、最も美しい時期の女性を永遠に保存することができたら…それこそ幸せだと思いませんか?」
地引は生前の姿を留めることに人生を燃やしてきた。だからこの客人の意見には賛成なのだが、何かがひっかかる気がする。
「ゲーテは言いました」若者は続ける。「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものをしずかに崇めることである」
――消えた蛍光灯がまた明滅しだした。「あなたは究め得ないものを究めた人です」
それは地引を褒めているのだろうか。彼は返す言葉が思いつかなくて黙った。
――明滅した蛍光灯が再び光りを取り戻した。若者の顔が照らし出される。その目は爛々と輝き、地引をじっと見つめている。
この若者は少し精神的な病を患っているのかもしれない。わけのわからないことを延々と口走るのも、そのせいなのだろうか。
あまり刺激してはいけないと思い、努めて冷静にこの若者の話を聞いていた。子供をあやすように、相槌をうちながら。
だがもうこの客は帰した方がいい。心が落ち着き冷静になるまでの時間が必要だ。
「君、もう帰った方がいい。彼女をミイラ化する準備もあるし、これ以上ここにいても無意味だ」
若者はじっと地引を見つめたまま「わかりました」と頷いた。
立ち上がり、お辞儀をすると、そのまま部屋から出て行った。地引は窓へ近寄って、客の帰りを見守る。
雪はもう止んでいた。黒いワゴンが、たっぷりと雪を積もらせた木々の間を、黒い煙を上げながら走り抜けていった。山奥の深い闇をヘッドライトが照らす。
地引は何か胸騒ぎを感じていた。




