第一話:佐和山の隠居、大坂の迷走
佐和山の山頂付近は、今日も平和だった。
かつて天下の行く末を案じて眉間に皺を寄せていた石田三成は、今や麦わら帽子を深く被り、鍬を握りしめていた。
「この土の乾き具合……。これなら当帰の根が良く育つはずだ」
三成は呟く。かつて兵糧の計算に費やした緻密な頭脳は、今や薬草の生育予測という極めて個人的な領域でフル活用されていた。
その時、麓から慌ただしい馬の嘶きが聞こえてきた。
「……またか」
三成は溜息をつき、鍬を置いて縁側へ向かった。
やってきたのは、大坂からの使者――というより、ただの追い剥ぎのような形相をした福島正則だった。
「治部! 治部少輔はおるか!」
正則は、甲冑を汗だくにして怒鳴り散らしている。
三成は縁側で冷えた井戸水を啜りながら、呆れたように言った。
「騒がしいな。喉が渇いたなら茶くらい出そうが、喧嘩を売りに来たのなら他所へ行け。ここはもう、天下の論戦場ではない」
「誰が喧嘩などするか! ……いや、するかもしれんが、今はそんな場合ではない!」
正則は、懐からボロボロの巻物を放り投げた。
中身は、大坂城の兵站報告書だった。
「見ろ、これだ! 算用が合わん! 淀の方様からの御下賜金が、どこでどう消えたのか計算が合わんのだ! 奉行連中も皆、帳簿を見て『わからん』の一点張りだ! 治部、貴様がいないと、我らは明日の米も食えんのだぞ!」
三成は巻物を一瞥もせず、庭の猪の罠を確認しに腰を上げた。
「知らん。お前たちが『邪魔だ』『死ね』と言ったのだろう。望み通り去ってやったのだから、せいぜい飢えて飢えて、餓死すればいい」
「なっ……! 貴様、それでも義を重んじる男か!」
「ああ、今の俺の義は、この薬草を枯らさないことだ。帰れ。次は罠に猪ではなく、お前を捕まえてやる」
正則は悔し紛れに「覚えていろ!」と叫んで去っていったが、三成の耳には、遠ざかる馬の蹄の音も心地よいBGMにしか聞こえなかった。
一方、その頃の大坂城・評定の間。
家康は頭を抱えていた。
目の前には、三成が去った後に残された「計算が不明な書類の山」と、空っぽの金庫の鍵がある。
「殿下、兵糧の支給が滞っております。関ヶ原……ではなく、各地の守備兵たちが食い扶持がないと騒いでおります」
本多正信の言葉に、家康は遠い目をした。
「治部がいれば、今頃は完璧な補給計画を立てていたろうな」
「左様でございますな。彼は嫌われ役を買って出るのが、あまりにも上手すぎた」
家康は深く、深く沈黙した。
権力を奪い、三成を追い出したのは自分たちだ。
しかし、これほどまでに「有能な官僚」がいなくなることで、組織が脆弱になるとは。
「徳川殿、やはり……拉致ってでも連れ戻すべきでは?」
福島正則が血走った目で提案する。
「……ふむ。しかし、あの性格だ。力尽くで連れ帰れば、意地でも計算を間違えるだろう。……誰か、三成が一番喜ぶ『報酬』で釣れる者はいないか」
家康の問いに、部屋中の武将たちが沈黙した。
三成が欲しいもの。名声か? 領地か? いや、あの男はそんなものには興味がない。
「……奴、佐和山で猪を追っているそうだな」
誰かがポツリと呟いた。
その瞬間、戦国武将たちの間に奇妙な連帯感が生まれた。
「ならば、極上の猪の罠か?」
「いや、薬草の珍種か?」
こうして、天下を分ける戦いは終わり、奇妙な「接待勧誘戦」の幕が切って落とされたのである。
大坂城の武将たちが、三成を連れ戻すために「佐和山・癒やしの大作戦」を練り始める一方、佐和山では三成が、ようやく獲れた猪の肉を焼きながら、最高の昼寝の準備を整えていた。
「……さて、次はどのあたりで昼寝をしようか」
天下を捨てた男の日常は、まだまだ波乱の予感に満ちていた。




