プロローグ 石田三成の、ちょっと平和な歴史
プロローグです。
大坂城、伏見屋敷の緊迫した空気。
廊下の先から響く怒号は、聞き慣れた七人の武将たちの声であった。
「治部少輔!貴様の独断専行は目に余る!」
「家康殿を暗殺しようとしたなど、言語道断!」
扉の向こうでは、加藤清正が血気盛んに叫んでいる。
彼らが求めているのは、三成の首か、あるいは権力からの完全な排除か。
その時、石田三成は、執務机の前で深く深く、溜息をついた。
計算、工作、根回し、兵站、徴兵、恩賞の調整。
豊臣の未来のためにと、不眠不休で走り続けた数年間。だが、返ってくるのは憎悪と、疎外感と、身勝手な不平不満ばかり。
(……ああ、そうか)
三成はふと、窓から見える青空を見上げた。
皆、俺がいなくなればいいのだ。俺の「理」が、彼らの「情」を害しているのなら、俺が去るのが最大の合理ではないか。
「……もう、知らん」
三成は筆を置いた。
墨が乾くのを待つことすらせず、彼は懐から煎餅を取り出すと、バリリと音を立てて齧った。
「誰か!」
近習が恐る恐る顔を出す。
「直ちに荷をまとめよ。佐和山へ帰る。もう二度と、この城の敷居は跨がぬ」
数日後。佐和山城。
「殿……本当に、戻らないので?」
「戻らん。今日からは、薬草の栽培と猪の討伐が我が主務だ。政務?知らん。徳川殿にでも丸投げしておけ」
三成は無造作に髪を解き、農作業用の服に着替えた。
かつての理知的な石田治部少輔の面影はそこにはない。
あるのは、草木の匂いに囲まれて昼寝を楽しむ、ただの隠居人の姿だった。
その頃、大坂城では。
「……で、この勘定は誰がやるのだ?」
徳川家康が、書類の山を見下ろして呆然と呟いた。
三成が去った途端、豊臣家の政務は完全に麻痺していた。
誰がどこに兵糧を送るのか、誰に恩賞を出すのか、家臣たちの給金の計算は誰が行うのか。
「知らん!そんなこと、全部治部がやっておったのだ!」
福島正則が喚く。
しかし、彼は数字の羅列を見るだけで頭痛を起こす質だ。
浅野幸長も、黒田長政も、口を揃えて言う。
「治部がいれば、こんなことは!」
大坂城の広間は、いまや政務の場ではなく、ただの迷子たちの集会場と化していた。
食料の補給が途絶え、兵たちの士気は下がり、あちこちで小競り合いが起きている。
「治部がいないと政務が回らん!」という悲痛な叫びは、もはや城中の合言葉となっていた。
佐和山の昼下がり。
三成は縁側で、心地よい風に吹かれていた。
足元には、昨日仕留めたばかりの猪の肉を干している。
「ほう、随分と騒がしい鳥だな」
遠くから、使い番の馬の嘶きが聞こえる。
おそらく、「戻ってくれ」と頼みに来た使者だろう。
三成は目を閉じ、ぐっすりと寝返りを打った。
天下の行く末など、今はどうでもいい。
目の前の薬草が元気に育ち、干した猪肉が美味くなれば、それが今の三成にとっての「天下泰平」であった。
義の男は、こうして歴史の表舞台から消え、代わりに、日本一贅沢な昼寝を楽しむ隠居として、末長く幸せに暮らしたという。
豊臣家がその後どうなったかは……さて、誰が計算するのやら




