A.D 2048/04/12
自分の過ちを残すのは良くないこと。
「―――以上、ラポトロン社についてのニュースでした。なお、現在AVTシステムは国の管轄下に置かれ、安全に運用されています…では次のニュースです。ネパール政府はエベレストへの民間立入りを禁止し……」
夜の公園で一人、ニュースを見ていた。
けれど一月もすればどんな事件だってもう国民の頭からは隅っこに押しやられ、マスメディアも金にならないのか殆ど報道しない。
今眼の前のウィンドウで無表情に喋っているキャスターだって、喉元すぎればと言わんばかりに、やれ今年限りで花粉被害は無くなるでしょうだの、やれ今年のウナギは高騰するだの。
――ま、そんなもんだ。
多分、俺も彼らの側だったら同じようになるのだろう。
「……11時になりました。皆様、お」
おやすみなさい、と言われる前にAVTの電源を切った。
途端、視界の中に色々と見えていたもの、この公園の案内表示だとか、家までのナビだとか、小さめのデジタル時計だとか、今日と明日の予定だとか、妹から怒号のように送られているメッセージの新着アイコンとか、目の前のキャスターがふっと消える。
風が吹いて、ここ数年で種類が激減したらしい野草の低い背をかき乱す。こんな静かな音も、後何十年で消えてしまうのだろうか。
ガサガサとビニールの音がすぐ横で鳴って、ああそういえばコンビニで肉まん買ってたんだったと思い出した。冷えないうちにと肉まんを取り出して、ふと顔を上げる。
うるさいものが見えなくなった視界では、半壊させられた3本のビルの上に、ちょうど乗っかるように満月がよく見えた。
――
夢を見ていた、ような気がする。
とても懐かしいような、まるで大人になった自分が子供の頃をふと思い出したような、そんな夢。
うっすらと目を開けて顔を上げると丁度、授業が終わりそうなところだった。なるほど、苦手な公民で寝てしまったか。
日直が号令をかけ、教師が足早に教卓を去ったところで大きなあくびをひとつ。それと同時に後頭部へ軽い衝撃が走る。
「ぐっすりだった? テストで泣いても知らないよ?」
振り返るとセーラー服に身を包んだ少々小柄な少女が、ノートを持っていたずらな笑みを浮かべながら見上げている。さっきのは、それで叩いたんだろう。
少女は、はいこれ、と言ってそのノートを渡してきた。表紙にはちょっと緩めの"公民"の文字。
「おー...ありがとう、葉月」
そう言ってありがたく受け取ると、彼女は得意げな顔をする。実際自分の机の上にあるのは白紙のノートなので、こういう時の葉月ノートは最強兵器と言っても過言ではなかった。
「で、柚樹? 私久しぶりにプリン食べたいなあ」
当然、タダではないんだが。
掃除、HRと時間が過ぎ無事放課後となる。
2年生以降は部活動を強制されていない。故に、3年である柚樹は学校が終わると気の向くままに帰るか学校で時間を潰すかしている。
3年といえどまだ4月、高校受験の大事な年と分かっているけど中々実感がわかないものだ。
家でやる分、置き勉する分と教材を分けていると視界の端に新着メールのポップアップ。差出人に予想がつくのでそのまま視線操作で開く。
From : 姫乃
Sub : ホームルーム終わりました
Body : お兄ちゃんのクラスは終わった? 終わってたら返信くれたら嬉しいな。
もしまだだったらわたしどこかで待っておくね。メールくれたらすぐに行くよ。あのね、お母様からお使い頼まれてるの。お兄ちゃんと一緒に行きなさい、って。だからこの後一緒にお買い物して帰りたいな。だめ? だめじゃないよね。だめなはずないよね。お兄ちゃんと一緒って言われたもんね。一緒に行かなきゃね。あ、頼まれたのは豚のミンチとぶなしめじとお豆腐。お兄ちゃんしってる? ぶなしめじは選び方があるんだよ。しっかり美味しそうなもの選ばなきゃいけないから、二人でいこうね。お兄ちゃんと二人ならわたし大丈夫だから。それじゃあ、今から向かうね。
「...ふう」
いつもだけど、長いなあ。
柚樹が両目を伏せ、額に手を当てていると帰る準備を終えたのか葉月が横に来た。
葉月も部活は既に引退しており、彼女は家が病院のため志望校に向けて猛勉強中...のはずである。
「どしたの? メール...って、姫乃ちゃんかぁ」
「...ああ」
同じように手術を受けた者ならば、この画面を共有できる。柚樹の肩越しに見た葉月は、納得、と言った風に短く息を吐いた。
「こりゃ、撤退かな...でもうぅむ、柚樹のプリン食べたいな...」
腕を組んで真剣に悩みだす葉月。
「...葉月なら...いいんじゃないのか」
妹にとって見知らぬ他人が同行するなどということになればそりゃもう彼女にとっては地獄だろうが、葉月ならまだ大丈夫だろう、と思う。
ちなみに、葉月がさっきからこだわっているプリンというのは柚樹がたまに作るお菓子の中の一つ。昔、初めて作った時に毒味と称して葉月に食わせた所何気に気に入ってらっしゃるのだ。それ以来、こういう時によくせがまれる。
「い、いや...むしろ私だからダメというか...いやでもプリン...!」
「...プリンは逃げないさ」
そこまで苦悩するならまた今度でもいいんじゃない? と含めて言ってから、妹にメールを返そうと視線を戻す。
その途中で、扉の影から人もまばらになった教室をじっと覗いている姫乃と目があった。
「...」
もう来てしまっていたか。やってしまった。速いよ。
未だ悩んでいる葉月をそのままに、柚樹は椅子を立って微動だにせず立っている彼女へ近づいた。
「姫乃、ごめん。葉月と...」
「...お兄ちゃん、返信、くれなかったね...」
...話してた、と言い切る前に彼女の声が重なった。
とても小さな鈴の音のような、か弱い声。体も弱く、昔から引っ込み思案な姫乃はその低めの身長も相まって本当に小さな存在に見えた。
「お兄ちゃんのクラスから、人が出てくるのが見えたから、わかったの...」
「ごめんね、姫乃。ちょっと葉月と話してたんだ」
そっと姫乃の頭に手を伸ばして、優しく撫でる。結わえられた綺麗な銀色の髪の毛が、震えるように揺れた。
「なに、話して、たの...」
喉から少しづつ出すような声色。
「えっと、俺のプリンが食べたいって。姫乃も食べる?」
コクコクと小さく、でも何度も姫乃は頷く。
「じゃあ、その材料も一緒に買って帰ろうな?」
そう言って柚樹はもう一度彼女の頭をなで、そして手を引いて教室へ戻った。生徒達は殆ど帰ってしまっていたので、姫乃も抵抗なく足を踏み入れていた。
「や、やはー、姫乃ちゃん」
葉月がやや逃げ腰気味に姫乃に声をかける。
けれど、姫乃は何も言わず即座に柚樹の後ろへ隠れてしまった。葉月は幼少の頃から割と一緒にいるので、一番面識あると思うのだが外だとこうやっていつも姫乃は避けてしまう。少しだけ顔を出してじっと見ているのが他の人とは違うところか。
「...だよねぇ」
葉月はいつものように肩を落としていた。
「姫乃。今日は葉月も一緒にいい?」
柚樹の当初の予想は外れてなんだか無理そうだがダメ元で聞いてみる。
彼女は首を振って、ぎゅっと柚樹の学ランを握りしめていた。
「きょうは...二人」
そう聞こえたきり、姫乃は黙ってしまった。
「...あ、あー。柚樹、プリンは明日でもいい? 学校終わったら家に行くよ、材料買わせちゃってごめんね」
「大丈夫だよ。ありがとう、葉月。姫乃もそれでいい?」
姫乃は柚樹と葉月を交互に見て、ちょっと顔を伏せてから、
「...ん」
と頷いた。
**
「姫乃、歩きにくいよ」
昇降口を出たところから姫乃は腕を離さない。それとなく離れるよう促すも、
「...んー」
と全く取り合う気のない返事が帰ってくるのみであった。
一ヶ月前から、ずっとこれである。昔も仲は良い方だと思っていたが、あの事件以来拍車を掛けて接触率・密着率共にうなぎのぼりなわけである。
まあいいか、と思えるから別にいいのだけど。
よく買いに行くスーパーは学校と家を挟んだ途中にある。級友の数人に冷やかされながらも校門を跨いでいつもの通りの道へ入る。
まだ陽は沈んでおらず、4月にしては少々暖かいように感じられた。腕にぎゅっと抱きつく姫乃によって体感1割増なのは言うまでもない。
「...姫乃?」
メールの文面と、今の彼女の足取りからして割と買い物を楽しみにしていた感じがある。だからそんな状態の彼女にこの話題を振るのは如何なものかと過去の経験則によって悩んだのだが、それでも柚樹は言う事にした。
「...なに?」
「葉月とは...外だとまだダメ?」
「...............減点」
点数引かれた。
腕に感じる重圧が少しだけ強くなった。まあ仕方ない。
けれど、もう葉月とは10年ほどの付き合いになる。家にいるとおうち効果のおかげで割と普通に振る舞えるが、外だと家族、とりわけ柚樹以外だとてんでダメなのだ。別に自惚れとかそういうのではない。ガチな方でダメだった。
「...プリン、何味がいい?」
「...抹茶」
「相変わらず...そういえば葉月も抹茶がいいとかさっき言ってたよ」
「.................さらに減点」
さらに引かれた。
葉月との仲を気兼ねなく話せる友人、とまではいかないけどその2歩手前位になって欲しいという兄心5割、あえて葉月の名前を出すことで追い打ちをかける中学生男子心4.5割で話題を振ってみたがやっぱりダメであった。引かれた分はプリンで戻るのだろうか。
「お兄ちゃん」
何を話そうかと迷っていると、今度は姫乃が話しかけた。
「今は、2人」
「......うん」
もう何も言えなくなった柚樹はそれから買い物を済ませ、家に帰るまで妹に逆らうのをやめた。
**
冷蔵庫へと買ってきた物を突っ込み、父が「今日の夕飯はグラタンがいい」などとメッセージをよこしやがったために柚樹はいつもより早めに夕飯作りへととりかかっていた。仕込みから始めるためである。
本来ならちょっとゲームしたり二人で本を読んだり勉強したりと兄が自分に構ってくれる時間な為、姫乃はとっても不服そうに台所に立つ柚樹を見ていた。
それが柚樹に伝わったのか、彼はホワイトソースを作りかけていた手を少しだけ止めてキッチンの戸棚を開ける。
「姫乃。これで我慢」
中からお菓子の袋を取り出して姫乃に渡した。彼女はぷくー、とちょっと頬を膨らませながらもそれを嬉々として受け取る。まあそう、姫乃も甘いもの大好きな年齢なのだ。餌与えられたら仕方ないのだ。
しかもチョコとクッキーで出来たきのこ型とたけのこ型の国民的お菓子である。これには流石の姫乃もリビングへ向かって大人しく椅子に座り、はむはむさくさくと頂くしかなかったようだ。
ホワイトソースが焦げ付かないように、手を休めること無くかき混ぜ続ける。
こんな面倒なことしなくても、今や手作りと何ら変わらないレトルト製品があるのだがそれを使うと我が家の姫様が機嫌を悪くする。悪くすると言っても駄々をこねたりというわけではなく、「これはレトルトだよ」と言った瞬間に悲しみの混じった、朝陽のように淡く夕陽のように儚くも様々な感情を含んだおよそ普通の中学生では年に1度もしないような表情を料理に向けるのである。
しかしそれも数瞬のこと、すぐに”作ってもらったんだからこんな顔しちゃダメ”と自分に言い聞かせるように目を閉じて、そして笑顔を浮かべて一言「いただきます」。
そんな事を5回ほどやられた柚樹はレトルトはもう使うまいと心に決めた。
今では大抵の料理は作れるようになったし、何より姫乃が喜ぶならいいかな。と本人は思っている。シスコンここにあり。
たまに姫乃が手伝うのか手伝わないのか微妙な空気と表情を纏って手伝いに来るのだが、如何せん中学に行きだすまで病弱で家事の殆どは柚樹がやっていたため、所詮家事スキルというやつが低い。
彼女に出来る事といえば兄の差し出す味見皿の中身を舌の上で転がし、ゴーサインを出すことくらいである。それでも彼女曰く、「満足」と。
それを聞いて兄は、満足なら...いいか。と思うのであった。
「....よし」
調理が一段落した。手についた水を拭き取り、オーブンを予熱する。
そういえばさっきのお菓子はまだ残っているだろうか。
リビングに向かうと姫乃の姿はない。兄の為に残しておいてくれたのだろうか、白い皿の真ん中にきのこ型のチョコスナックがひとつ。その周りをぐるりと囲むようにたけのこ型のそれが並んでいた。
....なんだろう。彼女の中で革命でも起こったのかな。
柚樹は真ん中の奴をひょいと掴んで口に放り込む。そういえば二年の社会は歴史だったなぁ。
**
食後。両親と妹から舌鼓を打ってもらった後。
柚樹は自室にて自分の勉強を進めていた。
文系科目がどうも苦手だと発覚したので、今月はそこに的を絞って勉強することにした。紙媒体のノートを取り出して、最強の参考書である葉月ノートを見ながら纏めてゆく。
いい加減ノートも電子版へ完全移行しそうなものだが、この独自に発展し多様化した文房具達を柚樹は案外気に入っている。
どっかの大学の調査とやらでは、電子ノートよりも紙製ノートの方が同じ教科・問題でも得点率が高かったそうだ。自分の手で書くことにより脳が刺激されてなんたらという話ではあったけれど、それ自体ジャンクサイエンス気味な上に書き心地や使用感では紙製と大差なく、何より高効率なので今の時代には合っている。
故に、柚樹の学校ではその双方が導入されており生徒は好きな方を自由に使うというわけだ。尤も、課題提出などで便利なのは電子ノートであるが。
…とりあえず、柚樹は紙製派であり、今も昔も変わらず種類が多くてちっこいモノが好きな女子のように様々な文房具を持っているのである。むしろそれを使いたいがために紙製ノートを使っているのである。彼のペンケースの中はいつもごった返していた。
「...あ」
そんなことを考えていた柚樹はよりにもよってボールペンでの記述を間違えてしまった。
修正ペンを出してきて使うも白い液は出ず、何回か振ってみても、ついには中蓋まで開けてみるが見事なまでに使い切っていた。
ペンケースの中をごそごそと探ってみるが、何か代用できそうなものもなく。
「...困った」
両親の書斎へ勝手に入るのも気が引けるし、妹は電子ノートを使っている。こういう時は、やはりそちらに采配が上がるのだろう。
柚樹は財布を確認し、そして掛けてあった上着を羽織って自室を出る。どうせこれからも使うから、夜だけどコンビニでも行って買ってこようと思ったのだ。
玄関で靴を履いていると、姫乃がひょこひょことやってきて柚樹の後ろへ立つ。
「お兄ちゃん、お出かけ?」
不思議そうな声で聞いてくる。
「うん。修正液が切れちゃってね。ちょっとコンビニ行ってくるよ...何か、欲しいものある?」
割りと日用品も多く置いてあるので、彼女も何か切らしていないか確認する。
コンビニにあるものだったら一緒に買ってこよう。
「...いい...かも。...太るから」
「...そう? わかった」
食べ物というわけではなかったんだけど。
靴を履き終え、姫乃の方を振り返り、「行ってきます」と言う。
「早く帰ってきてね」という声を背中で聞きながら、もうすっかり日が落ちてしまった中に繰り出した。