エピローグ
ローシェはペンを走らせていた手を止め、ふと顔を上げた。光が差し込む窓を見上げると、抜けるようなまぶしい青が見渡す限りに広がっている。春を運ぶ柔らかい風がカーテンを揺らし、ローシェの頬と記憶をくすぐった。
――あの空の果てに行ったのね。
“生命の樹”は、命を賭けた少年と少女の想いによって光を取り戻した。
エネルギーの乱れから生まれた魔獣は少しずつ姿を消していき、戦禍の拡大は収まりつつあったが、大陸では今も戦争が続いていた。森や町が焼き払われ、疫病が流行り、情勢は不安定なままである。それでも和平のために奔走する王女や選帝侯の活躍、乱れた教会を束ねて大陸すべての民を導く青年教皇の逸話を耳にするたび、まだ希望は消えていないとローシェは思った。
物語のように、あっという間に全員が幸せになれるハッピーエンドはない。しかし生命の流れは再生し、世界は新しい未来の可能性を見つけようとしていた。命とは想いであり、想いは願いを生み、願いが命をつないでいく。
だからこそ、ローシェはペンを取った。たとえ時が流れ、いつか記憶が薄れようとも、これまでのことを記して誰かに伝えなければならない。この世界、この時間、この空の下、ともに旅をした少年が確かに生きていたことを。そして、2つの空が交わった短い永遠の思い出を……。
「ローシェ、急がなきゃ!早く行かないと始まっちゃうよ!」
時間を忘れてペンを走らせていたローシェは、いつもの笑顔で走ってくる幼なじみを窓の外に見つけ、顔をほころばせて立ち上がった。
「ふふ、フウちゃん元気だね。よかった」
「……まぁ、ね。今日は、あの日からちょうど1年だから」
あの日から――。
フウリは目を伏せてかすかに笑った。懐かしさと哀しみ、ほんの少しの寂しさが、同じ気持ちのローシェにはよくわかった。この1年の間にもいろいろあったが、少しずつ、だが確実に時間は進んでいるということを、今日というこの日に改めて実感した。
谷の入口で待っていたリッカと合流し、メドウ大草原を西に進んでいくと、2隻の飛行艇が泊まっていた。2つの空賊団の船員たちが、船にリボンをつけたり花を飾ったりと、大忙しに動きまわっている。草原の反対側からやってきたアランと、片方の船の船長エリアーデが、3人に気付いて手を振った。
「おめでとう、エリアーデさん!」
「ありがと。あたしとしたことが、まさかこんなことになるなんてね」
「ハハハ!当然の結果だろ!」
ニヤニヤ笑いながらやってきたもう1つの船の船長、敵対するはずの空賊団を率いるセファスは、無精ヒゲこそきれいにしたものの、ぼさぼさの髪はいつものままで、せっかくの白いタキシードも似合っているとは言い難かった。反対に鮮やかなドレスと化粧が美貌をさらに引き立てているエリアーデを、ローシェ達は憧れの眼差しで見とれてしまった。しかし、調子に乗って肩に手をまわしたセファスは、あっさり振り払われてしまった。
「まーたまた。照れるなよ、エリス!今日からお前はオレのかわいい奥さんなんだからさ」
「言っておくけど、今日からナハツ団はジーク団の傘下になったんだからね」
吸収合併を条件に結婚を承諾したというエリアーデは、どこまで本気なのか、その笑顔に油断はなかった。それでも懲りないセファスは、やれやれとため息をつきながらも、船に戻る新妻の後をうれしそうに追いかけていく。入れ替わりに現れたのは、王都と帝都でそれぞれに連携して反戦活動を行っているはずのアリアドーネとハーシェルだった。普段から多忙極まりないので、まさか来られるとは思っていなかったのだが、2人は知らせを受け取るとすぐに快諾した。
「なんといっても、お世話になった方たちのおめでたい日ですもの」
「それに……彼には礼も別れも言っていなかったからな」
「新しい出発、僕にも立ち合わせてください」
クラウ3世も今日のためにこの地を訪れていた。聖女リア1世にも劣らない平和活動と人望はこの島まで聞こえていたが、元気に微笑む姿を見るとローシェ達はうれしくなった。
「教皇様、もう大丈夫なんですか?」
「ご心配をおかけしました。よく覚えていないんだけど、暗闇の底にいた僕に温かい光が道を照らして、助けてくれたんです」
そばに付き添っていたはずの医師クロードは、曖昧にはぐらかすばかりで、今日も患者の診察があるからと出席を断ったらしい。飄々とした彼らしいと、ローシェはこっそり笑った。そして、神の救いがせめてこの青年だけでも間に合ったことをうれしく思った。
夜を照らす月星と勝利の白鷲を描いた新しい旗がひるがえる2つの飛行艇で、ささやかで盛大な結婚式が行われた。教皇がじかに神の祈りを与えるのは、王侯貴族でさえあり得ない前代未聞のことであるが、教皇自らが進んでこれを申し出た。新郎の弟分ヒスキが酒も飲まずに大騒ぎし、その隣でシャンディが冷めた目で呆れている。じつは前の大戦で戦友だったという前ジーク団船長リオネルと空送屋ファルギスホーン島支部長アーケルは、酒ビンを片手に昔話に花を咲かせていた。
「次は俺たちの番だな、フウリ」
「んー、どうかなぁ」
「えぇっ!?」
「へへ、冗談だよ!」
こちらもすでに尻に敷かれているアランを、フウリがおかしそうに笑ってからかった。どちらからともなく手をつないだローシェとリッカは、くすくす笑い合った。
「そういえばツォレルン様、今日はケセドさんはいらっしゃらなかったんですか?」
「ん?あぁ、彼は教会の仕事で、どうしても抜けられなかったらしい。なぁ、リッカ君?」
ハーシェルはなぜかリッカと目配せをし、アリアドーネまでもが意味ありげに笑っているので、ローシェは不思議そうに首をかしげた。
「さぁ、それじゃ、そろそろ行くわよ」
祝福の輪の中心で輝くばかりに美しい花嫁が、すっと立ち上がった。酒でふらふらのセファスも、ドンチャン騒ぎをしていた両方の部下たちも、そして盛り上がっていたフウリ達も、一瞬で真剣な眼差しになった。
今日はめでたい結婚の祝いだけではない。本来は出会うはずのない、だが本当ならばここにいるはずの少年に最後の思いを伝えるため、彼らは再び空の果てへと飛び立った。
「……1年ぶり、だな」
空の青が終わるところ、アザニウス山脈の上空で壁のように立ちはだかる黒雲と乱気流の渦ぎりぎりまでやってくると、フウリはあのときと同じように船首に立ってつぶやいた。まわりにいる誰かに言ったのか、この雲の上に消えた少年に語りかけているのか、隣で幼なじみの横顔をうかがうローシェにはわからなかった。
「ローシェさん、彼のお兄さんは……?」
青年教皇が小声で尋ねたので、ローシェは小さく首を振った。
「あの後“生命の樹”から戻ってきたのは、フウちゃんとアランさんだけでした。リヒトさんはそのままあそこに残って……たぶん、元の時代に帰ったんじゃないかと思います」
しかし、滅亡の未来は変わったと、神である“生命の樹”が言っていたのならば、彼が帰った未来はどんな世界になっているのだろうか。そして、最後まで誰もわからなかった彼自身の呪いは解けたのだろうか。せめて新しい未来では失った家族に再会できていることを、ローシェは願わずにはいられなかった。
「ありがとう、ソラト!」
フウリが叫んだその言葉、その想いが、すべてだった。みんなでいっせいに投げた花が、風に乗って空いっぱいに舞い上がる。
灰色の世界に生まれた少年が愛した、色とりどりの彩。
孤独だった少年が初めて心から笑い合った、友人たちの声。
永遠に巡る風と、どこまでも広がる空は、場所も時間も超えて思いをつないでいる。花びらにこめた祈りがこの空の向こうに届いていると、誰もが確信していた。
……最後の1行を書き終えたローシェは、すべてを出しきった充足感と、終わってしまった寂しさを感じながら顔を上げた。世界の歴史の中では、ほんのわずかな一瞬でしかなくとも、大切な友人たちとともに旅をした時間はかけがえのない思い出である。
結果として世界を救ったのだとしても、失った命が戻ってくるわけではなく、また未来が保障されたわけでもない。せめて、この真実の物語が少しでも多くの人々に伝わり、少しでも心に残ってくれればと、ローシェは願いを込めて原稿に封をした。
――だって、ソラトさんとまた会えるまで、まだまだ時間がかかるんだもの。
エリアーデが飛行艇で聞いた兄弟の会話、ソラトが最期につぶやいた言葉から、ローシェはすぐに何を意味しているのかがわかった。思えば、あの好奇心旺盛な性格は祖母譲りであり、優しく見守る眼差しは祖父のそれとそっくりである。本人たちもまわりもまるで気付いていないようだが、ローシェはひとり楽しみに、そのときを待つことにした。
少年の願い、少女の想い、数えきれないほど多くの笑顔や涙は、今も世界を支えている“生命の樹”に、確かに届いたのだから――。
これで今回の物語は終わりです。
こちらでの作品は3作目ですが、いかがでしたでしょうか。
次回作のためにも、簡単なご意見をお待ちしています。
現行4作目『竹取の物語詩』と次作でお会いできるのを楽しみにしています!