第72話 帰る場所
目を開けると、見慣れたシャンデリア、見慣れた天井、そして見慣れた――コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
「起きた?」
ベッドの脇には夫が座っていた。
前世で着ていたあのグレーのルームウェア姿のまま、コーヒーカップを片手に私を見つめている。
転生前と何一つ変わらない。
三十歳の顔。
目尻の小さなほくろ。
少し悪そうに笑う、その笑顔まで。
「……戻ってきたの?」
かすれた声で尋ねると、
「ああ、戻ってきた」
彼はコーヒーを置き、私の手を取って起こした。
「ほら、見てみろ」
窓の外から聞こえるのは、街を走る車の音。
遠くでは工事現場の杭打ちの重い音が響いている。
ベッドサイドには私のスマホ。
画面には――転生前と同じ日付。
時間は、たった三分しか進んでいなかった。
「三分……?」
私は呆然とする。
「システムが言ってただろ?」
彼は肩をすくめた。
「異世界の一年が、こっちじゃ三分。だから冷蔵庫のスイカもまだ腐ってない」
思わず笑ってしまう。
私は自分の身体を見下ろいた。
もう太子の身体じゃない。
二十八歳の、本来の私。
プロジェクトで火傷したときの傷跡も、ちゃんと左手首に残っている。
「……小満は?」
「リビングだ」
彼は微笑んだ。
「自分で見てこい」
私は裸足のまま部屋を飛び出した。
リビングでは、小満がカーペットの上に座り込んでいた。
お気に入りのウルトラマンのパジャマ姿。
積み木を握りながら、『ペッパピッグ』を見て、けらけら笑っている。
私に気づいた瞬間、ぱっと両手を広げた。
「ママー! だっこ!」
私は駆け寄り、その小さな身体を思いきり抱きしめる。
あたたかい。
柔らかい。
本物だ。
五歳の、小さな娘。
私の大切な娘。
「ママ」
耳元で小さく囁く。
「さっきね、夢を見たの。お姉ちゃんになって、お妃さまになった夢!」
胸が熱くなる。
「……その夢、楽しかった?」
「うん!」
小満は大きく頷いた。
「でも一番楽しかったのは、パパがお馬さんに乗せてくれて、ママがお話を読んでくれたこと!」
少し考えてから、ぷくっと頬を膨らませる。
「でもね」
「パパってずるいの。ママにこっそりチューして、私には見せてくれないんだもん」
後ろから夫の笑い声が聞こえた。
彼は近づいてきて、後ろから私たち親子をまとめて抱きしめる。
顎を私の頭に乗せながら笑った。
「こっそりじゃないぞ」
「堂々とだ」
「こっそりだもん!」
「はいはい、こっそり」
彼は両手を上げて降参すると、私の耳元で小さく囁く。
「……じゃあ今度は、ママだけ連れてこっそり火鍋を食べに行こうか」
「だめー!」
小満が大声を上げる。
「わたしも行く!」
「この前アレルギー出ただろ?」
「それでも食べるー!」
私は夫の胸にもたれながら、父娘のやり取りを聞いていた。
涙がまたこぼれる。
その時、スマホが鳴った。
画面を見ると、銀行からの通知だった。
【口座(下四桁8888)へ50,000,000円相当の入金がありました。現在の残高……】
私は目を丸くする。
夫も画面を覗き込み、眉を上げた。
「……五千万?」
「システム、本当に振り込んだんだ」
「振り込まれた……」
私はスマホを握りしめる。
「どうしよう?」
「使えばいい」
彼はあっさり言った。
「まずは君が欲しがってた家を買う」
「それから、小満をもっといい幼稚園に入れて」
少し間を置いて、真っ直ぐ私を見つめる。
窓から差し込む夕陽が、その瞳をきらきらと照らしていた。
「残りは――」
「もう一度、君を口説く」
「前の人生で足りなかった分、この人生で全部やり直す」
「デートして、映画を観て、旅行して、ウェディングフォトも撮って……」
「全部最初から」
「でも、私たちもう結婚してるよ?」
「結婚してても口説けるさ」
彼は私の口元にそっとキスを落とした。
「……一生かけて、何度でも」
横で見ていた小満が両手で目を隠す。
「またチューしてる! パパ、はずかしくないの?」
「全然」
彼は平然ともう一度キスをする。
「自分の奥さんにキスして何が悪い?」
私は笑いながら彼を軽く押した。
けれど、その腕はますます強く私を抱きしめるだけだった。
午後の日差しが窓から差し込み、
カーペットを照らし、
積み木を照らし、
そして三人で写った家族写真を照らしていた。
前世で撮った一枚。
私は純白のドレス。
彼はタキシード。
真ん中では小満がウルトラマンのおもちゃを握りしめ、満面の笑みを浮かべている。
私は彼の胸に寄り添い、ふと思った。
転生も。
皇帝も。
太子も。
五千万円も。
そんなものは、もうどうでもいい。
大事なのは――
三人で一緒にいられること。
このありふれた世界で、
ありふれた毎日を過ごせること。
「ねえ、あなた」
私は彼を呼んだ。
「ん?」
「角煮、食べたくなっちゃった」
「今から作る?」
「うん、今すぐ」
彼は私を離し、キッチンへ向かう。
袖をまくりながら振り返った。
「……でも先に言っとく」
「前の人生で真っ黒に焦がしたあれは事故だからな」
「今回はちゃんと練習した」
「何を?」
私が首をかしげると、
彼はキッチンの入口で、いたずらっぽく笑った。
「……君の口説き方」
小満がよちよちと後を追う。
「パパー! わたしも食べるー! 甘めにしてね!」
「はいはい、食いしん坊さん」
私はソファに腰掛け、
キッチンから聞こえる包丁の音、
父娘の楽しそうな言い合い、
そして窓の外でゆっくり沈んでいく夕陽を眺めていた。
そのとき、スマホがまた震える。
画面には――
賢妃からのメッセージだった。
元の世界へ戻ったあとも、システムが「異世界の縁」として連絡先だけは残してくれたらしい。
賢妃:
『殿下! 妾の新作『龍陽東宮・現代編』が出版されました! 一冊お送りしますか?』
私は思わず吹き出しながら返信する。
『いらない。』
すぐに返事が来た。
賢妃:
『うぅぅ、殿下ひどいです……陛下と同じくらい冷たいです……』
私は笑ってスマホを置き、キッチンへ向かった。
夫は豚肉を切っていて、
小満は踏み台の上に立ち、一生懸命お鍋の中を覗き込んでいる。
夕陽が窓から差し込み、
二人の輪郭を金色に染めていた。
「手伝おうか?」
私が声をかけると、
「お願い」
彼は振り返って微笑む。
「エプロン、結んで」
私は彼の後ろへ回り、
腰にエプロンの紐を回して結ぶ。
すると彼はそのまま後ろにもたれかかり、
私をキッチンカウンターへ押しつけるようにして、
キスをしようと顔を近づけてきた。
「パパ!」
小満が頬を膨らませる。
「お肉焦げちゃうよ!」
「まだ焦げない」
彼は平然と言う。
「あと三分ある」
「だからってチューしちゃダメ!」
彼は私だけに聞こえる声で囁いた。
「……一回だけ」
私は笑って背伸びし、
彼の口元へ軽くキスをした。
「はい、おしまい。ご飯作って」
「……了解」
彼は満足そうに笑いながら包丁を握り直す。
口元は嬉しさを隠しきれていなかった。
小満は私と彼を見比べると、
大人びたため息をひとつ。
まるで六十歳のおばあちゃんみたいに首を振る。
「大人ってさぁ」
「ほんと、めんどくさい」
私は笑って小満を抱き上げ、ほっぺにキスをした。
「面倒でも、ママたちのこと好きでいてね」
「好きだよー!」
小満は私の首にぎゅっと抱きつく。
「ママが一番!」
「……パパは二番!」
「パパの角煮、おいしいから!」
キッチンから甘辛い煮汁の香りが漂ってくる。
砂糖の優しい甘さが、夕焼けの中へゆっくりと溶けていく。
窓の外では、街の灯りが一つ、また一つと灯り始める。
――私たちの家は、今日もあたたかかった。




