第1話 後宮の禁断(?)の噂
「もう一回。」
「本当にこれで最後だから。」
「お願いだからぁ。」
深夜。
東宮の寝殿から、甘ったるい女の声が途切れ途切れに漏れていた。
外で警護に立つ宮女や宦官たちは、皆そろって顔を真っ赤にし、俯いたまま息を殺している。
誰もが知っていた。
ここ数ヶ月、後宮にはある“公然の秘密”が存在していた。
――皇太子殿下と蘇貴妃様は、ただならぬ仲である。
しかも、その仲の深さときたら尋常ではない。
毎晩のように密会を重ね、一時も離れたくないほどの熱愛ぶりだという。
中には、蘇貴妃様が七日間も東宮に泊まり込み、一度も外へ姿を見せなかったという現場を目撃した者までいた。
噂はすでに六宮中に広まっていた。
妃嬪たちはこっそり盛り上がり、宮女も宦官も陰ながら応援。
さらには皇太后様までもが、密かに二人の仲を推しているという始末。
ついには――
『皇太子×蘇貴妃・公式応援団』
などという、聞くだけで恥ずかしくなるような組織まで結成された。
情報共有。
証拠隠滅……ではなく、秘密の保護。
そして二人の仲を邪魔する者の排除。
彼女たちは全力で“推し活”に励んでいた。
そして。
この後宮で唯一、その事実を知らなかった人物がいた。
――皇帝陛下である。
もちろん。
それは“つい先ほどまで”の話だ。
◇
今。
東宮の外。
夜の闇の中に立つ皇帝の顔は、もはや墨をぶちまけたように真っ黒だった。
大太監の福海は地面に額を擦りつけ、震える声を絞り出す。
「へ、陛下……! こ、これは……何かの間違いでございます……!」
皇帝は冷ややかに笑った。
「……間違い?」
その瞬間。
寝殿の中から、またしても女の声が響く。
「もっと早く!」
「もっと速く!」
「あぁーーっ!」
皇帝の額に青筋が浮かび上がった。
間違い?
これのどこに間違いがあるというのだ。
生まれてこの方。
これほどの屈辱を味わったことなど、一度たりともない。
「ドォンッ!!」
次の瞬間。
東宮の扉は、皇帝の一蹴りによって無残にも吹き飛んだ。
木製の扉が倒れ込み、東宮全体が一瞬で静まり返る。
そして――
怒りに震える皇帝の声が夜空を切り裂いた。
「この……愚か者がぁぁぁ!!」
だが。
室内の光景を目にした瞬間。
その怒声は、ぴたりと止まった。
広々とした大殿の中央。
そこにいたのは――
蘇貴妃だった。
彼女は皇太子の背中にまたがり、片手で衣の襟を掴み、もう片方の手には木剣を握っている。
小さな顔は、興奮で真っ赤だった。
「はい、走って!」
「お馬さん、もっと速く!」
「出発ー! 突撃ー!!」
一方。
皇太子はというと――
額いっぱいに冷や汗を浮かべ、四つん這いになって床を這い回っていた。
「……頼むから……」
「これで本当に最後の一周だからな?」
「約束しただろ……最後の一周って……」
しかし。
蘇貴妃はぷくっと頬を膨らませた。
「やだ。」
「もう一回。」
「今度こそ最後だから。」
「お願いだからぁ。」
皇帝:「…………」
福海:「…………」
その場にいた宮人たち:「…………」
時が止まった。
死んだような静寂が東宮を包み込む。
私はゆっくりと顔を上げた。
そして。
門の前に立つ皇帝と、真正面から目が合った。
その瞬間。
頭の中に浮かんだ言葉は、ただ一つ。
――
終わった。
俺は太子だ。父皇の女と関係を持つつもりなんて、全然なかった!
周りの誰もが、俺が父皇の寵妃にぞっこんだと思い込んでいる。
宮中の宦官はカップル応援に夢中になり、後宮の妃たちも盛り上がり、皇太后までこっそり俺たちの CP 応援会に資金を出している。
父皇に至っては、俺に「天にも届くほど大きな」緑の帽子をかぶせられたと思い込み、兵を率いて怒り狂って東宮の門を蹴り破った!
だけど俺はどうしようもない。絶望的だ!
あの可憐な「寵妃」が、ただ俺を馬にして遊びたかっただけなんて誰が思うだろう……
父皇、話を聞いてくれ。本当にただ「騎馬ごっこ」に付き合っていただけなんだ!
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