7話 危険
深夜の新宿。ネオンの光が毒々しく路面を照らし、吐き出された人波が喧騒を紡いでいる。
その雑踏の中で、聖菜は自分の心臓の音を聞いていた。
(……お姉ちゃんは、どこ?)
姉が利用しているはずの深夜バスは、数分前に通り過ぎた。しかし、千聖はそこに乗ってはいなかった。
聖菜は、以前こっそりと千聖のスマートフォンの履歴で見かけたことのある地名を頼りに、新宿の街を彷徨う。かつての松濤で、お抱え運転手の車から眺めていた景色とは、何もかもが違っていた。
客引きの男たちが放つ下卑た視線、腐ったゴミと煙草の入り混じった匂い。
足がすくみそうになるのを、ポケットの中で握りしめた「偽の雇用契約書」の記憶が押し止めた。
「お姉ちゃんは、こんな場所にいるの……?」
一方、千聖は雑居ビルの屋上から、地上を見下ろしていた。
夜の冷気が、漆黒のコートを撫でる。彼女の瞳には、ターゲットである商社幹部が、怪しげな男と路地裏で密談している姿が捉えられていた。
望遠レンズのシャッターを切る。
指先は氷のように冷たい。けれど、千聖の意識は機械のように正確に、男たちの動きを記録していた。
「……記録終了。撤収します」
インカムに短く告げ、千聖が屋上の縁から身を引こうとした、その時。
眼下の路地、光と影の境界線に、**場違いなほど白い肌**が浮かび上がった。
(……っ!?)
千聖の心臓が、仕事中にはありえない激動を見せる。
視界の端に映ったのは、紺色のコートに身を包み、不安げに周囲を見渡す少女の姿。
聖菜だ。
「なぜ……ここに……」
千聖の喉が、恐怖で乾いた。
今、この場所は「掃除屋」の戦場だ。ターゲットの男たちは、一皮剥けば人身売買や闇金融に手を染める獣。もし聖菜が彼らの目に留まれば、一瞬で「商品」に変えられる。「佐伯さん、緊急事態です」
千聖の声が、初めて震えた。
『どうした。追手か?』
「いえ……。妹が、現場付近に現れました。これ以上の観測は不可能です。彼女を確保し、ここから引き離します」
『……馬鹿な。お前の失態だ。いいか、絶対に顔を見られるな。聖菜くんに「千聖」としての正体を悟られることは、天園家への裏切りと同義だぞ』
佐伯の冷酷な言葉が耳を打つ。
千聖は銃をホルスターに固定し、屋上の階段を駆け下りた。
聖菜は今、ターゲットの男たちが歩き出した方向へ、おぼつかない足取りで進もうとしている。その先には、男たちの護衛が控える黒塗りの車が止まっている。
(行かせない。あの子を、こっち側へは一歩も……!)
千聖は、路地の入り口にあるゴミ箱をわざと蹴り倒した。
ガランッ!
静かな裏通りに、鋭い音が響く。
「きゃっ……!」
驚いて立ち止まる聖菜。その隙に、千聖は顔を深いフードで覆い、影の中から飛び出した。
聖菜の腕を強引に掴み、壁際へと押し込む。
「……っ、誰!? 離して!」
聖菜が悲鳴を上げようとした瞬間、千聖は彼女の口を片手で塞いだ。
自分の手袋越しに、妹の震える唇の感触が伝わる。
「動かないで。死にたくなければ」
千聖は、わざと低く、押し殺した声を出した。それは「姉」の声ではなく、昨日、あの男を葬り去った「死神」の声だった。




