8.幸せな恋人たち~ロディは語る~
俺がヘレナお嬢様と共に修道院を発ち、この屋敷に戻ってきてからひと月が立ちました。
旦那様はしばらくの間渋い顔をしておられましたが、ヘレナ様の辛抱強い説得により、ヘレナ様と俺との婚約が正式に決まりました。あの旦那様を言い負かしてしまわれるなんて、本当にヘレナ様はお強くなられたものです。
元々俺は旦那様にお仕えする執事の一人、それも一番下っ端で未熟な執事でしかなかったのです。それが今ではヘレナ様の婚約者になってしまいました。あまりの変わりように、俺もまだ実感が湧いていません。
けれど呆けている暇はこれっぽっちもありません。何せヘレナ様は、いずれ旦那様の後を継いで女伯爵になられる身なのです。俺はその婿として、ヘレナ様の力にならなくてはいけないのです。俺は大急ぎで、当主の配偶者にふさわしい立ち居振る舞いと教養とを身に付けることになりました。
突然忙しくなってしまった生活も、俺にとっては目がくらむほど幸せなものでした。俺が学ぶことは全て、大切なヘレナ様の助けになることなのですから。
ヘレナ様のために何もできずに思い悩んでいたかつての日々のことを思えば、今は天国のようなものです。俺は己の幸福をかみしめながら、日々特訓にはげんでいました。
「ねえ、ロディはいったいいつ私のことを好きになってくれたの?」
ある日の午後、ヘレナ様がお茶のカップを手にしたまま唐突にそう尋ねてきました。傍から見ると俺たちは優雅にお茶をしているようにしか見えないのでしょうが、これでも俺は今特訓の真っ最中でした。
いずれ俺は、ヘレナ様の夫として客人をもてなすことになるでしょう。その時に失礼がないよう、話の仕方や振る舞いをこうして学んでいるのです。
使用人としてお茶会を見たことなら幾度もありますが、こうしてテーブルについて優雅にお茶を飲むのは初めてです。しっかりと予習をしておいたおかげで、今のところは大きなへまはしていません。
それでも、どうにも緊張してしまいます。何せ今の俺は愛おしいヘレナ様と二人、向かい合って談笑しているのです。これで緊張するなという方が無理な話です。修道院では隣の部屋で過ごしていましたが、あの頃に勝るとも劣らない緊張を感じていました。
そんなところにヘレナ様がいきなり質問をぶつけてきたので、俺はうっかり言いよどんでしまいました。
「あ、あの、ヘレナ様? 突然何をおっしゃるのですか」
俺のその答えがお気に召さなかったのか、ヘレナ様は小さく口をとがらせました。以前はなさらなかったそんな仕草も、とても可愛らしく魅力的です。
「もう、ロディったら。ごまかさないで、ちゃんと教えて欲しいのよ」
「ですが、その……それはお茶会の話題としてふさわしいものなのでしょうか」
とっさに話題をそらそうとしましたが、ヘレナ様には俺のそんな魂胆はお見通しだったようです。
「いいのよ、今日のお茶会は私たち二人だけだもの。少しくらい内密の話をしても、誰もとがめるものはいないわ。さあ、観念して話してしまいなさい」
勝利を確信したように、ヘレナ様がそれはほれぼれするような笑顔を向けてきます。話さないという選択肢は、もはや俺には残されていないようでした。
「分かりました。その……俺はあなたを一目見たその時にはもう、あなたに惹かれていたんです」
「そんなに前からだったの?」
「はい。この屋敷に雇われることになって、旦那様と奥方様にお会いしたその時、俺はお二人の後ろに控えておられたヘレナ様に見とれていたんです。なんて清らかで、なんて可愛らしい方なのだろうって。あれは間違いなく、一目惚れでした」
「まったく気づかなかったわ……」
「気づかれなくても、よかったんです。あんなことにならなければ、一生胸の奥に秘めておくはずの思いでしたから」
ヘレナ様が婚約破棄されてからの波乱に満ちた日々がありありと思い出されました。あの婚約破棄がなければ、俺が後先考えずに屋敷を飛び出さなければ、今の幸福な時間はなかったのです。
俺が感慨深い吐息を漏らしながら遠くに目をやると、嬉しそうに頬を染めていたヘレナ様がこちらを向いて小さく笑いました。何か企んでいるような、そんないたずらっぽい笑みです。
「ねえ、そんなに長い間思っていてくれたのに、いまだに『ヘレナ様』なの?」
質問の意味が分からずに目を丸くしていると、ヘレナ様は身を乗り出してきました。
「私たちはいずれ結婚するのだし、『ヘレナ』と呼んで。あと、その使用人風の仰々しい敬語もなしよ。これも未来のための特訓ということで、頑張ってちょうだいね」
「しかし、まだ心の準備ができていないのですが」
「こういうのは勢いと思い切りが重要よ。私はあの修道院で、それを学んだの」
こうなるとヘレナ様、いえヘレナは引きません。俺は覚悟を決めて、少しずつ言葉を選びながら話しました。
「はい、分かりましたヘレナ……ああ駄目です、やはり慣れるまで時間がかかりそうですね」
「ふふ、でも結構うまくいっているように見えるわよ。その調子で頑張ってね、未来の旦那様」
ヘレナがとどめとばかりに投げかけた最後の言葉に、頬が一気に熱くなるのを感じました。どうやら俺は、いつまで経っても彼女に勝てそうにありません。けれどそれも悪くはないと、心の底からそう思っていました。
「ヘレナ、少しいいですか。……ああ、手紙を書いていたのですね」
ある日ヘレナの部屋に出向くと、彼女は大きな机に向かって熱心に書き物をしていました。机の上には封をする前の封筒や封蝋が置かれています。その横には既に書き終えた紙が、何枚も積みあげられていました。
「ええ。……修道院のみなさまに、近況を伝えようと思って」
ヘレナはいたずらっぽく微笑んでいます。俺たちにとってあの修道院は、今の幸せをくれた大切な場所でした。俺も微笑み返し、見つめあいます。と、ヘレナの顔が不意に曇りました。
「ねえロディ、あそこのみなさまに、助けを求めてもいいと思う?」
「助け、ですか? 俺では力になれませんか。まだまだ頼りないですが、あなたのためなら全力を尽くしますよ」
そう答えつつ首をかしげると、ヘレナは嬉しそうに笑いました。けれどその笑みは、すぐに苦笑に代わってしまいます。
「あなたのことは頼りにしているわ。でも、困っているのは私ではないし、悩み事もちょっと厄介なものなの」
そうしてヘレナは、友人について話してくれました。かつてのヘレナと同じように、不実な婚約者に苦しめられているという友人の話を聞いているうちに、俺は何とも複雑な気持ちになっていました。ヘレナもいつになく暗い顔をしています。
「……彼女は、かつての私と同じだと思うの。このままだと彼女は間違いなく不幸になってしまう。だから、どうにかして助けてあげられないかって、そう思ったのよ」
「それなら、確かにあの修道院のみなさまは心強い味方になってくれそうですね」
「でも、あそこにそんな厄介ごとを持ち込んでいいのか、まだ迷っているの」
優しいヘレナは、修道院に問題を押し付けていいものかと悩んでいたようでした。俺はにっこりと笑い、彼女を後押しすることにしました。
「大丈夫ですよ。あそこのみなさまはいつも刺激に飢えておられるようですし、きっとその厄介ごとですら楽しんでしまわれますとも」
いつも笑顔で、どんなこともどん欲に楽しんでいた修道女たちの姿が脳裏によみがえりました。彼女たちが笑いながら手招きしている幻が見えるようです。
「そう……ね。ここは遠慮せず、みなさまの力をお借りしましょう」
そう言うとヘレナは、手紙の最後に一言、優美な文字でつけくわえました。
『私の友人を、どうか助けてください』
手紙を書き終えたヘレナが、口元に小さな笑みを浮かべてそっと息を吐きました。ようやっと、肩の荷が下りたという顔でした。俺はぐるりと机を回り込み、彼女の傍に近づきます。
「ヘレナ、あなたはあの騒動を経て、驚くほど強くなりました。でもだからといって、他人を頼ることをためらわないでください。あなたに力を貸したいと思っている人間は、たくさんいるのですから。もちろん、俺もです」
彼女は俺の言葉に、それは嬉しそうな微笑みで答えてくれました。その笑顔に誘われるように、俺は身をかがめて彼女の顔に顔を寄せ、柔らかな前髪にそっと唇を落としました。
彼女はくすぐったそうに笑うと、座ったまま腕を伸ばして抱きしめてきます。俺も同じように、しっかりと彼女を抱き留めました。
「あとはみなさまにお任せしましょう。きっとあの方々は、あなたの友人を救ってくれますよ」
ヘレナは俺の腕の中で、小さくうなずきました。彼女の髪が俺の頬を優しくくすぐります。
腕を通して伝わる、この上なく愛おしいヘレナの温もり。それを感じていると、泣きたいほどの切なさに襲われました。その温もりをしっかりと捕まえるように腕に力を込めながら、俺は確信していました。
自由で優しく、強くて誇り高いあの方々は、必ずヘレナの友人を救ってくれる。かつて絶望のただ中にいたヘレナを変え、俺が彼女に思いを告げる機会を作ってくれたのと、同じように。
俺は目を閉じて、もう一度心の中で深く感謝を捧げました。俺たちにこんな幸せをくれた、あの陽気な修道女たちに。