11話
意識の輪郭がゆらゆらと揺らめいている。私は自分の意識の中の見えない檻の中で一人、何も考えずただただそこに存在していた。悪霊が私の体を支配するようになってから、私はずっとこの意識の底の暗闇に囚われたままだ。もう抵抗する気も起きず、ただただ深い底で揺蕩い続けた。抵抗をやめてからは痛みも感じず、あの囁き(ささやき)も聞こえなくなった。そうこれで、これで良かったんだ。そう思い込むことで、自分を正当化することしか私にはできなかった。
「さあ、これを」
「はいお父様」
悪霊の核を口に含み、噛み砕くワタシ。人をさらって負の感情を与え続けて殺すことによって、作り出された人工的な悪霊をひたすら食べ続けた。父は娘が従順になったことに喜んでいるようだった。ああ、本当に私はただの装置、実験のための都合のいい道具としか見られていなかったのだ。そんなやつのために私は……。いや、もうやめておこう。どうせどうにもならないことだ。外界に許可証なしで飛び降りて、生き残った天使の話なんて聞いたことはない。しかも彼女は霊が見えない。こんな簡単な問いも解けないほど馬鹿じゃない。
何か父が言っているのが聞こえる。天使……がどうとか。まあ友を手に掛けた外道に何かを心配する資格などないか。耳を塞ぎ、瞳を閉じた。
「くっ!」
ハデスから声が漏れる。踏み込んで振ったナイフはすんでのところで躱される。追い打ちをかけるように前へ踏み込む。しかし、その瞬間ハデスの蹴りが腹に打ち込まれ、数メートル先まで飛ばされてしまう。なんとか受け身をとって立ち上がる。
「よし、少し休憩しよう」
「それは……ありがたい」
みぞおちの下の方をえぐられて息をするのがやっとだった。その場に座り込むと、どこからかタッパーのようなものをハデスは持ってきた。
「ハデス、なんなんだそれ」
「姫様がお前のため、ついでに俺のためにも作ってくれたレモンのはちみつ漬け、とかいうものらしい。ほら」
軽く投げられたタッパーを開けると、並々に注がれたはちみつの中に不揃いの厚さにカットされたレモンが漬け込まれていた。これは確かにあいつの手作りに違いない。一切れつまみ上げると二、三切れのレモンがついてきてしまうあたりも実にアテナらしい。
「何だそれ、芸術作品かなにかか?」
「ハデス、それ絶対アテナに言うなよ?」
二人で笑いながらそれを食べた。そして、ハデスは何か懐かしむように話を始める。
「せっかくだ、少し昔話でも聞かせてやろう。実はオレとゼウスはな、兄弟なんだ。まあ他にも何人かいるが。ゼウスとオレは二人とも同じ女の子に恋をしてな。体はオレのほうが大きかったし、喧嘩も強かった。でもオレはあいつに絶対に叶わないところがあった。それはな、勇気だ。あいつは体は細かったし、喧嘩も強くない、けれど好きなその子のためならどんな状況だろうと突っ込んでいったよ。オレにはそれができなかった。いつだって初めにメーティスを、ああゼウスの妻な。助けに行くのはあいつだったんだ。なぜそんな無謀なことをできたのかわかるか? あいつはな、自分の気持にちゃんと向き合ってた。オレはそれができなかった。それだけの違いなんだ」
ハデスはタバコのようなものに火をつける。
「お前も吸うか?」
「いや、俺未成年だから」
「つれないやつだなあ。まあいい、続けるぞ。要は、お前に伝えたいことは一つ。口下手で悪いが聞いてくれ」
一つ紫煙を吸い込んで、ハデスは続ける。
「物事には理由がある。お前はどうしてアテナを守りたいと思ったんだ?」
「まあ、そうだな、アテナは家族みたいなものだからな」
「そう、それだ。アテナもお前のことを家族だと言っていたよ。でも家族を守りたいから、ってのは本当に根底にある欲じゃない。それに向き合えなければ、お前に最後の最後、絶望的な状況での一歩は踏み出せないだろう。欲望は、それすなわち力だ。人間は欲が強い。そうでもなきゃここまで繁栄なんてしてこなかっただろうよ。だから少年。自分の根底にある欲に向き合え。友情、愛情、憎悪、どれかはわからないが、お前がアテナの守りたい、と思ったのには必ず『家族』なんて小難しい言葉じゃない、もっと単純な物がある。それに向き合うのは辛い事かもしれない。だが、悩んで、もがいて、苦しんで出した答えにはきっと意味がある。そうすればお前は、お前たちはもう一歩先へ行ける」
そう辛気臭い顔をするな、とバンバン背中を叩かれる。少し痛かったが、不快ではなかった。その後も、自分のことや死神の部隊の訓練のときのことなど、いろいろなことを聞かせてもらった。普通の人間では聞くことのできない話だっただろう。
その後、もう少しだけ訓練を続け、家へと帰った。アテナの部屋から出ると、アテナはキッチンで何かを作っていた。
「ただいま、アテナ。何作ってんだ?」
「おかえりなさい、あなた。ちょっとまってて」
テーブルの前に座って、アテナの料理を待つ。こうして料理をしている女の子を後ろから眺めるのは男の夢かもしれない。さっきのハデスの話を思い出す。アテナを守りたいと思った理由……。考えたこともなかった。いや、考えようとしてこなかったのかもしれない。思考を巡らせていると、アテナは盆に載せて、味噌汁と少し形のいびつなおにぎりを持ってきた。そういえば部活動で何度も練習していたな。なぜそうなるんだアアアアと部長が絶叫していたのを思い出した。
おにぎりを一口含む。アテナは心配そうに俺の顔を覗き込む。
「あ、あの。美味しくなかったら食べなくてもいいから」
「いや、美味しいよ。ありがとう」
「そ、そう? おかわりあるから、いくらでも食べていいわよ!」
小さく拳を握り、本心から喜んでいるのを見るとなんとなくこっちも嬉しくなる。おにぎりを一つ食べ終えたあたりで、味噌汁に手を付ける。
「……しょっぱい」
味噌の入れ過ぎだ。だが、まああの晴れやかな顔に文句を垂れるほど人間が腐ってはいない。その温かさだけで心は満たされてしまった。初冬の寒さに震える夜の街をカーテンの隙間から覗きながら思った。
ある日、部活動を終えて帰宅途中、耳に聞き慣れた声が聞こえた。
「少年、姫様。なるべく急いで帰ってきてくれ。ちょっと厄介な事件が起きた」
「ハデスか。とりあえずわかった」
アテナと目と目でコンタクトを取って駆け足で帰る。軽く息を荒くしながら玄関に着くと、いつもの緩やかな雰囲気ではなく、真面目な顔をしたハデスが立っていた。その手には黒光りする神器が握られていた。
「ハデス。何があったんだ」
「おお、帰ったか。とりあえず中に入ってくれ。説明する」
ハデスは死神の部隊の一人に見張りを頼んで俺とアテナの後ろについてきた。どうやらただ事ではないようだ。いつものようにテーブルを挟んで俺とハデスは座る。お茶を出そうかとしたが、それすらも断られた。
「いいか、よく聞け。ここの地域で天使が複数人殺された。正確には反応が消えた、というべきだな。しかも、それをやったのはおそらくは天使だ」
「天使が天使を殺したってのか? そんな事する理由がないだろ?」
「まあ、聞け。少年の言う通り、天使は天使を殺す理由はない。しかも地上で殺してもどうにもならない。回収した魂はその回収者に紐付いているから回収もできない。だから天界に帰るために殺した、という線は消える」
これでとりあえずアテナの潔白は証明できた。ハデスもそのことは理解していたのだろう。
「で、だ。そうなると動機がわからん。しかし、その天使の反応は少しおかしな点があってな。天使と悪霊の反応が混在していたらしい」
「おい、それって――」
「悪霊の兵器転用」
俺よりも先にアテナが答えた。そうだ、それは俺とアテナに使われた魔法の原典にあたるものだ。忘れるはずはない。
「そうだ。ふたりともゼウスから聞いたことがあるだろう。そこで、ゼウスはその論文の研究者を捕まえようとしたんだが、もうすでに遅くてな。その家からは姿を消していたそうだ。おそらく地上に潜んでいるんじゃないか、と俺達は踏んでいる」
そんなやつが地上に……。まさか、あのとき悪霊に襲われたのってそいつの仕業なのではないだろうか。いや、考え過ぎか。
「そうして、俺達に命令が下った。地上のパトロールをすること。少年と姫様を連れてな」
「俺達も行くのか? 正直足手まといになる気がするんだが」
「そんなことはない、と言いたいが、実戦経験を鑑みればそうかもしれない。だが、お前たちを一人にして奇襲をされるよりはよっぽど安全だと考えた。加えて、姫様の神器の火力はおそらく天界でもトップクラスのものだ。それに少年、お前だって俺が鍛えたんだ、大丈夫さ」
ハデスの表情は自信に満ちていた。ここまで信頼されていると逆にむず痒い。だが、俺が積んで来たものは確かにハデスの信頼にたるものだった、ということは誇りに思う。
「ともかく、準備をしてくれ。少しなら待ってやるから」
制服を脱いで、訓練のとき用のジャージに着替える。その上からウィンドブレーカーを羽織って寒さの対策もバッチリだ。ハデスから借りている緊急用の神器も腰につける。水を一杯飲み干して玄関へ向かう。
「さあ、行くぞ」
ハデスは空へ飛び上がる。俺もアテナを憑依させて……あれ、俺飛べなくね?
「アテナ、俺たち飛べなくね?」
「いや、飛べるはずなんだけど……飛べないわね」
「ハデスー! 俺飛べないんだけど!」
ハデスたちは地面に降りてくる。ハデスは死神の部隊の一人に指示をして、俺を担いで飛んでもらうことになった。少しばかり情けない姿勢だったが、まあ、仕方がないだろう。
「いや、なんかすみません。運んでもらって」
「いやいや、いいんですよ。僕もまだこの部隊に配属されてすぐですから。逆に光栄ですよ、悪霊を一人で倒した人の役に立てるんですから」
苦笑いをしながらその新人の死神は答えた。戦闘経験がないとはいえ、彼も天界の住人だ。俺なんかが敵うわけはないだろうに。
そのままハデス率いる死神と一緒に街を一周パトロールして、その日の任務は終わった。連日パトロールは続いたが、事件らしい事件は何も起きなかった。しかし、一週間を過ぎた頃、事は動き出す。
「おいおい少年、油断するなよ? お前は俺の隊の最終兵器だぜ?」
「無茶を言うな。こちとら一週間ぶっ続けで寝不足なんだっての。薬でごまかしてるにしろ、疲れるものは疲れるんだよ」
「……ちょっとまって。あんたまたポーション飲んでたんじゃないでしょうね? あれだけやめろって言ったわよね。人間にどんな影響が出るかわからないって言ったわよね」
「いや、あの、たまにな。たまにだよ、そんなに頻繁に飲んでたわけじゃないって」
言い訳は通じず、空の上だというのに容赦ない説教を受ける。心配してくれるのはありがたいが、こんなところで説教をしなくてもいいじゃないか。少し場に笑いが漏れる。
今日も何事も無く終わるんじゃないか、と思った矢先のことだった。ハデス唐突に動きを止める。
「どうしたんですか? 隊長」
「魔力の反応だ。ごく僅かだがな」
そう言うとハデスはその方向へ勢いよく飛んでいく。周りの隊員もそれに続く。その速さに驚いたが、慣れる前に目的地についてしまう。そこは、俺とアテナが初めて悪霊と対峙した廃工場だった。何か因果を感じてしまう。
「ハデス、本当にここなのか?」
「ああ、間違いない。各員戦闘準備」
了解、と小さな声で反応した隊員たちは円形に散開する。俺とアテナはその真中に入れられる。俺も一応武装しておいたほうがいいか。
「――Realize」
右腕を温かいものが通り抜け、拳銃が形成される。相変わらずバカでかい銃だ。正直その大きさは趣味ではないが、威力は身をもって実感している。銃口を下げつつ、周りの進行速度に合わせる。しばらく廃工場を探索していると、開けた場所に何やら影が見える。
「ハデス」
「大丈夫だ。わかってる」
ハデスはその影に銃口を合わせ、音を出さないように近づいていく。隊員たちも周りの警戒を怠らず、それに続く。数メートル先まで近づいたとき、その影は立ち上がる。
「動くな!」
ハデスはアサルトライフルの銃剣を展開し、トリガーに指をかけ警告する。その人影はゆっくりと振り返る。月明かりの中、真紅の液体を口から垂らしながらそれは笑った。その足元には、心の臓あたりを無理矢理に開かれて、助骨がところどころ見え隠れした死体が転がっていた。現実感を失いそうになるも、ハデスの一声で我に返る。
「走れ紅葉!」
その掛け声を理解する前に、死神たちは銃声を轟かせる。口を赤く染めたそれは指をパチンと鳴らす。その瞬間、空に薄い紫色の結界が張り巡らされた。これは、あの時と同じ……。ともかく逃げなければと、後ろを振り向いた瞬間。
「――逃がすわけ無いでしょう?」
全身に悪寒が走る。それは銃口を向けるよりも速く、刀を振り上げていた。今まで生きてきた中で、一番に死を身近に感じた。しかし、
「こっちのセリフだ、下衆が」
二又の槍の神器を持ったハデスがさらにその後ろから斬りかかる。それはたまらずに後方へ飛び上がる。
「行け!」
ハデスの声に背中を押されるように走り出そうとする。しかし、先程までとは違って体が重い。気がつけばアテナが隣に座り込んでいた。
「おい! 何してんだ!」
しかし、アテナから反応はなく、ブツブツと何かを言っている。
「……嘘よ。嘘よ! 嘘だと言ってよ。なんであなたがここにいるの、アラクネ!」
アテナの言葉を聞いたそれは、突然動きを止める。そして、大きな声で笑い出す。
「ははは…………はははははは! 驚きたいのはこっちだよ。まさか生きていたとはね。全くしぶとい女だ。天界から突き落とされて外界で生き延びているとは」
「……なんでそのことを知って」
「なんでって。そりゃ私が突き落としたからに決まっているでしょ?」
アラクネは気味の悪い笑みを浮かべながらアテナに言い放つ。その言葉を聞いたアテナは涙を流しながらに訴える。
「……嘘でしょ? 嘘なんでしょ? あなたがそんな事するはずないわ! だって私達は――」
「友達、だなんて言うんじゃないだろうね。笑わせんなよ! バカが。私がどれだけ努力しようとそれを嘲笑うかのように、常に上にいたお前と! 友達だって?! お前、外界に落ちてユーモアのセンスだけは上がったじゃないか」
醜い笑い方をしながら、アラクネはアテナに言う。アテナは、嘘よ、嘘よ、とポロポロと涙を流し、放心してしまっている。
「食べるのは天使だけでいいと言われているけど、死神の味も気になるわね。まあ、せいぜい散り際で楽しませて頂戴?」
アラクネは死神たちに襲いかかる。ハデスはその攻撃を難なく食い止める。今のうちに逃げなければ。
「おい、アテナ! しっかりしろ!」
アテナは動く気力すら失ってしまっている。仕方ない。アテナを抱きかかえて戦場から離脱するため、思い切り走る。工場の入口までたどり着いたとき、結界の存在を改めて思い出す。すぐそこに出口はある。だが、壁一枚挟んで抜け出すことはできない。死神たちもどこまで持つかわからない。アテナもこんな状態だ。どうする……。その時、腰につけた神器のことを思い出す。
「……一か八か」
神器を引き抜いてスイッチを入れる。身体能力にブーストがかかるのがわかる。それと同時にその小さな刃物にも光が宿る。その光り輝く刀身でひたすらに結界を叩く。金属がぶつかりあうような高い音はしても、傷一つすらつけることはできない。それでもなお、諦めずにそれを続けても、一向に結界を破ることはできなかった。
後ろから足音が聞こえる。振り返らなくてもわかった。奴だ。
ナイフは握ったまま振り返る。底には先程よりさらに血にまみれたアラクネの姿があった。死神たちは殺されてしまったのかもしれない。少なくとも、動ける状態にはないのだろう。血液を垂らしながら、月明かりを反射する刀をみて確かにそう感じた。血みどろの天使は俺に提案する。
「ねえ、人間。もしそこの天使をおいていくというのなら、あなたは逃していいわよ?」
冷ややかな汗が全身を伝う。口元に流れるそれを舐め取って不敵に笑う。
「悪いな。それはできない」
「あら、どうして? あなたこれから死ぬのよ。逃げたほうがいいじゃない。そもそもあなた人間でしょう? 天使が死のうがどうでもいいことじゃないの」
大きく息を吸い込んで、自らがここにいる理由を今一度噛みしめる。昔の俺なら少し迷いが生まれたかもしれない。でも、今は違う。
「確かにそうかもしれない。でもな、もう遅いんだよ。見捨てるには色々なものを貰い過ぎた。こいつに出会わな買ったら得られなかった出会いがある。柄にもなく愛おしく思える思い出がある。今更それを忘れて、否定して、逃げ出すわけにはいかないんだよ!」
順手に持ったナイフを逆手に握り変え、ファイティングポーズを取る。
「くっ…………ははははっ! 最高、最高よ! ご立派な正義感だこと。全く、なんでその子はどこへいっても恵まれるのかしらねえ。反吐が出るわ。まあいいでしょう。そんな死に急ぎたいなら、さっさと逝きなさいな!」
ハデスを上回る速度で迫りくるアラクネ。ハデスとの戦闘訓練を思い出す。突っ込んでくる敵にはのけぞる体を前に倒して、足を前へ、前へ。強く踏み込んで懐へ潜り込む。鋭く右ストレートを放つようにナイフを首筋にめがけて振る。アラクネの顔が明らかに歪む。とっさに後ろへと飛び上がるアラクネ、着地するであろう地点に向けて走り出す。反撃のスキを与えないようにその懐めがけて何度でも飛び込んでいく。相手は刀だ。リーチで勝ち目はない。ならそれを振らせないまでだ。低く、速く、強く。何も考えるな。何も感じるな。そうすればこの体は止まらない。
「……人間風情が!」
振り上げられた刀に思わず後ろへ逃げてしまう。その僅かな間にアラクネは主人公から距離を取る。この間合は良くないな……。アラクネの顔からはもはや油断の二文字は消え去っていた。
「いや、訂正しましょう。あなたは強い。さっきの死神の雑魚どもよりよっぽど強いわ。だから私も手を抜くのをやめましょう。さあ、もっと楽しませて頂戴!」
「消え――」
「こっちよ?」
速い、先ほどとは比べ物にならない。背後から思い切り振られる剣を布一枚のところで避ける。アラクネの連撃は止まらない。懐へ飛び込む隙きはない。なんとか攻撃を避けようとするが、少しづつかすり傷が体に目立つようになってくる。受ける傷は時間に比例して深くなっていく。
「ほらほら、さっきまでの威勢はどうしたのかしら?!」
「よく喋る女だな!」
「あら? それは褒め言葉かしら?」
「そうだと思ってんなら頭おかしいよお前!」
刀とナイフのつばぜり合い。有利不利なんて字面だけでわかるだろう。その圧倒的な質量の前に、俺は為す術がない。その時、アラクネの体勢が一瞬崩れる。
「助けに来ましたよ! 紅葉さん!」
いつも俺を抱えてくれていた死神が、アラクネに銃撃を放つ。体勢が崩れたのを見逃さず、俺は回し蹴りをアラクネの腹に入れる。数メートル先にまで吹きとぶアラクネ。それを更に追い打ちをかける。起き上がる前にケリを付けるべく、アラクネに向けて駆ける。
しかし、その途中で俺の足は動きを止める。全身の力が抜けてゆく。ハデスに言われたことを思い出す。それは緊急用の神器。使用時間には限りがある、と。膝をついて手の中にある相棒の刃にはもう光は宿っていなかった。
アラクネはゆっくりとこちらへ近づいてくる。死がゆっくりと近づいている。死神が放つ銃撃も魔法の障壁に弾かれて、まるで意味がなかった。もう腕を上げる力すらない俺の顔を持ち上げてアラクネはいう。
「ねえ、あなた。私の夫にならない? 人間なんて下等生物眼中になかったのだけど。あなたは違うみたいね。どうする? 死ぬか、私のものになるか」
空元気を振り絞って笑って言う。ゆがむ顔を皮肉めいた笑顔に変えて。
「お断りだ。俺は貧乳に興味はない」
「幕切れは興ざめね」
その言葉を最後に、俺の心臓を刀が貫いた。刀が突き立てられた部分から血がにじみ出ている。アラクネは刀を引き抜き俺を通り過ぎていく。
俺は地面に吸い込まれるようにうつぶせに倒れる。自分から吹き出す血液の暖かさと、冷たくなっていく体に死を感じる。鉛のように重いからだと対照に、頭はスッキリとしていた。その頭で俺は自問自答を繰り返す。
なぜ悪霊の精神汚染から立ち上がれたのか。
家族という存在を失いたくなかった。
なぜ俺はアテナと守りたいと思ったのか。
家族という存在を失いたくなかった。
嘘だ。
最初はそういう理由だった。自分のためだった。家族を守る自分が欲しかった。
でも今は違う。
隣に居たいから。
隣で話をしたいから。
隣で笑ってほしいから。
そうだ。簡単なことだった。
逃げ続けてきた。大好きだった母さんのように失ってしまうことから。
どうせ最後、弱い自分はもうやめだ。
――俺は、アテナが好きだ。
何だ、簡単なことじゃないか。認めてしまえばストンと胸のうちに落ちた。まあ、気がつくのは少し遅かったかもしれないけど。視界はだんだんと闇に吸い込まれていく。最後に映ったのはアテナとの契約の証、銀色のブレスレット。伝えたかったなあ。涙を一筋流しながら、俺は役目を終えた瞳を閉じた。




