10話
不安を胸に抱きながら、帰路を終える。玄関先では教官様がタバコのようなものを吹かして俺を待っていた。
「よう、少年。それと姫様」
「待たせたな、ハデス」
いやいやさっき来たばかりだ、とハデスはいう。鍵を開けて中へと入る。
「なあ、ところで少年。今日は飯を作らないのか?」
「あー悪い。さっき学校で食べてきたんだ」
「なんだと?! 俺の分はないのか」
「あるわけ無いでしょ! 食い意地はってないで早く始めなさいよ、全く」
「はいはい。全く姫様は恐ろしいねえ。誰に似たんだか」
ハデスは渋々といった様子でアテナの部屋へと入る。アテナはハデスから俺の部屋で待っているように言われ、俺も指示通りに動きやすい服装に着替え、靴を持ってアテナの部屋へと入った。
「準備できたぞ」
「ああ、そのようだな。じゃあ行くぞ。――Call 冥府の渡し守よ王の帰還だ(イマージ・ザ・カロン)」
呪文を唱えたハデスを中心に濃い霧が吹き出す。それはすぐにアテナの部屋を埋め尽くし、視界を覆った。霧の晴れない状態が続く。
「ハデス! いるのか?!」
「大丈夫だ。もう少し待て」
言われたとおりにしていると、打ち付ける波のような音が聞こえ船に揺られているような感覚を覚える。しかし、霧のせいか何も見えない。ふと下を見れば、木製の座席のような物があったので、腰を下ろすことに。すると突然目の前にハデスが現れて、彼も同様に腰をおろした。霞む視界の中でなんとか目を見開くと、どうやら俺が今乗っているのは小さな小舟らしい。少し先に舟盛りのような男が見える。
しばらくの間、船に揺られていると、どうやら泊地についたようだ。船から降りると、舟盛りはまた海へと帰っていった。ハデスの後ろについて進んでいくと、いつしか大きな闘技場のような場所についていた。人気はなく、生気も感じられない。おまけに先程から体が重い気がする。
「少年。ここが目的地だ」
「ここどこなんだよ。そろそろ説明してくれてもいいんじゃないか?」
「ん? 何だ気がついてなかったのか。ここは冥府。俺の聖域だ」
ハデスは両腕を広げ、懐かしさに浸っていた。
「冥府……地獄か。生きながらに俺はそんな場所に来てしまったのか……」
「まあ、昔何人か生者も来ていたから大丈夫だろ。あの守銭奴が勝手に買収されてのことだが。銀貨一枚のために何をしてるんだか」
冥界への渡し人がそんなんで大丈夫なのだろうか。いささか適当すぎではないか。というより、銀貨一枚って。冥界への賃金安すぎる。地方の鉄道も見習うべきだろう。
「さて、少年。体調の悪そうなところ申し訳ないが、それは仕様だ。体への負担を上げてあるからな。訓練を始めるとしよう。まずは基礎体力からだな」
なにか特別なトレーニングをするのだろうか。魔法を使えるようになるとか。なんかすごい剣を渡されたりとか。妄想が膨らむ。
「とりあえず、そうだな。腹筋、背筋、腕立て伏せ。百回ずつ。始め!」
「それはもとの世界でやれば良くないか?!」
「バカやろう。ここでやらないと意味がないんだよ。ここなら現世の数倍のスピードでお前の体を鍛えてやれる。つべこべ言わずにやれっての」
渋々ハデスのカウントに合わせて筋トレを始める。しかし、十回を超えたあたりから異変を感じる。すでに体が悲鳴を上げ始めているのだ。なんとか気合で三十回ずつやり終えたが、もはや体が言うことを聞かない。
「おいおい、もうへばったのか。次はランニングだ。内周回って来い!」
その辛さは走りにおいても変わることはなかった。体中におもりを付けながら走っているようだ。一歩一歩が体に積み重なっていく。辛い。確かに辛い。死神たちが首を揃えてやめておけと警告していた理由が今ならはっきりと分かる。だが、諦めるわけにはいかない。
「くっ!」
筋肉に疲労が溜まっているのか、小さな段差に躓いてしまう。派手に転んでしまったが、気にせず手足に力を込めて立ち上がり、また走り出す。それを何度か繰り返していた。最後の方はもはや意地と気合だけで足と手を振っていた。上がる息、あまりの辛さに鼻水と涙を流しながら足を前へ進める。そんな地獄にも終わりは訪れ、ハデスの合図でランニングを終了した。ハデスが笑いながらこちらへ向かってくる。
「少年、なかなかやるじゃないか。死神の訓練兵でも初めては合図する前に止まっちまうんだけどな。人間にしては根性あるぜ」
「……お褒めに預かり至極光栄だよ。くそったれ」
地面に突っ伏しながらハデスの言葉に反応する。今の自分の格好は非常に無様だと感じるが、これが精一杯だ。
「ほら、これでも飲め」
そう言ってハデスは俺の口に何やら緑色のドロッとした液体を流し込んできた。鼻をふさがれて、飲み込むほかなかった。抵抗虚しく、流し込まれたすべての液体を飲み込む。
「……マズっ?! なんだよこれ!」
「おお、おはよう。どうだポーションの味は」
「クソ不味いわ! なんてもん飲ませんだよ――」
気がつけば、あれだけ疲れていた体が動いている。もはやここまでか、とまで思っていたのに。立ち上がった体は、むしろ先程よりも軽く思えるほどだ。
「これ、なんなんだ? なんかやばいものなんじゃ……」
「大丈夫だって。死にはしないさ。多分」
「多分ってなんだよ。恐ろしいこと言うなよ」
「飲みすぎなければ大丈夫だ。じゃあ、次は格闘だ。とりあえず構えてみろ」
言われた通り、ファイティングポーズを取る。アニメやゲームの見よう見まねではあるが。
「まあ、基本はあってはいるが、もう少し脇を締めろ。あと引いた手は常に顎の横にあるようにな」
ハデスに言われたとおりにする。なれないからか少し窮屈だった。
「よし、そのまま拳を前に突き出せ」
腰を使って小さな構えから拳を前へ打つ。狭い姿勢から打ち込んだはずなのに、その拳は軽い音を立てて空気を切った。
「基本はこれだけだ。あとは実践で学んでいけ。ほら、構えろ。行くぞっ!」
「あぶねえっ!」
ハデスの右足が俺の鼻先をこする。なんとか避けられたものの、連撃に次ぐ連撃に避けることすらままならず、ひたすらいたぶられ続ける。しかし、次第に目がなれてきたのか、攻撃の一つ一つを見ることができるようになっていく。一向に避けることはできないが。反撃を試みようとすれば出鼻をくじかれ、数倍の攻撃を体の空いた部分に叩き込まれる。痛みはアドレナリンのせいかあまり感じることはなかったが、着実に体力は奪われていった。体力が尽きて倒れ込むとすかさず、ポーションの時間だ、とか言って俺の口に意気揚々と雑草の味のする液体を流し込んで無理矢理に立たせ、訓練を再開させられる。正直ここで死ぬんじゃないかと思った。
「さて、今日はこれくらいにしておくか。おい、帰るぞ」
「…………」
霧に包まれた空を見上げる。肉体は限界を通り越し、地面に吸い寄せられているようだ。ここまでぼろぼろになったのは人生で初めてだろう。
「おいどうした。立てって。お姫様も待ってるんだろう?」
「立たないんじゃないんだ。立てないんだ」
「ったく。仕方ねえな」
ハデスに肩を担がれて、先程の小さな停泊地へ向かう。気を失いそうになりながら家へと帰る。気がつけばアテナの部屋についていた。船に揺られている途中で少し休めたおかげか、なんとか体を動かせるようになった。扉を開けると、アテナが珍しく真剣な顔つきでハデスに向かって激昂した。
「あなた……あなたねえ! 限度ってものがあるでしょうが!」
「いや、でもこれが一番効率よく――」
「言い訳すんな! 人間相手に死神の訓練プログラムをやるバカがどこに居るってのよ!」
「アテナ、もういいから」
「良くないわよ! 死んじゃったらどうするのよ。どうせポーション飲まされ続けたんでしょう? あれ飲みすぎれば普通に天使だって死ぬのよ?! 人間が飲み続けてどんな影響が出るかわからないのに……」
「あー、わかったわかった。今度から加減するから」
「当たり前よ!」
アテナは再びテレビの前に座り、アニメの鑑賞へと戻った。俺はハデスの見送りに玄関へと向かった。ハデスは苦笑しながら玄関を開けた。
「悪かった。今日はオレもやりすぎた自覚はある。申し訳ない」
「いや、いいんだよ。あれくらいじゃなきゃ俺も強くなれないだろうし。次も死なない程度に鍛えてくれ」
「わかった。まあ、なんだ、あれだな。お前は愛されてるな。姫様が他人のことでここまで怒ったのは見たことがない」
「そうなのか? あいつ単純だからそういうこと結構ありそうだけど」
「単純な女性なんてそういないぜ。誰だって一つや二つ複雑な事情を抱えてるもんさ」
遠くを眺めながらハデスは言った。何か心当たりがあるのだろうか。
「とにかく、今日はゆっくり休め。明後日あたりもう一度くるから。あー、あと姫様の機嫌も取っておいてくれよ」
そう言うと、ハデスは夜の空へと消えていった。家の中に戻り、風呂に入って、髪を乾かして、ソファーに座った瞬間、体の力が全て抜ける。
「あ……あれ?」
やはりポーション漬けにされるのはあまり体には良くないようだ。眠気が心地よくない、強制的な眠りへいざなった。
それからの毎日は飛ぶように過ぎていった。週に何度か顔をだした部活動では、主人公の料理を部活終わりに食べに来た相川が、サッカー部に広めた結果、最終的に部員の殆どが練習終わりに実習室に顔をだす始末。その噂はまたたく間に広がって他の運動部員も何人かは顔を出すようになった。やりがいはあったが、なかなかに大変だった。
ハデスとの戦闘訓練も続けて行った。最後までやりきれなかった筋トレも次第にできる回数が増えていった。格闘だけでなく、ファイティングナイフのような緊急時用の神器をハデスから借り受けて、その訓練も行い始めた。始めの頃に比べて、ハデスの動きにも対応できるようになったと思う。
体つきもだいぶ変わってきたかもしれない。洗面所の鏡を見てふと思う。そこへ口をゆすごうと洗面所にアテナが入ってきた。
「あなた……ずいぶん体つき変わったわね。まるで別人じゃないの」
「そこまでは変わってないだろ」
「そんなことないわよ。ほらこことか」
アテナは俺の腕のあたりにそっと手を触れた。そこからすっと流れるように指が動いていき、胸筋に触れる。軽く叩くように筋肉を押したり、軽く撫でるように触れたりと夢中になっているアテナ。瞬きもしないで少し息を荒くしながら。
「おい、アテナ。夢中になっているところ悪いんだが、なんか恥ずかしいからそろそろやめてくれ」
「……はっ。そうね。いやなんかごめんなさい。もう出てくから!」
アテナは顔を赤く染め、百八十度体を反転させて洗面所をあとにする。何だったんだ……。ただ、俺も着実に成長しているのは確かだ。鏡を見据え、改めて自分の目標を定める。
――俺は、もう二度と家族を失いはしない。




