Chapter 3:僕と短冊
「しまった……いくらなんでも早く着き過ぎたな」
改札を出てから勘違いに気付く。連休明けで勘が鈍ったのだろうか。
この辺りで暇潰しとなるとバーガーショップかカフェの二択だ。
どちらにも学生がいるだろう。
もう少し進めばファミリーレストランもあるが、朝家事を終えた主婦がお喋りに花を咲かせている。
さてどうしたものかと駅前のロータリーを眺めながら思案する。
気温は低くないがどんよりした曇りのせいで肌寒く、建物の中に入りたかった。
と、どこからかチイチイか細い鳴き声がした。
声を辿ると、駅舎の天井付近にツバメの巣があった。器用なことに、ほんの少しのでっぱりの上に土台を形成して見事な巣を作り上げている。
よく見ると巣の下には小さな板がくくりつけられていた。フンが落ちないようにとの人間側の配慮らしい。
「へぇ……」
感心しながら視線を落とすと、残念なことに床は汚れていた。
しかし周囲にはコーンが置かれ、『頭上にツバメの巣があります』と注意書きまで貼られていた。
「へぇぇ……」
僕はもう一度感嘆の声を漏らした。
カシャリ
シャッター音が左の方から聞こえ、驚いて振り向く。僕と同じ年頃であろう女性が、折り畳みタイプの携帯をツバメの巣に向けていた。
そうか、今は携帯で写真を撮る人もいるんだ……
つられて僕も尻ポケットから携帯を取り出す。ストレートタイプの機種だ。
シャツの裾でレンズを拭いてから巣に向ける。
カシャッ
「あ、」
隣から小さく声があがる。
一瞬、黄色いくちばしが見えた気がした。
画面を確認するより先に彼女と目が合う。彼女はふふ、と微笑んだ。
「撮れました?」
いい笑顔だ。
どぎまぎして一瞬返事が遅れたけど。
「どうだろう。カメラより随分小さく写るから」
携帯を確認すると小豆大の巣が写っていた。更に小さいくちばしなど、見分けられるはずもない。
「ここのキーを押すと大きく見えるんですよ」
すぐ近くまで寄って来た彼女が、細い指で僕の携帯を指した。
その指の可愛らしさに目を奪われ、また返事が遅れる。
「あ、そ、そうなんだ。ありがとう」
僕の手と声は少し震えた。
画像が徐々に拡大される。
小豆から小さめの空豆になった頃ようやく、黄色い三角が現われた。
「写ってましたね。いいなぁ」
ショートヘアを揺らしながら彼女は笑う。ふわりと桃の香りが漂った。
親鳥がくるりと回転しながら巣へ向かう。途端に黄色い三角たちが我先に主張をし、僕たちは撮影を忘れて見入っていた。
仔や雛というのは、どうして無条件に可愛らしいのだろう。
「可愛いですね」
彼女がつぶやく。
「ええ……可愛いです。とっても」
僕は彼女の横顔を見つめながらそうこたえた。
カメラ機能付き携帯電話が発売されたのはつい近年だ。
各社競い合うように新機種を出し、今ではカメラなし携帯は「ダサい」と言われる始末。
だからというわけではないが、僕が去年購入したのもカメラ付きである。
しかし、携帯で撮影する人はまだあまり見ない。本当のカメラと比較すると画質が劣るせいだろうか。
彼女が撮った写真も見せてもらった。
僕のより新しいタイプらしい。画像が少し綺麗だった。
高校生の頃は、カメラバッグを携えてスポーツサイクルでちょくちょく出掛けていた。だが上京してからは年に数回、最近は桜の季節に撮ったきりだ。
友人たち曰く、大きなカメラやカメラバッグを持ち歩くのは「ダサい」らしいのだ。そのくせ、宴会や行事の時にはカメラマン役を押しつけようとする。
僕は面倒事を嫌ってカメラを持ち歩かなくなった。
しかしやはり、このツバメのような被写体に出逢うと、手の中にカメラがないことがもどかしい。
彼女は待ち合わせだったらしい。
髪の長い女性に声を掛けられると、僕に向かって軽く会釈して駅を出て行く。
僕は彼女たちの姿が桜並木に溶けるまで見送っていた。
この時間帯にここで降りるのは、私服可の高校生か大学生だろうか。
ひょっとしたら通勤途中かも。それにしてはあまり化粧気がなかったけれど。
彼女は少しボーイッシュなショートヘアにパンツスタイルが似合っていた。
連れの女性はいかにも女性的な服装で、大人っぽい印象だ。タイプはまるで違うのに、仲がよさそうだった。
いや、タイプが違うからこそ、仲がいいのだろうか。
* * *
あの日以来、気付くと僕は毎日同じ時間に駅に降りていた。
ただいるだけでは不審人物になりそうなので、ポケットサイズのカメラを持って来た。望遠ズーム機能付きだ。
そうして二週間ほどツバメの巣を撮っていたが、一度も彼女と会えなかった。
今日も逢えなかったな……毎日そう思いながら駅を立ち去る。
そのたびに胸の奥がきゅっと痛くなった。
まさかあれだけで彼女に惚れたのか? いくらなんでも免疫なさ過ぎだ。
いや、そんなんじゃない……と自問自答する自分に気付き苦笑する。
代わりといってはなんだが、中年の女性駅員に話し掛けられるようになった。
駅員は赤い屋根の小さな駅舎の由来や、メインストリートの桜並木、商店街の紫陽花について色々教えてくれた。
それから、僕が通っている大学出身の有名人についても。
出身地を訊かれ、北国の都市の名を挙げると感心したように声をあげた。二十年ほど前、旦那さんと旅行に行ったことがあるらしい。
ライラックの季節だったというから、東京では梅雨の時期だ。
やがて雛は飛翔の練習を始める。
始めは地面に落ちて通行人をひやひやさせていた雛も、いつの間にか親と同じように飛び回れるようになった。
「もうすぐ巣立ちですねぇ……淋しくなるわね」と、駅員が僕に声を掛ける。
毎日のように撮っていたから、よほどツバメ好きに見られたのかも知れない。
そろそろ梅雨入り時期だ。
彼女とは逢えないままだった。
* * *
梅雨のない地方で生まれ育った僕は、上京当時にわずかな恐怖と少しの期待を持ってこの季節を迎えた。
だが、毎日しとしと雨が降るのではないと知り、妙にがっかりしたものだ。
これからの時期、駅から大学のメイン通りに大きさも様々な紫陽花が咲き乱れる。彼らは被写体としても好ましい。
昔ながらの青や紫のほか、グラデーションで着飾ったもの、槍の穂先のように花がつくものなど、ここに来て初めて見た種類も多い。
駅員が改札前の端に大きな笹を立てていた。揺れるたびに涼し気な音が鳴る。
寺院の煤払いにも似ているな、などと考えながら眺めた。
でも七月に七夕をするのは全国規模ではない。僕がいた土地は……と余計なことばかり考えるのは、どうにかして暇を潰さなくてはという使命感からだ。
ツバメの巣を撮影するという口実が、そろそろ使えなくなって来ている。
彼らは巣を留守にすることが増えていたから。
とりあえず七夕飾りを設置している様子を撮影する。
ファインダーの中の駅員が時々、遠くから照れた笑顔で手を振ってくれた。
やがて笹の飾りつけも済んだようだ。
カラフルな折り紙の鎖の他に、色とりどりの短冊が早速結わえられている。二メートル以上の高所にある短冊は、ここの駅員が書いたんだろうか。
あんなに高いと読めない気がするけど。星から見えればいいんだったっけ?
七夕なんて、小学校低学年の頃までの記憶しかない。短冊を書く理由も忘れているし、何を食べるのかということも定かではない。
「よろしければどうぞ」と、女性駅員が視界に割り込んで来た。緑色の短冊とペンを差し出している。
うろたえながら周囲を見ると、丸いバーテーブルに着いていそいそと何やら書いている女性や、小さな子どもを連れた主婦が数人いた。
バーテーブルは普段見掛けない物だ。短冊用に設置されたらしい。
七夕までの約一ヶ月、毎年こうして笹を飾り、願い事の短冊を吊るすのがこの駅の恒例なのだそうだ。
去年も一昨年も通学に使っていたのに、今まで気付いていなかった。
僕の中では、七夕とはロマンチックなおとぎ話による女子どもの行事、という認識がある。
だから気恥ずかしかったが、礼を言って受け取った。
書く振りをして、テーブルの中央に置いてある小箱に短冊を戻そう――そう考えながらその場を離れる。
女性駅員は、改札から出て来た通勤、通学客に笑顔で短冊を差し出す。
だが無言で一瞥しただけで、足早に通り過ぎる客もいる。
その様子を眺めていると、田舎と都会の違いをひしひしと感じる。東京のすべてがそうというわけではないだろうが、やはり個人同士のすれ違いも味気ない気がして来るのだ。
ふと『あの彼女に、もう一度会いたい』という想いが強く湧いて来た。
どうせ願ったところで叶わないのだが。
都会の生活に味気なさを感じていた中での、ほの甘いすれ違い。僕はそのシチュエーションに酔ったのだろう。
でも、こういった願いなら、たとえ気の迷いでも七夕飾りにはぴったりの内容じゃないか。書いたのは僕だとわからないのだし。
『彼女にもう一度会いたい M・I』
そう書いて、改札横に設置されたポスト型のボックスに投入した。
* * *
「岩本、来週金曜空いてる?」
角倉が講義終わりに寄って来た。こいつが僕の予定を訊く時は、大抵ろくなことじゃない。それでも律儀に答える僕も、人がいいもんだと思う。
スケジュール帳を開く。
「バイトは入ってないなぁ」
「なんだよガンちゃん、まだスケジュール帳使ってんの?」と、トモヤが覗き込む。トモヤは高校の頃からの友人で、同じ大学の上京仲間だ。
「お前、人の手帳覗くなよな」
「今は携帯で予定書けるんだぜ?」
奴はそう言って二つ折りの携帯を開く。キーを操作するとカレンダーのページが出て来た。
「こうして予定を書き込んでったらさ……」
「いちいちキーを押さなきゃいけないじゃないか。手帳を出した方が、書くのも見るのも速いよ」
「んー、でもこれアラームもセットできるぜ?」
「そんなにしょっちゅう使わないだろ、アラームなんて」
「ばっかだなぁ。時代はデジタルだっての」
ちなみにトモヤは電子手帳が流行った頃、早速購入して自慢してたくせに、三ヶ月も経たず持ち歩かなくなった飽き性だ。電子辞書も然り。
彼の電子辞書は、今は五つ下の妹が愛用しているという。
だから多分、携帯のスケジュール表もすぐ使わなくなるに違いない。
「僕はこれでいいんだよ」
「ガンちゃんアナログ人間だよなぁ」
トモヤがにやけながら見せびらかした携帯に向かってパンチを繰り出し、あの彼女と同じ機種だと気付いた。
「トモヤ、それいつ買ったんだ?」
「これ? こないだ出たやつだぜ。最新!」
「へぇ、そうなんだ」
あまり気のない反応をしたので、今度はトモヤからパンチが飛んで来る。
流行に敏感なタイプの女性なら、僕のような見栄えのしない学生など箸にも棒にも掛からないものに見えるだろう。
早々に憧れを断ち切った方が無難な気がする。
角倉はふざけ合っている僕らには構わず、リストを作っていた。
そういえば、なんのためのリストだろう。
角倉に訊いてみると、その日は音大の女子とのコンパだと言う。
「お前見た目だけは文系っぽいし、そういうのがいた方がいいかなって俺が推薦しといた」
トモヤは悪びれずに言う。
「その通りだろうけど失礼だな」
こんなでも、奴とは不思議と馬が合うのである。
ちなみに僕は経済学部だ。そしてトモヤは社会学部。
* * *
コンパの当日。
数日続いた雨が過ぎ、曇りだったが久し振りに傘を持たずに出掛けられた。
駅前の広い歩道に僕たちがたむろっていると、着飾った女子の集団が三角屋根の駅舎から出て来た。
お互いの幹事が挨拶を交わす。
音大生のイメージに違わぬ清楚な女性もいれば、ちょっと派手めなファッションの女性もいる。その中にひとり、見覚えのある顔を見つけた。
彼女だ。
胸が高鳴る。しかし同時に軽く失望した。
コンパに来るような人だったのか……僕は自分のことを棚に上げ、心の中でため息をついた。
「それではぁ~、まず彦星側から自己紹~介っ」
トモヤと同じ学部のケンが進行を務める。
芝居がかった台詞回しで、そういえば七夕の前日だと今更気付いた。
僕は「岩本です。ビールが好きです」とだけ言って終える。どうせノリのいいトモヤや角倉に人気が向かうに決まってるからだ。
その後は一番端に陣取ってつまみをつつき、ただひたすら飲んでいた。
飲み放題は飲まなければ損だ。
貧乏性というわけではない。ビールが飲めるのなら飲めるだけ飲みたい、という飲酒欲に従っているのだ。
「そのジョッキ何杯目? お酒強いんだね?」
顔を上げると、彼女が向かいの席にいた。ピンク色の飲み物を手にしている。
「あたしこういうとこ初めてで……どうしたらいいのかわかんなくて」
「あぁ、僕も。人数合わせで呼ばれたようなもんだから」
そうか、初めてなのか。そうか。
僕はしきりにうなずきながら、オニオンリングをつまんだ。
サクッとした衣の味付けが絶妙で、思わず目が丸くなる。
「あ、これ旨っ」
「ほんと? あたしも食べてみようっと」
ぱっと笑顔になって、彼女もオニオンリングをつまみ、かぶりついた。
「ほんとだ、美味しい――家でも作れるかな」
「料理、する人なんだ?」
訊いてしまってから、いきなり失礼だったかと慌てた。
「あ、ごめん。僕、つまみなら作るんだけど、自炊ってほどじゃなくて」
彼女はちょっと目を見開いてからくすくす笑った。
「え、それって、ごはん作りに来て欲しいとか、そういうあれ?」
「あぁっ、ごめん。いやそうじゃなくて」
度重なる失言……酔いが覚めた。
「ふふ。ちょっと意地悪した。ごめんなさい。そういうタイプじゃなさそうだもんね――ええと、イワモトくん」
まぁ見えないよな。
違ってたら、もう少し上手く立ち回れてただろうし。
「僕は頭数だから」と、もう一度自虐を含めて笑う。
「そうなんだ、あたしもそんな感じ」と彼女も笑ったので、僕のジョッキを傾ける手が止まった。
酔った僕は多少大胆でお喋りになるらしい。いつの間にか彼女を隣に呼び、並んで話し込んでいた。
飲み会で心おきなく飲んだことがないため、今まで自覚がなかった。
「――でね、全員参加のゲーム以外はいいから、一緒にお願いって言われたの。ほら、髪の長い子」
トモヤと談笑している女性だ。
見覚えがあるなと首を傾げていると「あ、覚えてる? ツバメの巣の時――」
「ああ」
思い出した。彼女を呼んだ友人か。
彼女曰く、短冊をくれた駅員さんは有名人だという。人懐っこいというか親身というか、つまるところお節介焼きらしい。
「――で、入試の前日に、大学名と駅名を勘違いしてここで降りたんだけど。それを聞いて地図をコピーしてくれたのが、その駅員さんなのよ」
コンパの一次会はこうして、ほぼ彼女とお喋りをしただけで終わった。
路上で二次会の参加者を募る中、彼女を駅まで送り、そのまま僕も帰宅する旨をトモヤに伝える。
「なんだよガンちゃん。帰しちゃうのかよ」
その意味を理解して赤面する。
「僕がそういうタイプに見えるか?」
自慢じゃないが、僕にはそういった大胆さは欠片もないぞ。
駅の構内には七夕の曲が流れていた。
相変わらず見上げるほど大きな笹は、湿った風に吹かれているのに軽やかにさらさら揺れている。
彼女たちの音大はこの街の名を冠しているが、実際には隣街にある。
あの時、何故彼女がここにいたかというと、実習先の下見に来ていたらしい。
ではあの邂逅は奇跡のようなものだったのか――そう考えると胸の中がじんわりと温かくなった。
ツバメはとっくに巣立っていた。
空になった巣はどうなるのだろう。
地面のコーンもきれいに片付けられており、今までより広く感じるホールに彼女と佇む。
「あたしの短冊ね、あれ。わかるようにシール貼ったんだ」
ほろ酔いの彼女は背伸びをし、サーモンピンクの短冊に手を伸ばす。
だがまったく届かない。軽くジャンプをしても、指先がはじくだけだった。
短冊に書かれた願い事は、風でくるくると回って読み取れない。
「これ?」
僕は手を伸ばし、数枚の短冊が結わえられていた枝の先端を引っ張った。
すると彼女は下がって来た枝を見て「あ、」と少し慌てた。そんなことをすると思わなかったようだ。
何故だろうと思いながら、目の高さの短冊に視線を走らせる。
『もう一度会えますように T』
瞬間、胸が高鳴った。
だけど枝と一緒に下りて来た数枚の中に緑色の短冊を見付け、今度は僕が慌てた。
「いや、まさか――」そんな、出来過ぎな話ってあるだろうか。
僕の視線に気付き、彼女がその短冊に手を伸ばす。
「――ときに、イワモトくんの下の名前、なんていうの?」
「ミ……実」
僕はどうしようもなく顔を火照らせた。
彼女はそれで何かを理解したらしい。酔っているからという言い訳は効かない。
しばらく無言のまま短冊と僕を交互に見ていたが、やがてにっこり微笑む。
「ねえイワモトくん。今年の夏は暑くなるみたいよ」
その微笑みも鮮やかな桜色に染まっている。酒を飲み過ぎたように。
彼女はほんの少ししか飲んでいなかったのに。
「あたしね、夏になったら行きたいところがあるの――イワモトくん、よかったら一緒に行ってくれないかなぁ?」
どうやら空の神様は――ひょっとして、お節介で有名なあの駅員さんかも知れないけど――七夕の奇跡を起こしてくれたらしい。
そうして、ここから僕たちの長い物語が始まった。