おごってやるよ
それは突然だった。
俺は妙にテンションが高くて、両手放しで自転車をこいでいた。あまり得意ではなかったが、登下校の道で慣れていたし見通しもよかったため何度もしていた。そんな俺に、あいつは「いい加減にしろよ」と呆れ口調で注意を促した。そんなこともお構いなしにこいでいた俺は、ふっとバランスを崩した。
そこに丁度加速したトラックが通りかかった。
後はあまり覚えていない。でもその瞬間に、「馬鹿!」と叫ばれながら物凄い勢いで突き飛ばされたことは、力の余韻が残っていて覚えていた。
気がついたらあいつは血だらけだった。
トラックを運転していたおっさんが青い顔をして駆け寄ってきて「大丈夫か?」と駆け寄ってきた。はい、と答えると倒れているあいつをちらちら見ながら電話をし始めた。少し後ろには原型を留めていない自転車と、少しかごが曲がった俺の自転車があった。誰か知らないおばさんが「今救急車来るからね」と心配そうに俺に言った。
その間、俺はただいろいろな人間に取り囲まれていくあいつをボーっと見ることしかできなかった。
俺はたいしたことなかったが、一応一緒に救急車に乗って病院に向かった。救急隊員の人がいろんな機械をあいつに取り付けていた。
それでも俺はどこか冷静でいた。
病院に着くと、早速あいつは奥へ連れて行かれた。
まるでドラマを見ているかのようだった。
一緒に手術室に行こうと思ったら、看護婦が「手当てしようね」と言って微笑んだ。そしてやんわり掴まれた腕に、電気が走ったかのような痛みを覚えた。医者に見せたら「痛くなかった?折れてるよ?」と笑いながら言われた。はぁ、と答えると、医者はもう一度笑って「このまま入院ね」と言ってカルテとかいうのを書いていた。その後は、看護婦に言われるがまま着替えさせられベッドへ寝かされた。
「お友達が心配?」
せかせか準備をしてながら、看護婦は俺に言った。あいつは、と聞くと「まだ手術中」と言って少し困ったように笑った。
「家の人もうちょっとしたら来るからね」
俺なんかにぺこっと頭を下げ、看護婦は出て行った。それから10分後ぐらいに、泣いているのか怒っているのかわからない母親が勢いよく病室に入ってきて、それはまあ手加減なく俺に平手打ちをした。
一応怪我人なのに。
「この馬鹿息子!」
「落ち着いてくださいお母さん」と言う看護婦を尻目に、ぎゅうっと俺を抱きしめた。骨が軋む音が聞こえた。経験したことのない激痛に意識を奪われそうになりながら、俺は母親の暖かさを嫌というほど感じた。
それから数日後、やっとあいつは集中治療室から一般病棟に移ることになった。しかし意識が戻る気配はなかった。俺はギプスをした腕のまま、あいつの病室へ向かった。ずっと行くけなかったあいつの元へ。やけに重いドアを開けると、部屋には母親らしき人がいた。あっ、と口から思わずこぼれ俺は頭を下げた。
「もしかして・・・水木君?」
俺の母親とは違って、優しくて落ち着いた声に俺は顔を上げた。
「心配して来てくれたの?ありがとう」
俺は微笑むその人に責められているかのような気になった。すみませんと言っても許されるようなことじゃなかったが、そんな言葉しか思い浮かばなかった。何度も何度も言うたびに、涙が止まることを知らないかのように流れ続けた。自分のしたことの大きさに後悔し、今更ながら痛感した。
もっと罵倒してくれれば。
もっと蔑んでくれたら。
ほんの少しだけ楽になれたのに。
それを許さないかのように「もういいのよ」と言って、ガキみたいに泣きまくる俺をその人は抱きしめた。
それから俺は、眠るあいつの隣にあった椅子に静かに座った。
本当に眠っているかのようだった。
「あの、紙と鉛筆ありますか?」
「何か書くの?私が代わりに」
右腕を吊った俺を心配する人に、俺は軽く首を振った。
「自分で書きたいんです、お願いします」
そう言った俺に、小さな紙と鉛筆を渡してくれた。初めて左手で書いた文字は、あまりにも下手くそだった。それでも俺は、時間をかけながらも全部書ききった。
目がさめたらおごってやるよ
それだけ書いて俺は手を置いた。気がついたら額に汗が滲んでいた。
「これを、目が覚めたら渡してくれませんか?」
俺の震える手を握りながら「必ず渡すわ」と言って、その人は微笑んだ。お願いします、と言って入ってきた時より探く頭を下げ俺は病室から出た。長い長い廊下を歩きながら思い出されるのは、あいつの機嫌の悪そうな顔ばかりだった。
泣きすぎて腫れた目に日差しがあたる。俺は少しだけ立ち止まり外を覗いた。木々が、風に揺らされていた。
そしてまた俺は涙が出そうになり、歩き始めた。




