7 けん玉
ペスト氏はおもむろに奇妙な仮面を装着した。
顔面を含めた全身が完全に黒く覆われる。
明らかに異様な格好だが、ちょうど柱の陰の死角になっているため、店内の他の客からはペスト氏は見えない。
ただひとりアマビエ様だけがその姿を見ていた。
「相変わらず美しいわ。私はその黒いくちばしを見るたびに、私たちが滅びゆく存在であることを思い出すの」
「どうかお気になさらずに」
いつも商談中にペスト氏が仮面を被るのはなぜなのか。
取引の最中で素顔から感情を読み取られるのを避けるため?
取引相手に威圧感を与えるため?
特殊な売買に参加していることを実感させるため?
さまざまな憶測が流れたが、ペスト氏は決して真の理由を明らかにしない。
だがアマビエ様にとっては理由などどうでもよかった。
この不穏な仮面の男からモノを買う瞬間がたまらなく心地よかった。
絶滅危惧種に指定された動物から、臨床試験前の新薬、盗難された絵画まで、ペスト氏はあらゆる商品を扱った。
アマビエ様はペスト氏の常連客だった。
いよいよペスト氏はアタッシュケースから本日の商品を取り出す。
握りこぶしほどの大きさの真紅の球体と十字状に組み合わされた木片。
その二つが一本の紐でつながっている。
けん玉である。
「それは何?」
「玩具人形協同組合が秘密裏に開発を進めている最新鋭のけん玉です」
「けん玉……」
ペスト氏は木片の一端を強く握りしめる。
「最近、不眠やストレスに悩まされるとおっしゃっていましたよね」
「ええ、ときどき言いようのない不安にさいなまれるの」
「古来よりけん玉はストレス解消に役立つとされてきました。かつて病により隔離された人々が、けん玉に興じることで心を慰めたといいます」
「どう使うの?」
「ひとつ実演してみましょう」
ペスト氏が木片を素早く傾ける。
「よっ」
紅い球が高く舞い上がる。
球は木片の尖った先端に落下する。
「はっ」
再び跳ね上がった球は木片の側面に着地する。
「せいやっ」
ペスト氏が再度力を加えると、球はくるくると空中を回転し、最後には木片の持ち手部分で絶妙な均衡を保って静止した。
「いかがでしょうか」
「素晴らしいわ!」
アマビエ様の拍手の音がカフェ・パンデミックの店内に響き渡った。
「それで、いくらなの? そのけん玉は」
「実をいうと、これには値段がないのです」
「どういうこと?」
「無料なのです。ですから私はこれを売ることができません。アマビエ様、あなたに差し上げます」
「そんな、悪いわ」
「いいえ、是非受け取ってください。ですが覚えておいてください。タダより高いものはないということを」
そう言うなり、ペスト氏は仮面を脱ぎ、立ち去った。
テーブルの上には、けん玉だけが残されていた。
アマビエ様はそっとそれに触れた。
世界初の基本無料、課金型のけん玉。
ある程度上達したところで作動する動作支援システムが組み込まれている。
上達速度を高め、次々と大技を繰り出すためには、課金せざるを得ないように巧妙に設計されているのだ。
不意に手に入れたこの最新鋭けん玉によって、後に大いに苦しめられることを、このときのアマビエ様は知るよしもなかった。