エピローグ 夏めく鎌倉、今、進む時4
さわさわと葉擦れの音が響き、日中に比べるといくぶんかは冷めた風が、頰を撫でていく。風の中には、ほんのりと潮の香りが含まれている。ふと遠くを眺めると、夜空にぽっかりと浮かんだ月と、月光に煌めく昏い海面が見えた。なにかの虫の声が一帯に響いていて、なんとも涼やかな虫の合唱を聴いていると、昼間の暑さを忘れさせてくれるようだ。
さらりと自分の首元を手で撫でる。普段は下ろしていることが多いけれど、今は髪を結い上げているからか、うなじがスースーする。うーん、こんな感想を抱くのは女としてはどうなんだと苦笑を零しつつ、遠くの海面を眺めてその時を待つ。すると、隣に立っていた朔之介さんが声をかけてきた。
「寒い?」
「いいえ、大丈夫です」
「ここは海風が吹き付けるからね。寒かったら言うんだよ」
朔之介さんはそう言うと、視線を海に戻した。私は、そんな彼から目線が離せなくなって、ぼうっとその姿を眺めた。今、朔之介さんは浴衣を着ていた。彼が纏っているのは、紺色の本麻の浴衣。シンプルながら、上質な麻が使われていると一目でわかるそれは、朔之介さんにとても似合っている。
明治生まれの彼は、普段から着物を着慣れているらしく、そのこなれ感たるもの上級者の匂いがプンプンする。帯の締め方ひとつとっても洒落ていて、結び方の名称どころか、どうやって結ぶのかすら想像がつかない。もっと和装について勉強するべき……? と、ひとり悩ましく思っていると、私の視線に気がついた朔之介さんが、ふわりと微笑んだ。
「それいいね、とっても似合ってる」
「そ、そうですか……?」
私は嬉しくなって、自分の格好を見下ろした。――そう、私も浴衣を着ていたのだ。
あの騒動の後、店じまいを終えた私は、青藍さんに拉致された。密室に連れ込まれた私は、青藍さんの知り合いだという女性のあやかしたちに囲まれて、あれよあれよという間に、小洒落た浴衣に着替えさせられたのだ。
その浴衣は、青みを帯びた白地に、紫の藤の花が色鮮やかな麻混の浴衣だった。シャリっとした肌触りをしていて、生地だけであれば若い子でも着られそうな可愛さがある。けれど、帯が落ち着いた藍色をしていて、それが合わさるとなんとも大人っぽい雰囲気を醸し出すのだ。そして、極め付けがあの櫛だ。菊江さんが遺していった櫛。着付けの最後に髪に挿すと、自惚れではなく、浴衣が、帯が、櫛が――ぴったりと自分にはまったような気がした。
『この櫛が一番似合う彼女に差し上げてください』
菊江さんが遺したメモを思い出して、ふっと微笑む。
「……菊江さんの御墓参りの時、お礼をしなくちゃですね。それに、こんなに素敵な浴衣を用意してくれた青藍さんにも」
「うん。きっと、喜ぶと思うよ」
「もちろん、朔之介さんにもですよ?」
「僕にも? どうして?」
朔之介さんは、不思議そうに首を傾げている。――まったく。この人は、自分のことに関しては本当に疎いらしい。私は半ば呆れながら、彼にお礼をする理由を挙げていった。
「さっき、元婚約者から私を守ってくれたじゃないですか。それだけじゃないですよ、ふらっと鎌倉にやってきて、あやかしが視えるようになってしまった私を、カフェの仲間として受け入れてくれました。あやかしたちに、私を紹介してくれたりもしました」
その時、海上で動きがあった。停泊していた船に小さな光が灯る。
「それに今だって」
――瞬間、どおん、と鎌倉の海に大輪の花が咲いた。
パチパチと弾ける色とりどりの刹那の閃光。闇色の合間に微かに瞬いていた星々を隠して、強烈な光を放ちながら、しゅるしゅると昇って、弾けて、消える。その数はあっという間に増えていき、短い命を、これ以上ないほどに華やかに、そして煌びやかに観衆に見せつけて、最期は瞬きながら海に落ちていく。
「私を元気づけるために、花火が見える場所に、わざわざ連れてきてくれたんでしょう?」
今日は、初夏に行われる鎌倉の花火大会の日。昭和二十四年から続く、由比ヶ浜と材木海岸で開かれている大会で、約四千発の花火が打ち上げられる、鎌倉の夏の風物詩だ。
そう、これを私に見せるために青藍さんは早めに店を閉めたのだ。そして、朔之介さんは地元民しか知らない山の中の高台まで、私を連れてきてくれた。由比ヶ浜が一望できるここは、人の混雑に煩わされることもなく花火を鑑賞できる隠れスポットなのだという。
「……最近、君の元気がなさそうだったから、どうにか慰められないかと思って」
朔之介さんはそういうと、照れ臭そうに顔をそらした。
「別に、私に気を遣わなくてもいいんですよ?」
さっきも言ったとおり、私は朔之介さんたちに色々とお世話になっているのだ。これ以上してもらっては、恩を返せなくなりそうで困る。そう言うと、途端に朔之介さんは不機嫌そうに唇を尖らせた。
「君は、僕には恩返しさせないつもり? 僕が君にしてもらったことは、これっぽっちのことじゃ返せない」
「あれは、私がしたかったからしたまでです。別にお返しはいりません」
「じゃあ、僕だっていらないさ」
「それは駄目です! 絶対に恩は返します!」
ふたりして、ムムムと睨み合う。どうにも不毛な言い争いをしているのはわかっているけれども、どっちも譲らずに、只々、時間が流れていく。
――どおん!
また、一際大きな音と共に花火が上がった。今まで見たものの中で一番の大輪の花が、夜空に花開き、消えていく。どうも、花火大会もいよいよ盛り上がってきたようだ。花火の規模が大きくなり、種類が増え、見応えのあるものになってきている。――変な言い争いをしていたせいで、それまでのものを見逃してしまったようだけれど。
私と朔之介さんは、お互いに顔を見合わせると、ふっと笑みを零した。このまま、花火を見ないで終わるのはもったいない。言い争いをやめて、花火に視線を移す。視界に光の残像を残して消えていく火花はなんとも美しく、喧嘩しているのが馬鹿らしくなってくる。
「まあ、受けた恩は追い追い返していきますからね」
「君は強情だなあ」
「朔之介さんほどでは」
その言葉を最後に、ふたり黙り込む。打ち上がる花火も美しいけれど、空に咲いた極彩色を写し取る海面もまた美しい。
「――あ、そういえば」
ふと、あることを思い出して、朔之介さんにあることを尋ねた。彼は、ん? と首を傾げると、私を見て――その問いを耳にすると、カチン、と固まってしまった。
「さっき、私のこと『詩織』って呼びましたよね?」
「そ……それは、ええと」
しどろもどろになって、顔を真っ赤にしている朔之介さんに、ちょっと意地悪かな、と思いつつもさらに追い討ちをかける。
「どういう意図があって、私を呼び捨てにしたんですか?」
彼の生まれを考えると、名前を呼び捨てにすると言うのは中々に勇気のいることだ。それこそ、本当に親しい相手じゃないと、呼び捨てにはしないくらいには。相手が――アラサーとはいえ――未婚の異性ならばなおさらだ。少しの期待を胸に、彼をじっと見つめる。すると朔之介さんは、一瞬だけ視線を宙に泳がせると、少し気まずそうに言った。
「僕は、青藍や君に、心配されたり守られたりするばかりだったろう? だから、君を守らなくちゃと思って呼んでみただけだよ。まあ、最後は豆腐小僧にいいところを持っていかれちゃったけどね」
「そ、そうですか」
……どうも、深い意味はなかったらしい。
こっそりと落胆しつつ、でも呼び捨てにされたこと自体は、距離が縮まったみたいで嬉しいなあなんて思ったので、いつもどおりに戯けることにした。
「なあんだ、てっきり私のことが好きだから、呼び捨てにしたのかと思っちゃいました!」
「……え?」
けれども、私はすぐに巫山戯たことを後悔することになる。
――なぜならば、そんなことはないよ、と反応がくると予想していたのに、目の前の色白のイケメンの顔が、ぱっと赤く染まったのだ。
「…………へっ?」
思わず間抜けな声を漏らして、じっと目の前の朔之介さんを見つめる。たらたらと冷や汗を流している朔之介さんは、不自然なほどに動揺しているように見える。それを認識した途端、カッと私の顔も熱くなって、みるみるうちに汗が滲んできた。
「あの、あの! さ、朔之介さ……」
その瞬間、辺りに一層大きな音が響いた。終盤に向けて、花火大会が一番の盛り上がりを見せているらしく、同時に何発も何発も上がるものだから、声がかき消されてしまう。仕方なしに、私は口を閉ざした。
鼓膜を震わせる、激しい花火の音。それしか聞こえない状況は、不思議と静寂に似た性質を持っているように思えた。視界の角で、激しく火花が散っているのが見える。けれども、目の前に立つ人の薄い色の瞳の中に、見事な花火が写し取られているので、そちらを見る必要を感じられなかった。
――この花火の音が止んだ時。
彼の本心を聞けるのだろうか。
ああ、もどかしい。早く聞きたいような、聞きたくないような。心臓が今までにないほどに早鐘を打っている。花火はしばらく止みそうにない。永遠とも思える時が流れていく――。
すると、しびれを切らしたのか、朔之介さんは少し躊躇するような仕草を見せ、意を決したように私の傍にやってきた。そして、ずいと私の耳元に自分の顔を寄せて声を張り上げた。
「……好き、とかそういう感情はよくわからないんだ!! でも、単純に、大切な人の尊厳が変な奴に貶められるのが耐えられなかったんだ。呼び捨てにしたこと、気に障ったのなら謝る!!」
「――……っ!?」
ああ、感情が乱高下して忙しい。よくわからないと言われて沈み、けれども、「大切な人」――その意味を想像して、一気に天にも昇るような気持ちになる。それは、なんとも気障な言葉で……私の心を動かすには充分だった。
(ああ、やっぱりこの人を好きになってよかった)
涙が滲みそうになるのを必死に堪えながら、気持ちを鎮めるために静かに息を吐く。
わからない、ということは可能性が多少なりともあるんだろうか。正直、自惚れるほど自分に自信は持ってない。けれど、彼が普段はしないようなことをしてまで、私を守ろうとしてくれたことに意味がある。そこにはきっと、温かな気持ちが籠もっているはずだから。
(片思いでも、なんでもいい。この人と、これからも一緒にいたい)
だから、私は朔之介さんの耳元に顔を寄せると、自分も声を張り上げて言った。
「怒ってなんていませんよ。助けてくれて、本当にありがとうございます……!」
その瞬間、連続して打ち上げられていた花火が止んだ。
しん、と辺りは静まり返り、風で木の葉が擦れる音と、虫の鳴く声だけが響いている。
そんな中、私は朔之介さんの傍に寄り添ったまま、動かずにいた。肌が触れるほど近い、この状況ならば――私の鼓動が異常なまでに早いことくらいは伝わるんじゃないか、なんて希望的観測を立ててみる。けれど、頭の隅に住まう冷静な自分は、わかるはずがないと考えてもいた。いつもならば、大抵冷静な自分の考えが当たるのだが――。
「…………っ!?!?」
急に朔之介さんの顔が真っ赤に染まったかと思うと、思いのほか素早い動きで後退りされて驚いた。パクパクと口を開いたり、閉じたり。彼は、私が顔を寄せた方の耳を手で押さえて、動揺している。
「え? ええ? えええ……?」
まさか、私の気持ちが……? いやいや、それはないだろう。きっと私が何か仕出かしたに違いない。そもそも、先に朔之介さんがやってきたことを、私がやり返したようなものだ。そんな状況で、赤面する理由が――……。ああ、まさか。
「自分もやられてみたら、思いのほか恥ずかしかった……?」
ふと浮かんだ考えをポツリと零す。すると彼は、ガクガクと頷いて真っ赤な顔を両手で押さえて、その場にしゃがみ込んでしまった。
「なんて言ったらいいか……本当にすまない! せ、責任は取らせてもらうから」
「いやいやいや、責任取るほどのことです!?」
思わずツッコミを入れて、一瞬固まる。……責任取ってもらっちゃおうか、なんて馬鹿な考えが頭をよぎったからだ。けれど、そんなのできるはずがない。そう思い至ると、途端に笑いがこみ上げてきて――私もその場にしゃがみこむと、お腹を抱えて笑いだした。すると、そんな私の様子をキョトンと見ていた朔之介さんも、徐々に肩を揺らして笑いだした。
花火の音が止み、薄闇に包まれた見張り台に、私と朔之介さんの笑い声が響いている。
するとそこに、呆れ返ったような声が混じった。
「何してるのさ。花火も見ないで。ほら、最後の一発が上がるよ!」
それはサブローで、不貞腐れ気味の三毛猫は「イチャイチャしちゃってさ。目の毒だ」とブツブツ呟きながら茂みの奥に消えた。私たちは顔を見合わせると、ゆっくりと立ち上がった。どうも、最後の一発は特大らしい。準備に時間がかかっているようだ。
私は期待に胸を高鳴らせながら海を見つめると、しみじみと言った。
「――私ね、過去のことに縛られて、ずっとウジウジしてたんです。でも、元婚約者とのことも今日で一区切りつきましたし、これから新しい一歩を踏み出せるような気がします。半ば自棄になって来た鎌倉ですけど、本当にこの町に来られてよかった。責任は取らなくていいですが、これからもよろしくお願いしますね!」
すると、何度か目を瞬いていた朔之介さんは、うっすらと目を細めて言った。
「君が来てくれたお陰で、僕も変われた。母のことも知れた。僕も前を向いて進もうと思う。小説家、また目指してみるよ」
「わあ、本当ですか。応援します!」
「うん。無事にデビューが決まったら――回らないお寿司、奢るからね」
一瞬、なんのことか分からずキョトンとする。けれど、それが七里ヶ浜で言った冗談のことだと思い至ると、私は破顔して大きく頷いた。
「――ぜひ。よろしくお願いします」
するとその時、ひゅるひゅると甲高い音と共に、鎌倉の空に大輪の花が咲いた。
私たちは空を見上げると、互いに微笑みあって――空に残る火花の余韻に、しばらくの間浸っていたのだった。
これにて一応、完結です!
夏編を書けたらいいなあ、と思いつつ。ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました!