秋
今回はダークです。多少の残酷表現あります。
綾芽は微笑む。
目の前のソファに座る不安げな少女を元気付けるように。私は味方よと信じさせるように。
この少女の目には、自分はどのように見えているだろう。ふと綾芽は考えた。
肩下でゆるく巻いたミルクティーベージュ色の髪をセットした有名ヘアサロンの存在も、ニットのアンサンブルの高級ブランドの値段も、きっと何にも知らないでしょうね。
おそらく既製品であろう襟付きの黒一色のワンピースを着た少女に対して、彩芽は25歳の洗練された大人の女性の余裕と美貌を存分に見せつけた。
少女は見慣れないのか、広い部屋の豪華な調度品をキョロキョロ見渡していた。毛足の長いラグと高級ソファを初め、室内は白で統一している。ボブカットの髪から靴まで全身黒づくめの少女は何となく浮いていた。
彼女が気後れしているだろうと、綾芽は優しく声をかける。
「体調はどう?」
「先程は助けていただいて、ありがとうございました……あの、ここは……」
少女が、おずおずと口を開く。思っていたよりも落ち着いた声色だった。
「この商業施設は私のパパがオーナーなの。ここは、知り合いが自由に休憩できるようにって作ってもらった特別室よ。あなたの顔色が悪かったから連れてきたの。説明しないで急に連れてきてごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です」
「ね、あなた、七瀬さんや渉さんのお友達でしょう?」
思いがけない名前を聞いたかのように、少女が目を見開く。黒曜石のような艶やかな大きな瞳と、黒いタイツに包まれたしなやかな脚もあいまって、まるで黒猫のようだと綾芽は思った。
「二人のことをご存じなんですか?」
「ええ、親しくさせてもらっているわ。私、今年のお盆の時期に別荘へ訪れていたんだけど、偶然あなたたち三人を見かけたの。タイミングが合わなくて声をかけられなかったけど」
「そうでしたか」
そのときはまだ夏真っ盛りだったが、大きな窓の外に見えるのは、ペールブルーの空とうろこ雲。のどかな秋晴れだった。
「まさかそのときのかわいい女の子が、ゲームセンターの前で柄の悪い男たちに絡まれてるなんて、驚いたわ。そうそう、自己紹介がまだだったわね。私は橙山綾芽。TOYAMAカンパニーの社長の娘で、関連会社で受付業務をしているの」
「白神美魚です。あの、橙山さんにお願いがあるのですが……」
少し表情を和ませた美魚の言葉を綾芽は遮る。
「私のことは綾芽って呼んで。七瀬さんからもそう呼ばれているし。お願いってなにかしら?」
「彩芽さんに重ね重ねお手数をおかけしますが、七瀬か渉に連絡を取ってもらえませんか? 私、身内がいなくて、二人が私の保護者代わりなんです」
「わかったわ。ちょっと待ってて」
綾芽はにこやかに頷き、部屋を出た。そしてドアを閉じてから膨れっ面で呟く。
「なあんだ、ただの女の子じゃない。どうして七瀬さんも渉さんもあの子に夢中になっているのかしら」
◇ ◆ ◇
『赤城グループの社長子息と青柳会の会長子息が、会社の金を使って縁ある女を囲っているらしい』。
数年前から雇っている情報屋の男から、先日聞かされた噂。
日本有数の大企業と製薬会社の醜聞は、財界や政界の上層でまことしやかに囁かれているそう。彩芽が父親に確認を取ると、その女の正体を暴いて弱味を握るチャンスだと満面の笑みで肯定された。
ホクホク顔の父親と同様、彩芽もすぐさまある計画を立てた。
それは、その女を使って赤城グループの社長子息である赤城七瀬に恩を売り、七瀬の婚約者になること。
彩芽は長年七瀬に恋をしている。執着しているといっても過言ではない。容姿端麗、頭脳明晰、年齢や家柄も含めて、七瀬の全てが自分に釣り合う理想の男性なのだ。しかし、会社関係のパーティーで仲を深めようとしても、なかなか渉は彩芽になびかない。常にそっけなく、寡黙で、反応が薄かった。
それなのに、何故か彩芽の姉である鈴芽にだけ七瀬自ら話しかけては親密そうにしていた。姉に彼と何を話したか詰問しても、他言無用だと言われていると、困った顔で姉は謝るばかり。病弱で美しくもない彼女が憎くて堪らない彩芽は、姉が父親の会社のライバル企業に社外秘の情報を流していると、情報屋にデマを流させた。怒り狂う両親は姉と絶縁、家を追い出された今は誰も彼女の行方を知らない。
一方青柳会の会長子息の青柳渉も、同じくらいハイスペックな男性だが、女好きで有名だった。彩芽に対しても他の女と変わらない丁寧で優しい対応だったため、早々に見切りをつけている。
その噂が出てから、七瀬や渉の周辺を探り、白神美魚という少女の存在に辿り着いた。さらに彼女が現れる場所を調べあげ、彩芽の父親がオーナーである商業施設のゲームセンターに出入りすることを突き止めた。
そして先程、情報屋が雇った男たちを使って、美魚に難癖を付けて絡ませたところに彩芽が登場、一喝して追い払って感謝させ、今に至る。
現在、計画は滞りなく進んでいた。
◇ ◆ ◇
部屋に戻った彩芽は、有名パティシエの洋菓子店のミルフィーユと紅茶を用意し、美魚と世間話に興じた。しばらくすると部屋の外から声をかけられた。
「彩芽お嬢様、お客様がお見えでございます」
「あら、早かったわね。どうぞ、入っていただいて」
ドアを開けたのは、協力者の情報屋である中田だ。30代半ばで気も遣え、なかなかスマートな男なので、今では彩芽の秘書のようなこともしている。
黒いスーツ姿の彼が、二人の男性を部屋の中に通した。一人は仏頂面の七瀬、もう一人は柔和な笑顔の渉だった。
彩芽は立ち上がり、自分が一番きれいに見える笑顔を浮かべる。
「七瀬さん、渉さん、ご無沙汰しております。お二人の大切な方はご無事ですよ。ね、美魚ちゃん? 私たちすっかり仲良くなっちゃったわね」
「彩芽ちゃん、駄目だよ。今まで自分に不都合なことは全部揉み消してきただろうけど、自分のお姉さんを勝手な理由で絶縁させたり、七瀬の気を引くために美魚ちゃんを利用しようとしたのは、さすがに許しがたいねぇ」
「……まあ、何のことですか? 私はご説明した通り、柄の悪い男に絡まれていた美魚ちゃんをたまたま助けただけですのに」
渉の指摘に一瞬言葉が詰まるも、彩芽は笑顔を崩さず頬に手をあてて小首を傾げた。すると、彩芽にとって一番の協力者である男が唐突に口を挟む。
「私が証拠です、彩芽お嬢様。あなたの今回の計画は、渉様と七瀬様と美魚様に、全て筒抜けです。私が雇った男たちも、全員こちら側の人間です。お嬢様の一人相撲に、みんなお付き合いしてあげただけですよ」
「中田、あなた何を言ってるの? 部外者が口を挟まないで頂戴。七瀬さん、こんな男の話なんて信じていませんよね?」
真っ青になった彩芽は、潤んだ瞳ですがるように七瀬を見つめたが、すぐに固まった。七瀬は彩芽と並んで立つ美魚に、見たこともないような優しい視線を送っていたからだ。彩芽には視線の一つも寄越さない。それどころか存在すら無視されているようだった。
激しく傷付いた彩芽は、ギリッと奥歯を噛み締める。憐れみを浮かべた表情の渉がため息をつく。
「中田さんの本当の姿は、僕の父の秘書なんだよ。つまり青柳会の社員だ。彩芽ちゃん、もういい加減に……」
「私知ってるのよ! 七瀬さんと渉さんは、会社の金でこの女を囲ってるって。それが世間に知られたら、どうなるかしらね! 七瀬さんが私の婚約者になるなら、黙っていてあげてもいいのよ!」
美魚を指差しながら、彩芽は最後の切り札を出した。しかし誰も動じない。渉はやれやれとばかりに首を振った。
「その噂、嘘だよ」
「は……? だって、パパもそうだって言ってたわ!」
「定期的に流してるんだ。情報の取り扱いは、青柳会の専売特許だからね。それを聞いて、美魚ちゃんに近付いて甘言を囁く人達は黒、僕らに噂の内容を確かめる人達は白って、信頼に価するか見定めたんだよ」
「なっ?!」
「彩芽ちゃんのパパはね、彩芽ちゃんが美魚ちゃんに取り入ったあとで、自社に便宜を図ってもらおうとしていたみたい。TOYAMAカンパニーは叩いたら埃が大量に出てさぁ、今頃警察が家宅捜査に入ってる頃かな? さ、これで本当に諦めがついたでしょ」
渉の追い討ちに、彩芽は愕然とした。
噂は嘘、会社がなくなる、お金がなくなる、自分の計画は、全て、見破られている。
「美魚、おいで。帰ろう」
「ええ」
七瀬の優しい声に呼ばれた女の名前は、自分では、ない。
咄嗟にテーブルの上にあったミルフィーユ用のナイフを掴み、歩きかけた美魚の後ろに回って彼女の喉元に鋭利な刃を近付けた。
男性三人が駆け寄ろうとするも、彩芽が叫ぶ。
「来ないで!!」
「彩芽さん、こんなことしても無意味だわ」
「うるさいうるさい!! 何よ、年下の癖に偉そうに指図しないで! 私よりかわいくもないし、服だって安物だし、七瀬さんはどうしてこんなただの女を大事にしてるわけ?! 私の方がきれいだし、あなたをこんなに愛しているのに! こんな女、いなくなればいいのよ!!」
彩芽は半狂乱になっていた。美魚はふうっとため息をつく。
「私を殺したいの? 残念ながらこんなナイフじゃ死ねないわ」
「はあ!?」
激高する彩芽を気にすることなく、美魚はナイフを自分から喉元に突きつけた。白い絨毯に鮮やかな赤が散る。
思わずナイフから手を離し、ヘナヘナと床に座り込んだ彩芽は、更に信じられない光景を見ることになる。
こちらを悠然と見下ろす美魚は、コケティッシュな笑みを浮かべていた。まるで痛みなど何も感じていないかのよう。そして、テーブルの上にあったウエットティッシュで首もとを拭くと、美魚の喉元にあったはずの傷は、きれいに消えていた。
両手で体を抱き締めながら、彩芽は震える。
「何なのよ、あんた……化け物なの……」
「化け物、ね。幸せになるには人をやめることだって聞いたけど、そんなことはなかったわ」
美魚は悲しげに目を伏せた。
駆け寄ってきた七瀬は美魚にそっと触れ、他に怪我がないか確認した。そして彼女をエスコートして、振り向くことなくドアへ向かった。
「七瀬さん……七瀬さん……」
すすり泣く彩芽の声に、七瀬は一切反応しない。
駆け寄ってきた中田が彩芽の手を捻りあげる。
「痛いっ、やめて離して!!」
「私は『薬売り』失格です。先祖代々、美魚様と渉様を守るのが使命なのに。美魚様の尊い血を流させるなんて」
「うぐっ……! 中田、あんた、あたしの体に夢中になってたでしょう……?! あの女とも関係を持ってるわけ……」
目をギラギラさせながら恨み節を吐く彩芽に、中田は床に転がっていたナイフを拾い上げ、喉元に突きつけた。
「黙れ。美魚様を侮辱するな」
「ひっ!」
「あんた全然魅力的じゃないから、奮い立たせるのにどれだけ苦労したか。若いだけの体と親のコネと金で、男を支配していると勘違いしているけど、自分はそれしかない愚かな女だって言ってるようなもんだよ。清らかで女神のような美魚様と比べるのもおこがましいから、お嬢様」
中田の殺気にあてられた彩芽は、恐怖で反論する余裕もなく項垂れた。渉は場違いな明るい声を上げる。
「そうそう、お姉さんの鈴芽ちゃんだけど、彼女は特殊な能力の持ち主で、そのことで前から接触していたんだ。濡れ衣で家を追い出されて困っていたから、僕らの元で保護しているよ。あんなにひどいことされたのに、妹の命だけは助けてほしいって頼まれちゃってさ。その約束だけは守らないとね。中田さん、あとはよろしく」
「承知しました」
中田は胸ポケットから細長い箱を取り出し、中に入っていた薬品入りの注射器を取り出した。抵抗する力が残っていない彩芽は、虚ろな目で針の先が自分の腕に刺さるのをただ見ていた。
「自分の罪を素直に認めていれば、美魚様はお優しいから取りなしてくださって、ここまで大事にならなかったのに。美魚様に刃を向けたのは愚かでしたね。本来なら極刑ものですよ」
「あの子は、何なの……?」
「美魚様は『永遠の処女』。人魚の呪いで永遠に独りぼっちなのです。『後始末』の赤城家、『薬屋』の青柳家、そして我ら『薬売り』の一族が、命をかけて贖罪しなければならない、大切なお方です……おや、もう眠りましたか。さすが速効性がありますね」
中田は意識をなくした彩芽を軽々と肩に担ぎ、部屋の外へ出た。
◇ ◆ ◇
綾芽は微笑む。
自分の記憶も固執した男の名前も何もかも忘れて、白い部屋のベッドの上で眠り続けている。頬はこけ、点滴を差している腕は枯れ木のよう。
それでも、微笑みを浮かべる彼女は幸せそうにみえた。例えその瞳が永遠に開かれることはないとしても。
ここは青柳会系列のある隔離病棟の一室。
鉄格子がはまった窓の外は、そびえ立つコンクリートの塀と同じ色の曇り空だ。紅葉も盛りを過ぎ、冷たい北風に木々は葉を落とす。
刻々と静かに冬が忍び寄る。
中田さんは、前話「夏」で出てこなかった、保養所の料理担当の人です。
左田さんと右田さんと中田さんは、初代「薬屋」の護衛で部下だった三人の末裔。
次話は「冬」です。もう少し早く更新できればいいんだけど。