EP9
……あれ? 彼氏なんていないってことは彼氏がいないってこと?
木下さんからの言葉に僕は少しばかり困惑していた。
では喫茶店の休憩室でつい小耳にはさんでしまった木下さんには彼氏がいる説は僕の勘違いだったということなのだろうか。
存在しない彼氏を相手に嫉妬し、渇望していたのだろうか。
それにしても僕の心境はともかく木下さんに彼氏がいないというのは、失礼な言い方かもしれないけれど意外である。
「かなり前に彼氏がいるとかいないとかの話をバードで聞いちゃってさ、てっきり僕はいると思ってたんだけど」
「私いるなんてそんな話、したかなぁ……。うーん、みんな恋話とか好きだから冗談で言い合ってたのかも? 」
頬に人差し指を当てて過去を振り返ろうとする木下さんの行為が一々あざとくて可愛いから困るのだけれど、どうやら本当に彼氏はいないらしい。
そうなると何故、これほどまでのあざと可愛さを兼ね揃えている木下さんがフリーだというのにお近づきになろうとする男がいないのか。
世の中、わからないことばかりである。
「木下さんは男から人気がありそうなものだけれど」
「全然無いよー。私の家があんな感じだし私もちょっと抵抗があるというか、なんといいますか」
全部を語らなかったが、組んだ手の指先をクルクルと回しながら木下さんは言った。
どうやらコンプレックス的な部分があるようで、色々と含んだ言い方をしたけれどその原因は世間体なのだろう。
僕としては、世間体を気にせずに今も尚過ごしている僕としてはだよ。全くもってドンと来いなのだけれども、お年頃の女の子ともなれば身なりと共に住んでいる所にも気を使いたいのだろうか。
家庭環境の違いと言ってしまえばそれまでの話なのだけれど、多少なりとも僕は恵まれているのだと木下さんの家庭事情などの話を聞いて感じた。
「大学生なんて貧乏上等よろしくでいいんじゃないかな。別に豪勢な生活を送っている学生が偉いとは僕は思わない」
お金の使い方は人それぞれである。
要のように服やアクセサリーといったファッション類にお金を使う人もいれば、飲み食いに使う人もいるだろう。彼氏彼女が出来たのなら遊びに行くための交遊費だってかかってくるはずだ。
お金は使うのは簡単でも稼ぐのには時間がかかるものであり、だからこそ自ずと節約するというやつではないだろうか。
親に頼ることが出来ない木下さんはそれこそ慎ましい学生生活を送っているといえよう。
「それについては私も斉藤さんと同じ考えだけど、でもあまりそういうことは周りに言うものじゃないよ? 頑張って良い生活を送ろうとしている人だっているんだから」
「うん、確かに木下さんの言うことはもっともだ。ただ、僕が言いたかったのは仕送りが多いだけでバイトもせずに遊び三昧な学生を見ると無性に羨ましく妬ましく思うってことでね。バイトに明け暮れている僕を見習ってくれてもいいんじゃないかとたまには思うんだよ」
バイトもせずに生活費があって、さらには遊びにも回せるお金が毎月送られてくるとか何それって感じだよね。働かない人達も真っ青である。
「む、それを言ったら私なんてバイト代ほとんど残らないよ?」
「……すみませんでした」
そして上には上がいることを忘れていた。
「でも斉藤さんも遠藤さんと付き合うことになったらその……、夢の豪勢な生活を送ることができるんじゃないかな?」
ややあってから、どこか余所余所しい感じで木下さんは口を開いた。
内容を聞く限りでは遠藤さんと付き合えば夢がかなうのではないかということなのだが……。
かくいう遠藤さんとは実は友達以上、恋人未満という微妙な協定? を結ぶことになってしまったけれど、果たしてその先はあるのかと問われれば正直に言って難しいのではないだろうか。
それに男としてのプライド的な云々はさておいて、遠藤さんの脛を齧って生きていくという荒業は僕には到底出来そうにない。
「投資された分に見合うようなリターンを僕が返せる気が起きないのだけれど」
遠藤さんに弄られ倒されること間違いないからだ。
「あはは。遠藤さんって本当にお嬢様って感じだもんね。高嶺の花っていうのかな、男の子達のことは分からないけど私は近寄りにくいと思うことがあるもの」
高嶺の花、近寄りにくい。
確かに遠藤さんの場合はそれに当てはまるのだろう。
だけれど裏の顔を知ってからというものの、遠藤さんはどこかお高く留まっているだけでは無いような気もしているのも事実である。
遠藤さんが馬鹿にされているのとは違うけれど、少しばかり木下さんに同調するということがこの時の僕には出来なかった。
これも不思議なもので自分では散々なことを言って、思っていても他人に遠藤さんのことを言われるとなんだかしっくりこないのだ。
実はアホの子で、毒舌だけれどなんとなく放っておけないよう人なのだ。
「でもそっか、斉藤さんもまだ彼女がいないんだ。斉藤さんこそ遠藤さんがいなくても他にいるんじゃないかと里奈さんたちと噂になってたんだよ」
そんな原因不明のモヤモヤが僕を襲っていると木下さんが話題を変えるように元の路線へと戻し、それを聞いた僕はそういや以前、休憩室で里奈さんも言ってたなと思い出した。
「里奈さんとも随分と長い付き合いになるからね、みんなに冗談でも言って僕をからかおうとしたんじゃないかな。でもそれこそ物好きってやつさ。大学では僕の横には常に要がいるからね、女の子からしたら僕なんて蒸発して映っているんじゃないかな」
恋は盲目とはいうけれど、僕の存在までもが消されているかのような体験を何度かしたことがあるだけに恐ろしい言葉を作ったものだと思う。
そして里奈さんが年相応に見えないのも充分に盲目だと思う。
いや、あの人の場合精神年齢も……
「そんなことないよ。斉藤さんの背中を見ている人だってちゃんといるよ」
そして里奈さんに対して実は店長が法的にアウトなのではという路線に脳がトリップしかけたところで木下さんが僕を慰めるかのように言った。
「まぁうん、確かに。その点でいけば遠藤さんはあの大学の中でよく僕なんかのような日陰者を見つけたなと感心しているよ」
ただの一回。
そのただの一回がなかなかに濃い出会いになってしまい、遠藤さんと僕の不思議な関係は始まってしまったのだから。
事件が起こる前にボウリング場でぼーっと遠藤さんのことを見ていた時もそうだが、良くあの人ごみの中で僕を見つけて微笑んだものだと今でも関心するレベルである。
そして千里眼でも持っているんじゃないだろうかと、遠藤さんならそのくらい持っていても不思議じゃないなと僕が思い始めた所で木下さんが口を開いてこう言った。
「違うよ。そうじゃない」
第三者が聞けば、僕は木下さんにどこかを否定されてしまったように見えるが、そうではないらしく――
「そうじゃないよ、遠藤さんだけじゃ……、ないよ」
「木下さん?」
下を向いたまま木下さんは先程とは打って変わって消え入りそうな声で呟いた為、二言目が僕には聞こえなかったのだが、再び顔を上げて木下さんはか細い声を絞り出すようにして言った言葉ははっきりと僕の耳に届いた。
「私だって遠藤さんなんかよりもずっと前から斉藤さんのこと、ちゃんと見てたんだよ? 」
真っ赤に顔を染めながら。




