第14話 兵站屋、向朗 3/3
4.去るもの、残るもの
数刻後。
陽翟太守府の、最も奥まった一室。
普段は太守が密談や休息に用いるその部屋には、外の喧騒が嘘のように遮断され、鉛を溶かし込んだような重苦しい沈黙が流れていた。
部屋の四隅に置かれた香炉からは、心を鎮めるはずの白檀の香りが立ち上っているが、今のこの場の空気を和らげる役には立っていない。
むしろ、その甘ったるい香りが、死にゆく王朝の腐臭を誤魔化しているようで、鼻についた。
上座には二人の男が座している。
一人は、この陽翟の主である太守・李旻。
豪奢な絹の衣をまとってはいるが、その顔色は土気色で、小刻みに震える手で何度も杯を口に運んでは、中身が入っていないことに気づいて戻すという無様な動作を繰り返していた。
もう一人は、豫州牧・黄琬。彼は岩のように動かず、ただ鋭い眼光だけで、下座に控える人物を射抜いていた。
その視線の先に、司馬徽がいた。
水鏡先生と崇められるこの賢者は、二人の権力者を前にしても、泰然自若としていた。
粗末な麻の衣をまとい、両手を膝の上で正しているその姿は、周囲の豪奢な調度品よりも遥かに強い存在感を放っている。
「……民を連れて、襄陽へ逃げるだと?」
長い沈黙を破ったのは、黄琬の低く、腹の底に響くような声だった。
彼は卓を指先でトントンと叩き、司馬徽を睨みつけた。
「正気か、水鏡先生。貴公の聡明さは聞き及んでいるが、その提案は狂人の戯言にしか聞こえん。陽翟を空にするつもりか?十万の民を、行政機能を、そしてこの街の未来を、根こそぎ奪い去ろうというのか」
黄琬の言葉には、怒りというよりも、信じがたいものを見るような驚愕が含まれていた。
都市を離れる。しかも民の大半を連れて放棄するなど、前代未聞の暴挙である。
司馬徽は、静かに頭を下げ、それからゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、迷いの色は微塵もない。
「恐れながら、申し上げます。……陽翟は、既に死にました」
「なっ、貴様、不吉なことを!」
李旻が悲鳴のような声を上げたが、司馬徽は無視して言葉を継いだ。
「北の洛陽を焼いた魔王・董卓の軍勢が、目前まで迫っております。彼らは人ではありません。欲望と破壊の化身です。ここに留まれば、富める者は略奪され、貧しき者は肉壁とされ、女子供は慰み者となりましょう。……城壁がいかに高くとも、人の心が折れていては守れません。今の陽翟に、籠城に耐えうる士気がありましょうか」
司馬徽の言葉は、冷徹な事実として室内に響いた。
外から微かに漏れ聞こえるのは、難民たちの呻き声と、略奪を恐れる市民の悲鳴だ。
「民がいてこその国、人がいてこその街でございます。彼らが死に絶えれば、陽翟はただの瓦礫の山となります。……彼らを救い、漢の種子を残す道は、南へ活路を開く以外にありませぬ」
司馬徽の理路整然とした、しかし絶望的な情勢分析に、太守・李旻はおろおろと視線を泳がせた。
彼の脳裏には、董卓軍による虐殺の噂が駆け巡っていた。
釜茹でにされた役人、串刺しにされた兵士。想像するだけで失禁しそうな恐怖が彼を襲う。だが同時に、彼は骨の髄まで小役人だった。
「し、しかし……そんな勝手なことをしては……」
李旻は震える声で、冷や汗を拭った。
「民を捨てて逃げたとなれば、朝廷への背信行為になる!もし董卓様が……いや、朝廷が秩序を取り戻した時、ワシの立場はどうなる!職務放棄で処断されるのではないか!?ワシは、ワシはただ、平穏無事に任期を終えたいだけなのじゃ!」
この期に及んで、自分の保身と経歴の傷を心配する李旻。そのあまりの小ささに、室内の空気がさらに澱んだ。
「黙っていろ、李旻」
黄琬の一喝が、雷鳴のように轟いた。
李旻は「ひぃっ」と短く叫び、蛙のように縮こまって口を閉ざした。
黄琬の怒気には、絶対的な威圧感があった。
黄琬は、李旻を一瞥もしなかった。
彼にとって、このような無能な官吏は眼中にない。
彼の興味は、目の前に座る一介の学者、司馬徽という底知れぬ男に向けられていた。
黄琬は、じっと司馬徽を見つめた。
先ほどまでの鋭い威圧感とは違う、探るような、値踏みするような視線だ。
黄琬の脳裏に、ここ数日の陽翟で起きた、不可解な出来事の数々が走馬灯のように駆け巡っていた。
――督郵・賈仁の暗殺。あれは単なる強盗や怨恨ではなかった。あまりにも手際が良すぎた。
――その後の「英雄捏造」。汚職官吏であった賈仁を、一夜にして「民を守った英雄」に仕立て上げ、暴動寸前だった民衆の怒りを「感動」と「団結」に変えた手腕。あれは魔法か、妖術の類かと思えるほど鮮やかだった。
――そして今回の、あまりに緻密で、あまりに迅速な撤退計画。司馬徽が持参した竹簡には、行軍ルート、物資の配分、劉表との連携までもが記されていた。
(……おかしい)
黄琬は内心で独りごちた。
水鏡先生・司馬徽は、確かに天下の奇才であり、人物鑑定の大家だ。
だが、彼はあくまで「学者」であり「教育者」だ。
徳を説き、道を教えることには長けているが、これほどまでに泥臭く、実務的で、そしてある種の「狡猾さ」を含んだ謀略を巡らせる男ではない。
この絵図には、血の匂いがしない。代わりに、墨と算盤の匂いがする。
(これらは全て、一人の人間の絵図ではないか?)
黄琬の直感が告げていた。
司馬徽という巨大な看板の裏に、糸を引いている者がいる。
民の心理を操り、太守を踊らせ、そして今、私という豫州牧さえも盤上の駒として動かそうとしている、恐るべき「脚本家」が。
(水鏡の門下生の中に、怪物がいるな……)
黄琬の脳裏に、文書庫の隅で目立たぬように控えていた、死んだ魚のような目をした書生の姿が一瞬よぎった。
名は確か、向朗といったか。
黄琬は目を細めた。
今ここで司馬徽を問い詰め、その黒幕を引きずり出し、断罪することもできる。国家を欺く詐欺師として処刑することも容易い。
だが。
「……ふん。食えぬ男たちよ」
黄琬は嘆息し、それ以上追求することを止めた。
彼は、自らの運命を悟っていた。
董卓からの召喚状が届いている。
拒否すれば逆賊として討たれ、豫州が戦火に包まれる。
行けば、おそらく生きては帰れまい。
魔王の檻へ自ら入るようなものだ。
自分はもうすぐ、死地である洛陽へ行かねばならない。
滅びゆく者が、未来を生きようとする者たちの足を引っ張って何になる?この街の真実を暴いたところで、何の意味もないのだ。むしろ、その「脚本家」の才が、十万の民を救うというのなら、乗ってやるのも一興か。
「兵五千をくれてやる」
黄琬が、唐突に言った。
その声は、事務的でありながら、隠しきれない熱を含んでいた。
司馬徽が、初めて驚きの表情を見せた。
目を見開き、信じられないという顔で黄琬を見上げる。
「えっ?……よ、よろしいのですか?黄琬様ご自身をお守りする兵を……」
「董卓の元へ行く私に、大軍は不要だ。連れて行けば、董卓に吸収されるだけだろう」
黄琬は自嘲気味に笑い、すぐに真顔に戻った。
「五千だ。それ以上は出せぬ。私の手勢の限界だ。精鋭ではないが、装備は整っている。……それに、急がねばならんぞ」
黄琬は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。鉄格子のはまった窓から、北の空を睨む。そこには、洛陽を焼く炎の照り返しが、不吉な赤色として雲を染めていた。
「私の後任として、孔伷という男が豫州刺史として赴任してくるという情報が入った」
その名を聞いた李旻が「なんと、あの名高い孔伷様が!」と声を上げたが、黄琬は吐き捨てるように言った。
「……あれは最悪だ」
黄琬の顔には、同僚に対する評価とは思えぬほどの嫌悪感が浮かんでいた。
「孔伷は、口先だけで『清談』を弄することしか知らぬ。実務能力は皆無、軍事のイロハも知らぬ。そのくせ、自尊心だけは肥大化した枯れ木のような男だ。自分の理想に酔い、現実を見ようとしない」
黄琬は振り返り、司馬徽を指差した。
「奴が来れば、民の移動など絶対に許さぬだろう。『民は土地と共に死ぬのが忠義』などと、カビの生えた正論を振りかざし、全員を肉壁として使い潰すに違いない。あるいは、自分の名声を高めるために、無謀な突撃を命じるか……。どちらにせよ、地獄だ」
黄琬は懐から、重々しい金属音を立てて一つの木札を取り出した。
虎の形が彫り込まれた、兵を動かすための「割り符(兵符)」である。
「孔伷が来るまでの数日が勝負だ。奴が着任し、印綬を受け取れば、この兵符はただの木切れになる」
黄琬は、その割り符を放り投げた。放物線を描いたそれは、司馬徽の手の中にパシリと収まった。ずしりとした重み。それは五千人の兵士の命の重さであり、十万人の民の未来の重さだった。
「……行け、司馬徽」
黄琬の声は、先ほどまでの威圧的なものではなく、友に語りかけるような静けさを帯びていた。
「私は北へ行き、魔王と刺し違える覚悟だ。……だが、貴公らは生きろ。その知恵と、五千の兵を『盾』にして、この地獄から這い出すがよい」
司馬徽は、椅子から立ち上がり、深く、深く腰を折って拝礼した。それは、権力者に対する儀礼ではない。自らの命運を悟りながらも、民のために最後の力を託してくれた、一人の漢に対する心からの敬意だった。
「……黄琬様のご恩、この水鏡、末代まで決して忘れませぬ。……どうか、ご武運を」
「ふん。湿っぽいのは好かん。さっさと行け」
黄琬は背を向け、手を振った。その背中は、崩れゆく漢王朝の最後の輝きのように、孤独で、そして強大だった。




