第14話 兵站屋、向朗 2/3
2.最後の一手
向朗は、呆然とする司馬徽に向き直り、深々と頭を下げた。
「最後に先生。僕の計算式を成立させるためには、最後の、そして最大の変数が必要です。……それは『先生の言葉』です」
向朗は指を折りながら、途方もない物資のリストを読み上げた。
「一万五千石の食料の調達。荷車が二千台。天幕、鍋、防寒具。そして、道中の排泄物を処理し、疫病を防ぐための大量の石灰。……これらを僕ら数人で集めようとすれば、十年かかっても終わりません。物理的に不可能です」
司馬徽は青ざめた。
「やはり、無理なのではないか……?」
「いいえ。一人でやれば不可能です。……でも、十万人が動けば可能です」
向朗の目は、狂気じみた確信に満ちていた。
「十万人の難民は、ただの『守られるべき弱者』ではありません。彼らは『十万人の労働力』です。大工もいれば、料理人もいる。農夫も、車大工もいるはずです。壊れた荷車を直すのに、僕なら三日かかりますが、本職が百人いれば一刻で終わる。草鞋も、一人一足編めば、一瞬で十万足が揃う」
向朗は、司馬徽の手を取り、強く握りしめた。
「彼らは今、恐怖で動けなくなっています。死を待つだけの肉の塊になりかけている。……彼らに『役割』を与えてください。『生きるための作業』を命じてください。彼らを自発的に動かせるのは、太守の命令でも、僕の計算でもない。天下の『水鏡先生』の言葉だけなんです」
司馬徽は、向朗の手の震えを感じ取った。
この冷徹に見える書生もまた、必死なのだ。老儒学者は、覚悟を決めたように頷いた。
「……わかった。私が、羊飼いになろう」
3.水鏡先生の大演説
陽翟の城門前。
死を待つような沈黙と、絶望的な呻き声が支配していた広場に、凛とした声が響き渡った。
「民よ、聞くがよい!天は、自ら助くる者を助く!」
即席の演台の上に立った司馬徽が、枯れ木のような腕を天に突き上げていた。
その背後には、あたかも後光が差しているかのように、李譔たちが鏡を使って陽光を演出している(もちろん向朗の指示だ)。
「嘆いていても、洛陽の火は消えぬ!泣いていても、腹は満たされぬ!生き延びたくば、手足を使え!我々は南へ行く。楽土・荊州へ向かう!」
「荊州」という言葉に、人々の目に光が戻った。
「だが、道は遠い。助けを待つな、助けは来ない!自分の足で歩くための準備をするのだ!」
司馬徽の合図と共に、徐福や石韜たちが群衆の中に飛び込み、矢継ぎ早に具体的な指示を飛ばし始めた。
「大工仕事ができる者は手を挙げろ!壊れた荷車を片っ端から修理するんだ!」
「女衆は余った布で天幕を縫え!鍋を持っている者は供出しろ!」
「石灰だ!街中の石灰をかき集めろ!クソを垂れ流せば疫病で全滅するぞ!白い粉が命を守るんだ!」
向朗の計算に基づいた的確な指示が、司馬徽の威光を通して、十万の脳髄に直接叩き込まれていく。
すると、どうだろう。
先ほどまで「助けてくれ」と泣き叫ぶだけだった群衆が、巨大な生き物のようにうねり始めた。
ある者は瓦礫から木材を拾い出し、ある者は井戸から水を汲み上げ、ある者は手持ちの穀物を供出した。
カン、カン、カン!木を叩く音が響き始める。
それは、都市が死にゆく音ではない。再生への鼓動だった。
絶望的な混沌が、向朗の計算によって、生産的な秩序へと組み替えられていく。
その光景を司馬徽の後ろから見ていた向朗は、深く安堵の息を吐いた。
「……なんとか計算はできた。人が動けば、物資は生まれる。これで『行軍』の形になった」
だが、彼の仕事はこれで終わりではない。
この巨大な人の波を、一糸乱れぬ隊列に整え、七百里の彼方へ運ばなければならないのだ。
向朗は、再び地図と帳簿に向き直った。
その背中は、以前よりも少しだけ大きく見えた。




