第14話 兵站屋、向朗 1/3
1.兵站屋、向朗
行動をともにする、水鏡塾の門下生数十人を前に、向朗が計画を語る。
向朗が徹夜の計算の末に弾き出した答えは、言葉にすれば単純な「荊州・襄陽への避難」だった。
だが、その中身を分解すれば、気が遠くなるような絶望的な数字の羅列だった。
「移動距離、およそ千里(約三百キロメートル)。必要な日数は、老人と子供の歩幅に合わせて計算すると最低でも二十日。天候が悪化すれば一ヶ月はかかります」
向朗は、水鏡塾の庭に広げた地図の上に、小石を並べていた。
その手つきは、まるで囲碁の石を打つように慎重で、かつ迷いがない。
その周りには、徐福、石韜、孟建、李譔、そして司馬徽らが、息を呑んで集まっている。
彼らの視線は、地図上の赤い線――向朗が墨で引いた、陽翟から南へ伸びる脱出ルートに釘付けになっていた。
「必要な食料は、一日一人五合として、十万人で一日五百石。二十日で一万石。さらに予備を含めれば二万石は必要です。……今の陽翟の城の備蓄を全てさらっても、到底足りません」
向朗は淡々と、しかし容赦なく数字を積み上げる。
「さらに、荷車が二千台。天幕、鍋、防寒具。道中の排泄物を処理するための石灰。これらを用意するだけでも、通常の行政能力なら半年はかかる事業です。それを我々は、あと数日で整えなければならない」
向朗は一度言葉を切り、皆の顔を見渡した。
「そして何より、我々を守る『武力』と、通過する土地の豪族を黙らせる『交渉材料』が必要です」
石韜が頭を抱えた。
「無理だ。国家事業レベルの話だぞ。一介の書生と流民の群れにできることじゃない。そもそも、道はどうする?真っ当に南西へ下れば、南陽郡の宛県を経由する主要街道だが……」
「そこは通れません」
向朗は即座に否定し、宛県の位置に黒く塗りつぶした石を置いた。
「宛県には、洛陽から逃れてきた難民が既に溢れかえっていると推測できます。食料価格は高騰し、治安は最悪でしょう。それに、最悪なことに『袁術』が反董卓を掲げて挙兵したという情報が入っています」
向朗の声が低くなる。
「袁術は名門ですが、その実は略奪者と大差ない。そのような軍隊の中に、十万の民を突っ込ませるわけにはいきません。全て奪われて終わりです」
「では、どうするのだ?道がないぞ。南の江夏に向かうのか?」
「道なら、あります。……作ればいいんです」
向朗は、墨で汚れた指先を地図上で滑らせ、南へと大きく迂回させた。
それは誰も予想しなかったルートだった。
「まず陽翟から南へ進み、舞陽邑を目指します。そこからさらに西に移動し、昨年、郡として昇格したばかりの『章陵郡』に向かいます」
「章陵郡?」石韜が怪訝な顔をした。
「あそこは辺境だぞ。そんなところへ行ってどうする?あそこには何もない」
「ええ、辺境です。何もない場所です。ですが、ここには今、ある人物が留まっているという情報があります」
向朗は、章陵郡の位置に、白く輝く石を置いた。
「漢室の血縁にして、かつて党錮の禁で名を馳せた『八俊』の一人。新たに荊州刺史に任じられた、劉表殿です」
その名が出た瞬間、司馬徽が「おお」と声を上げた。
「景升(けいしょう・劉表の字)殿か!確かに彼は荊州刺史に任じられたはずだが、なぜ任地の襄陽に入らず、そんなところに?」
「入れないんですよ」
向朗は皮肉な笑みを浮かべた。
「荊州の豪族や賊たちが道を塞いでいるからです。劉表殿は『刺史』という肩書きだけで、兵も地盤も持たずに単身で赴任してきた。言わば『看板だけの刺史』です。だから、任地を目の前にして立ち往生している。……これが、我々の勝機です」
「勝機?」孟建が首を傾げる。
「相手は皇族の端くれ、こっちは難民だぞ。助けてもらえるどころか、足手まといだと追い返されるのが関の山じゃないか」
「逆です、公威(こうい・孟建の字)。我々は劉表と『連携』するんです」
向朗は、極度の寝不足の頭を叩き起こすように、頭をかきむしる。
そこに英雄的な野心や策士の気負いはない。あるのは、これから始まる面倒な事務手続きを思い描き、それでも生き残るための解を弾き出そうとする、泥臭い思いだけだった。
「劉表殿は、権威はあるが、手足となって動く『人材』と『兵力』がない。我々は、数はあるが、身を守る『権威』がない。……ならば、売り込むんです。この十万人の集団は、ただの薄汚れた難民ではないと」
向朗は、集まった学友たちの顔を見渡した。
彼らは皆、潁川で学び、天下を論じる才気溢れる若者たちだ。
「我々は、潁川の知識、学術集団、名士集団の『水鏡党』であると宣伝するのです。難民ではない。劉表殿が荊州を統治するために最も必要としている『統治機能を持った行政集団』であることを売り込みます」
そして向朗は集まる数十人にお願いする。
「そのため、ただの移動集団では破綻します。移動する全員の名前、職や技能、家族構成や病気に至るまで、全員の名簿が必要です。それを作らなければ、我々は黄巾とおなじになってしまいます。皆々にはその名簿作りをお願いしたい」
「……なるほど!」李譔が感嘆の声を漏らした。
「司馬徽先生は、潁川随一の、いえ、今の戦乱の世に随一の知性であると触れ回るわけか。名声を好む劉表殿なら、必ず食いつく。『天下の名士・水鏡先生とその門下生が、私を慕って来た』となれば、彼の権威付けにもなる」
「その通り。劉表殿にとって、先生を迎え入れることは、荊州の民心掌握に繋がる。互いに損のない取引です」
向朗は、懐から数本の竹簡を取り出し、矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。
その姿は軍師というより、繁忙期の帳場を仕切る番頭のようだった。
「石韜、君には先行してほしい。足の速い馬を複数乗り換え、急いで向かってくれ。単騎で章陵へ走り、劉表殿に合力を申し伝えてくれ。『水鏡先生が十万の民と知識人を引き連れて合流する』と。彼が喉から手が出るほど欲しい人材リストを餌にするんだ」
「わかった。舌先三寸で、天下の八俊をその気にさせてみせよう。俺の得意分野だ」
石韜はニヤリと笑った。交渉事となれば、彼の右に出る者はいない。
「孟建、君は舞陽邑での補給を整えてくれ。ここに衛臻から貰った金貨がある。これを使って先回りし、食料を買い占めてくれ。値段はいくら釣り上げられても構わない。とにかく量を確保するんだ」
「任せろ。商談なら任せておけ。ボッタクリ商人どもを逆に泣かせてやる」
「李譔、君の仕事は重要だ。この集団の中で『司馬徽先生の逸話』を広めるんだ。先生がいかに偉大で、天に守られた人物か。民衆に『先生についていけば助かる』と信じ込ませるんだ。不安な民衆には、信仰という名の規律が必要だ」
向朗は声を落とし、続けた。
「それと、太守府の武器庫から、使える武器を全て持ち出してくれ。錆びた槍でも構わない。襲撃に備えなければならない」
「任せなさい。……だけど、向朗」
李譔が、根本的な疑問を口にした。場の空気が張り詰める。
「計画は分かったよ。だけど、十万人だぞ?それを誰が率いる?ボク達は書生だ。誰も軍事の経験はない。……向朗、君が指揮を執るのかい?」
全員の視線が向朗に集まった。
だが、向朗は即座に首を横に振った。心底嫌そうに、肩をすくめる。
「無理だよ。僕にはできない。僕は道中一ヶ月、荷車の配置と食料の配分、移動速度の調整を計算するだけで精一杯だ。それに、僕は人を殺すなんてとても出来ない。決断が鈍る」
向朗は、一人の男の方を向いた。腕を組み、黙って地図を睨み続けていた、精悍な顔つきの男。
「実際に率いるのは徐福。君だ」
徐福は、ゆっくりと顔を上げた。かつて任侠として剣を振るい、友の仇討ちのために人を殺めた過去を持つ男。その瞳には、暗い過去と、鋭い知性が同居している。
「……俺にか?俺はゴロツキだぞ。天下の潁川名士たちを差し置いて、俺が指揮官だと?」
「だからだよ。この中で唯一、君だけが『暴力』の使い方を知っている」
向朗は真剣な眼差しで徐福を見つめた。
「綺麗な計算式だけじゃ、人は守れない。略奪者や裏切り者が出た時、躊躇なく斬れる人間が必要なんだ。この行軍は、綺麗事じゃ済まない。……君は変装して、司馬徽先生の横に控える知恵者を演じる。」
「君は謎の軍師の『徐庶』となるんだ。頼めるか?」
徐福は、腰に佩いた剣の柄に手を置いた。その感触を確かめるように、指が白くなるほど強く握りしめる。
やがて、彼はふっと息を吐き、ニヤリと笑った。それは書生の顔ではなく、かつての任侠の顔だった。
「……ああ。泥仕事は俺が引き受けよう。お前は計算に集中しろ。背中は俺が守ってやる。誰一人、お前の邪魔はさせん」
「ありがとう。……よし、役割は決まった」
向朗は立ち上がり、空を見上げた。西の空はまだ赤く、不吉な風が吹いている。だが、彼の目には確かな道筋が見えていた。
「一人でやれば不可能です。……でも、十万人が動けば可能です。数字は嘘をつきません。準備さえ整えば、生存確率はゼロから一気に跳ね上がる」
一介の書生たちが、国家規模の「大移動」に挑む。
歴史の歯車が、向朗の計算によって、ギシリと音を立てて回り始めた。




