第13話 散りゆく星々、閉ざされた南路 2/3
3.慈悲という名の無力、水鏡の苦悩
水鏡塾の門前は、地獄絵図と化していた。学問の府としての静謐さは消え失せ、そこには飢餓と絶望だけが満ちていた。
「先生!水鏡先生!どうかお助けください!」
「お救いください!家族が飢えているのです!どうかお慈悲を!一口の水でいいのです!」
「子供が、子供が息をしていないんです!先生!」
逃げ遅れた民衆が、最後の希望として、徳の高い司馬徽――水鏡先生の元へ押し寄せていたのだ。
彼らは知っていた。
役人は逃げた。
太守は狂った。
名士たちは去った。
だが、この先生だけは、自分たちを見捨てないことを。
その仁徳だけが、この地獄に残された唯一の蜘蛛の糸であることを。
だが、さすがの水鏡先生も、この圧倒的な数には顔面蒼白だった。
門前を埋め尽くすのは数千、いや数万の飢えた人々だ。塾の備蓄など、この人数に配れば半日も持たない。
「お、落ち着きなさい……。天は無辜の民を見放しはせぬ……。誰か、あるだけの粥を炊き出しなさい……」
司馬徽は、震える手で泣き叫ぶ子供の頭を撫で、なだめようとする。その手は温かいが、無力だった。彼の目には深い苦悩と絶望が浮かんでいた。
(どうすればよいのだ……。食糧はない。兵もない。南への道は袁術軍と賊で塞がれている。ここで籠城すれば全員餓死し、外へ出れば略奪され、殺される)
論理的に考えれば「解散」しかない。
「各自、散り散りに逃げろ。運の良い者だけが生き残れ」と言うのが、最も生存率の高い指示だ。
集団でいれば目立つし、食糧も尽きる。個々に分散して草の根を食んで生き延びるほうが、全滅は避けられる。
だが、仁義を説き、徳を重んじてきた彼に、目の前の老人や子供を見捨てて「散れ」とは、どうしても言えなかった。
それは彼自身の魂を殺すことと同義であり、彼が信じてきた「人の道」を否定することになるからだ。
「……すまぬ。私には……私には言葉しか持てぬ……。お前たちを腹一杯に食わせる麦も、敵を追い払う剣も、私は持っていないのだ……」
司馬徽が膝をつく。
その姿は、あまりに無力な「聖人」の限界だった。
理想だけでは、腹は膨れない。
涙だけでは、命は守れない。
その残酷な現実が、司馬徽の心を押しつぶそうとしていた。
4.限りなくゼロの生存率、不承不承の決断
その光景を、門の陰から見ていた男たちがいた。
徐福、石韜、孟建、李譔。そして、向朗である。
彼らは水鏡塾の門下生であり、師の苦悩を誰よりも理解していた。
「……先生は優しすぎる」
徐福が、血が出るほど拳を握りしめていた。
その顔には、悔しさと怒りが滲んでいる。
「だが、優しさだけじゃ、この人数は救えねえ。綺麗事じゃねえんだよ!飯がなきゃ人は死ぬ。安全な場所がなきゃ殺される。それだけだ!」
徐福が、血走った目で向朗を睨みつけた。
それは縋るような、それでいて脅すような、切迫した視線だった。
彼らは知っていた。
この中で唯一、感情に流されず、冷徹に状況を俯瞰できる男が誰かを。
「おい、向朗。お前の頭の中にある算盤じゃ、どう出てる?……やっぱり、見捨てるしかねえのか?俺たちだけで逃げるのが正解なのか?」
全員の視線が、向朗に集まる。
向朗は、死んだ魚のような目で、ボロボロの城壁にもたれかかっていた。
彼の脳内では、既に冷徹な計算式が弾き出されていた。
感情を排した、数字だけの世界だ。
「……計算上はね」
向朗は淡々と答えた。
感情を一切排した、乾いた声だった。
「食糧不足は致命的。疫病のリスクも高すぎる。南の袁術軍は通行を許可しないだろうし、街道には賊が待ち構えている。一〇万人が集団移動して生き残る確率は、限りなくゼロに近い。常識的に考えれば『解なし』だ。ここで解散し、各自が運を天に任せて逃げるのが、数学的に最も多くの人間が生き残る方法だ」
徐福が顔を歪めた。期待していた答えではなかったからだ。だが、向朗は言葉を切らなかった。
「……でも、ゼロじゃない」
向朗は、深く眉間に皺を寄せ、静かに目を閉じた。
長い沈黙が流れる。
風の音と、民衆の呻き声、そして遠くから響く略奪者の笑い声だけが聞こえる。
やがて、彼はゆっくりと目を開けた。
その瞳には、いつもの無気力さはなく、鋭い知性の光が宿っていた。
「変数が多すぎるんだ。一〇万人の足の速さ、一日あたりの排泄物の処理量、袁術の虚栄心と心理、天候、そして……我々が得意とする『嘘』の活用法。これらを全て制御できれば、あるいは……」
向朗は、抱えていた竹簡の束を、ギュッと抱きしめた。
「めんどくさい。本当にめんどくさい。やりたくない。なんで僕がこんな貧乏くじを引かなきゃならないんだ。僕はただ、静かに本を読んでいたいだけなのに」
彼は本心から嫌そうに呟き、それから深く息を吐いた。
「一日待ってくれ。……明日の朝までに、その『ゼロに近い確率』を、こじ開けられるか計算してみる。僕の給料分くらいは、働いてみせるよ」




