第12話 魔王の足音、洛陽炎上 1/2
1.虚構の英雄、一書記官の苦労
「……はぁ。肩が凝るなぁ。生きている人間より、死んだ人間の方が金も手間もかかるとは、孔子様でも説いてはおられませんよ、まったく」
陽翟太守府の敷地内、北東の隅。
そこは華やかな表舞台とは無縁の、湿気と黴の臭いが支配する薄暗い文書庫である。
陽光すら遠慮して差し込まないその部屋で、向朗は、自分の背丈ほどにも積み上がった竹簡と木簡の山に埋もれていた。
その姿は、まるで墓場に埋葬された死者のようでもあり、あるいは書物の森に迷い込んだ遭難者のようでもある。
彼は筆を置き、凝り固まった首を回すと、ゴキリと鈍い音が静寂に響いた。
やる気のないあくびを噛み殺し、死んだ魚のような目で手元の書類を見下ろす。
「えーと、なになに……『故・督郵賈仁大人顕彰碑・石材等級引き上げに関する見積書』?花崗岩から大理石へ変更したい?……却下だ、却下。予算がない。そもそも賈仁に大理石など、豚に真珠だ」
向朗は慣れた手つきで「却下」の決裁印を押し、次の竹簡を開く。
「次は……『賈仁様・崇敬会規約案』および『感謝状定型文案』……。『賈仁様は陽翟の星です。その輝きは永遠に……』。うわぁ、自分で書いておいてなんだけど、背筋が寒くなるな」
向朗が適当にでっち上げた「英雄伝説」――汚職官吏であった賈仁が、実は民を守るために賊と戦って散ったという大嘘は、向朗の予想を遥かに超えて陽翟の民に浸透してしまっていた。
いや、浸透どころではない。
民衆は熱狂していた。
日々の苦しい生活、帝崩御による不安。
人々は心の隙間を埋める「崇拝できる対象」に飢えていたのだ。
そこへ、向朗が脚本を書き、太守・李旻が主演を演じた三文芝居が、完璧なタイミングで提供されてしまったのである。
おかげで、一介の臨時雇い書記に過ぎない向朗の現在の主業務は、一日中、架空の英雄の偉業を捏造し、それを讃える作文を書き続けることになっていた。
街の至る所に賈仁を祀る祠が建てられ、その管理運営に関する書類が、雪崩のようにこの文書庫へ押し寄せている。
「あーあ。こんなことなら、もっと地味な設定にしておくんだった。『賊と戦って死んだ』じゃなくて、『食中毒で死んだ』くらいにしておけば、こんな銅像だの石碑だのの話にはならなかったのに……」
向朗は机に突っ伏した。
冷たい机の感触が、少しだけ熱を持った頭を冷やしてくれる。
彼の望みは単純だ。天下国家を論じるつもりもないし、歴史に名を残すつもりもない。
ただ、静かな場所で、古今の書物を読み耽り、昼寝をして暮らしたい。
それだけなのだ。
なのに、なぜ自分は今、死んだ悪徳官吏を神格化する文章の校正をしているのだろうか。窓の外からは、今日も民衆が「賈仁様万歳!」と叫ぶ声が微かに聞こえてくる。
「……帰りたい。平和で、暖かくて、こんな面倒な嘘をつかなくてもいい故郷、荊州・襄陽に帰って、一日中ゴロゴロして本を読んでいたい……」
バンッ!!
向朗のささやかな逃避願望を打ち砕くように、文書庫の扉が悲鳴を上げて開かれた。
埃が舞い上がる中、飛び込んできたのは、向朗の直属の上司である主簿・陳梁だ。
小太りの体躯を揺らし、目は血走り、額には玉のような脂汗が浮いている。
「おい向朗!いるのは分かっているぞ!何をダラダラしている!」
陳梁の怒鳴り声が、狭い室内に反響する。
向朗は緩慢な動作で顔を上げ、心底嫌そうな表情を作った。
「……なんですか、主簿殿。ノックくらいしてくださいよ。今、ものすごく繊細な仕事をしてるんですから」
「繊細な仕事だと?どうせ居眠りでもしていたのだろう!」
「失礼な。石屋の親方と、銅像の『目の大きさ』について揉めてる件の対応策を練ってたんです。親方は『賈仁様はもっと眼光鋭かった』って言うんですけど、実際の賈仁はもっとこう、金貨を見るときだけ目が光るような……」
「ええい、銅像の目などどうでもいい!今すぐに筆と墨を持って貴賓室へ来い!」
陳梁は向朗の襟首を掴まんばかりの勢いで詰め寄った。その口から飛ぶ唾を、向朗は顔をしかめて避ける。
「馬鹿者!洛陽から勅使が参られたのだ!勅使だぞ、勅使!天子様の言葉を預かる使いの方だ!記録係が必要なんだよ!」
向朗の目が、わずかに細められた。
陳梁の顔には、二つの感情が混在していた。
一つは、中央の高官に近づけるという下卑た「出世欲」。
そしてもう一つは、何か粗相があれば一族郎党処刑されるかもしれないという「原初的な恐怖」だ。
「朝廷からの褒賞だぞ!先の『葛陂賊撃退』が評価されたのだ!いいか、絶対に粗相をするなよ。もし字を間違えたり、墨を垂らしたりしてみろ、首が飛ぶぞ!……比喩ではなく、文字通り胴と離れることになる!」
「はぁ……。首と胴が離れるのは御免ですねぇ」
向朗は、わざとらしく眉を八の字に曲げ、嫌々ながら立ち上がった。だが、その内心では、冷徹な計算機が高速で回転を始めていた。
――洛陽からの使者?向朗は、墨の染みた指先をこすり合わせながら、ぼんやりと、しかし鋭く思考を巡らせる。
(……おかしいなぁ。計算が合わない。先月から、洛陽への納税証明書が一枚も返ってきてない。陽翟から送った物資の受領確認も途絶えている。つまり、中央の行政機能は麻痺しているはずだ。郵便事故?いや、そんなレベルじゃない)
中央との連絡途絶。
そこへ唐突にやってきた「褒賞」という名の甘い蜜。
向朗の「嫌な予感」を告げる警鐘が、脳内でけたたましく鳴り響いていた。
(ただの褒賞なわけがない。……もっと面倒な、あるいは致命的な何かが裏にある)
2.魔王の招聘、去りゆく重鎮
太守府の貴賓室は、針のむしろのような、ピリピリとした嫌な空気に満ちていた。
普段は高価な調度品で飾られ、李旻の自慢話が響くこの部屋も、今日ばかりは処刑場のような静けさに包まれている。
上座には、洛陽から来た宦官が一人、ふんぞり返って座っていた。
白粉を厚く塗った顔、唇に差した紅、そして全身から漂う鼻をつくような香油の匂い。
その派手な装いとは裏腹に、爬虫類を思わせる冷たい瞳が、下座の人間たちを品定めするように見下ろしている。
その視線の先で、陽翟太守・李旻は、額を床にめり込ませる勢いで平伏していた。
その背中は小刻みに震え、まるで屠殺場に引かれる豚のようだ。
その横には、豫州牧・黄琬が座している。
彼は平伏こそしていないものの、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙を守っていた。
豫州の行政・軍事のトップである彼が、明らかに不機嫌さを隠そうともしていない。
部屋の隅、記録係の席に座った向朗は、気配を消して筆を走らせた。
「――よって、陽翟太守・李旻の統治は見事である。民を安んじ、賊を討ち、その威光は洛陽にも届いている。功により、位階を進めるものとする」
宦官特有の、甲高く粘り気のある声が響く。その言葉を聞いた瞬間、李旻は弾かれたように顔を上げた。その目からは、安堵と歓喜の涙が溢れ出している。
「は、ははぁーっ!ありがたき幸せぇ!身に余る光栄でございます!これも全て、亡き賈仁の……そして何より、私の人徳と指導力の致すところでありますぅ!」
李旻は本気で信じているらしい。あの向朗が書いた「嘘の脚本」と、自身が行った「大根役者の演説」が、本当に中央に評価されたのだと。
自分は名君として認められたのだと。向朗は、手元の竹簡にその滑稽な言葉を記録しながら、小さく溜息をついた。
(……太守様、純真すぎる。あの勅使の目を見てくださいよ。完全に「田舎者の猿が踊っている」としか思ってない目ですよ、あれは)
宦官は、李旻の感謝の言葉など最初から聞いていなかった。彼の興味は、その横に座る本命――黄琬にしか向いていない。宦官は扇子で口元を隠し、作り笑いを浮かべて言った。
「李旻殿の忠義、天子様もお喜びであろう。……さて、本題はここからだ」
空気が変わった。粘着質な視線が、黄琬を射抜く。
「豫州牧・黄琬殿には、洛陽にて『司徒』の職に就いていただきたい」
司徒。三公の一つ。
官吏として登り詰められる最高峰の地位である。
本来なら、飛び上がるほどの栄転だ。だが、宦官は続けた。
「……太師・董卓閣下からの、熱烈なご要望である」
その名前が出た瞬間、室内の温度が三度は下がった気がした。
向朗の筆先が一瞬、震えた。
董卓。
西涼の辺境から軍を率いて上洛し、執金吾の丁原を殺し、兵を吸収し、少帝を廃して陳留王(献帝)を擁立。
反対派をことごとく粛清して朝廷を乗っ取った、現代の魔王。
今や漢王朝の実権は、天子ではなく、この暴虐な武人の手の中にあった。
黄琬が静かに立ち上がった。その拳は、白くなるほど強く握りしめられている。
「……光栄な話だが、今の豫州は混乱の最中。私が離れるわけにはいかぬ。辞退させていただく」
黄琬の拒絶。それは命がけの抵抗だった。
だが、宦官は予期していたように、扇子をパチリと閉じた。
「おや?断ると仰るか?天子様の詔を?……いえ、董卓閣下のご好意を?」
「……」
「もし断れば、閣下は悲しまれるでしょうなぁ。『黄琬は逆賊である』と誤解なされるかもしれない。そうなれば、この豫州に西涼の騎馬隊がお邪魔することになるでしょう。誤解を解くためにね」
うわぁ、脅しだよ。隠そうともしない、暴力のチラつかせだ。向朗は筆を持つ手を止めた。
これが「政治」だ。理屈も正義もなく、ただ「力」だけが支配する現場だ。
黄琬は、ギリギリと歯ぎしりをするように奥歯を噛み締めた。
彼は名士だ。自分の命は惜しくないかもしれない。
だが、自分の拒絶が引き金となって、故郷である豫州が戦場になり、民が蹂躙されることだけは避けなければならない。
黄琬は、天井を仰ぎ、それから諦めたように長く、重い息を吐いた。
「……わかった。行こう、魔王の檻へ」
「賢明なご判断です。……とはいえ、太師は気の短いお方。洛陽への道程もございますれば、猶予はなりませぬぞ。身支度を整え、一刻も早くご出立なされよ」
宦官は、扇子で口元を隠しながら、冷ややかに釘を刺した。
黄琬は無言で頷いた。拒否権などないことは、その場にいる誰もが理解していた。
明日か、明後日か。いずれにせよ、別れの時はすぐにやってくる。
彼はゆっくりと視線を巡らせ、歓喜で震えている李旻を一瞥した。
その目は、怒りでも軽蔑でもなく、深い「憐れみ」で満ちていた。
「李旻、あとは任せるぞ。……せいぜい、その『偽りの平和』がいつまで持つか、楽しむがいい」
それは遺言のような響きを持っていた。
黄琬は背を向け、重々しい足取りで部屋を出て行った。
その背中は、自ら死地へ赴く者の覚悟と、残される故郷への未練で滲んでいた。
向朗は、その背中を見送りながら、眼鏡を直す癖のように人差し指で目頭を強く揉んだ。
(黄琬様、行っちゃうのか……。これ、豫州の重石がなくなったってことですよね?唯一まともな判断ができる人がいなくなって、残されたのは無能な太守と、嘘で塗り固められた街だけ。……あー、嫌な予感しかしない。計算盤が壊れる音がする)




