第11話 怪物の焼却、欺瞞による平和 2/2
3. 豪商の嗅覚、嘘への投資
一方、広場の隅で、その熱狂を「金貨の音」として聞いている男たちがいた。陳留の豪商・衛臻と、その護衛を務める巨漢、典韋である。
「……旦那。みんな泣いてますぜ。おかしな街だ」
鉄戟を背負った典韋が、不思議そうに首を傾げる。
衛臻は、口元を扇子で隠しながら、目だけで笑った。
「典韋、よく見ておけ。これが『商機』だ」
「商機?」
「民は賊を憎んだ。太守は引くに引けなくなった。……つまり、これから『戦争』が始まる。軍需物資が必要になる。武器、食糧、そして『賈仁英雄譚』を盛り上げるための祭祀道具」
衛臻の瞳の奥で、算盤が弾かれる音がした。彼は向朗という書生が仕掛けた「嘘」の本質を見抜いていた。そして、その嘘に乗っかることで、莫大な利益を得られることも。
「あの書生に投資する価値はある。……『葛陂の賊討伐の機運』、我々が一枚噛んでやろうじゃないか。嘘を真実に変えるには、金が必要だからな」
衛臻は踵を返した。この商談、乗らない手はない。
4.英雄の感嘆
民の熱狂と太守の泣き落としを、楼閣の隅で見ていた少年・司馬懿。
彼は窓枠を強く握りしめ、身震いしていた。
恐怖ではない。歓喜と、絶望的な敗北感がない交ぜになった、未体験の熱狂だった。
「すごい……。父上の堅苦しい『論理』も、太守の腐った『権力』も、たった一枚の紙切れ……あの『嘘』には勝てなかった!」
司馬懿は、ガラス玉のような瞳をギラギラと輝かせ、独り言を漏らし続けた。
「僕はずっと思っていたんだ。大人は馬鹿だ、誰も僕より先が見えていないって。……でも、違った。いたんだ、この街に。僕なんかよりずっと深く、人の心の『一番柔らかい急所』を知り尽くした怪物が!」
彼は窓の外、熱狂する群衆の波を指でなぞる。
昨日まで殺し合っていた人々が、今は涙を流して抱き合い、同じ方向を見て叫んでいる。
真実など何一つないのに、この結束は鋼鉄よりも固い。
「悔しいなぁ! 真実なんて、弱くて脆いガラス細工だ。……本当に強いのは、民衆がすがりたくなる『信じたい嘘』なんだ!」
司馬懿は自分の頭を抱え、クスクスと、やがて腹の底から湧き上がるような忍び笑いを漏らした。それは無邪気な子供のようであり、同時に老獪な政治家のようでもあった。
「勉強になるなぁ。ありがとう、顔も知らない策士殿。……これからの時代を動かすのは、剣じゃない。正義でもない。『演出』だ!」
後の晋の高祖となる怪物は、この夜、自らの才知を遥かに上回る「神算」を目の当たりにし、その敗北を血肉として飲み込んだ。
(いつか会ってみたい。……そして、その時は僕が騙してやるんだ)
5. 嵐の前の凪、迫る真の地獄
夕刻。陽翟の街は、奇妙な静寂と、湿っぽい連帯感に包まれていた。
暴動の跡は片付けられ、代わりに街の至る所に「打倒・葛陂賊」の旗が掲げられた。
人々は、自分たちが殺そうとした太守を「我らの指導者」と崇め、死んだ賈仁を「守護神」として祀った。
欺瞞による平和。嘘の上に築かれた楼閣。
太守府の文書庫で、向朗は山積みの「戦費調達書(という名目の帳簿修正)」と格闘していた。
窓の外を見上げると、西の空が赤く燃えている。
夕焼けではない。洛陽の方角から、不吉な風が吹いている気がした。
「……とりあえず、今日は生き残った」
向朗は深く息を吐き、机に突っ伏した。
「でも、わかってるさ。これは時間稼ぎにすぎない。……すぐに破綻する」
陽翟に訪れたのは、嵐の前の、ほんの一時の凪だった。歴史の歯車は止まらない。
洛陽では何進大将軍が暗殺され、魔王・董卓が笑い、漢王朝の最後の日々が始まろうとしている。
向朗の計算式が、本当の意味で「地獄」を弾き出すのは、まだ少し先の話である。




