第9話 蒼天、すでに死す 2/2
3.それは地獄か、救いか
五月に入り、冷たい雨が降り続くある日。李旻の甘い計算を粉砕する来訪者が現れた。
太守府の広間に、二人の男が土足で踏み込んできた。
一人は、豫州牧・黄琬。その眼光は堕落した官吏を射殺すかのように鋭い。
そしてもう一人は、洛陽へ帰還する途中で足止めを食らい、臨時に黄琬の客将となっていた治書御史、司馬防である。
上座にドカと座った黄琬は、茶にも口をつけず、縮こまる李旻を見下ろした。
「李旻よ。帝が崩御され、天下は動揺している。この隙を突き、葛陂の賊・呉覇らが再び活発化しているとの報告がある」
黄琬の声は低く、しかし部屋の空気を凍らせる重圧があった。
「貴殿に命じる。直ちに郡兵を率い、葛陂を強襲。呉覇の首を挙げ、賊徒を殲滅せよ」
李旻は、顔面から血の気を失った。
「せ、殲滅……ですか?しかし、我が軍の準備はまだ……それに、彼らとは現在、交渉による帰順を……」
「交渉?」
黄琬が眉をピクリと動かしただけで、李旻は言葉を詰まらせた。
「督郵の賈仁は、その『交渉』という名の癒着の末に殺されたのではなかったか?太守、まさかとは思うが……貴殿もまた、賊と杯を交わし、民の血肉を啜っているわけではあるまいな?」
「め、滅相もございません!私は潔白です!」
「ならば証明せよ」
黄琬は、卓上に短剣を突き立てるように、一枚の木簡を叩きつけた。
「出来ぬとは言わせぬぞ。癒着がないのならば、賊を殺すことに何のためらいがある?……それとも、賊を殺せば『過去の悪事』をバラされるとでも思っているのか?」
李旻は脂汗にまみれた。詰んでいる。
戦わなければ癒着を認めることになり、戦えば呉覇が怒り狂って李旻の過去(裏金の授受)を暴露するだろう。
4.策という名の処刑状
「……太守殿。お困りのようですな」
沈黙の海に溺れかけた李旻に、救命具を投げるような――しかし実際には重りを括り付けるような声がかかった。
司馬防である。厳格なる儒者である彼は、懐から手巾を取り出し、淡々とした口調で語り始めた。
「黄琬殿の命は至極真っ当。しかし、太守殿のような文官に、荒っぽい用兵は酷というもの。……そこで、私が僭越ながら、今回の討伐に関する『三つの策』を考案いたしました」
司馬防は三本の指を立てた。その指先は、鋭利な刃物のように李旻に向けられている。
「まず、上策。太守殿が自ら精鋭騎兵五百のみを率い、夜陰に乗じて葛陂の本拠地を急襲、呉覇の寝首を掻く。これならば賊に『秘密を喋る隙』を与えずに処理できる。……最も迅速かつ、潔白を証明できる道です」
「む、無理です!私にはそのような武勇は……!」
「では、中策」司馬防は表情一つ変えない。
「偽りの和睦を申し出、呉覇らを酒宴に招く。そして伏兵をもって、酔った彼らを一人残らず斬殺する。太守殿と彼らに『旧知の仲』があるならば、容易に呼び出せましょう?」
李旻の喉がヒクリと鳴った。
それは、「お前たちの癒着を利用して裏切れ」という悪魔の提案だ。
「そ、それも……信義に悖ります……」
「賊相手に信義ですか。……ほう」
司馬防の目が、氷点下の侮蔑を湛えて細められた。
「では、下策。全郡の農民を徴発し、数万の兵で葛陂を包囲する。力攻めで数ヶ月、あるいは一年かけてじっくりと攻め滅ぼす。……ただし、これには莫大な軍費と兵糧がかかり、農地は荒れ、民の怨嗟はすべて太守殿に向かうでしょう。無能な将が好む、最も愚かな策ですが……確実に勝てます」
上策は命を懸ける道。中策は破滅の種を蒔く道。下策は政治生命を断つ道。
逃げ場はなかった。
どちらに転んでも、李旻の「安楽な太守生活」はここで終わる。部屋には、雨音だけが絶え間なく響いていた。
5.蒼天の死、狼の瞳
その重苦しい静寂を破ったのは、意外な人物であった。
司馬防の斜め後ろ、黒い影の中に溶け込むように控えていた少年が、ふいに動いたのだ。
十歳になる司馬防の次男、司馬懿である。
彼は大人たちの張り詰めた問答など意に介さぬ様子で、トコトコと窓際へ歩み寄った。
その足取りは軽く、まるで雨宿りに飽きた子供そのものであったが、その瞳だけが異様に凪いでいた。
司馬懿は窓枠に小さな手をかけ、雨に煙る陽翟の街を見下ろした。
灰色の雲、泥濘む大通り、そして屋根の下で息を潜める民たちの気配。
「……ねえ、父上」
鈴を転がすような、幼い声が響いた。李旻がビクリと肩を震わせ、黄琬も怪訝そうに眉をひそめる。
「街の空気が、まだ焦げ臭いよ。……督郵の賈仁が殺されて、みんなが役所を怖がっている匂いだ」
司馬懿は窓の外を見つめたまま、独り言のように続けた。
「当たり前だよね。法を守るはずのお役人様が、法を犯して私腹を肥やしていたんだもの。……民はもう、誰も『漢』を信じていない」
彼はくるりと首だけを回し、不気味に笑い、凍りつく李旻の方を見た。。
「太守様。もしここで、父上の言う通りに『正しい対応』を選ばないと……大変なことになるよ?」
「た、大変なこと……だと……?」李旻が掠れた声で問い返す。
司馬懿は、にっこりと無邪気に笑った。
だが、その口から紡がれた言葉は、一地方官の肝を冷やすには十分すぎる呪詛であった。
「ここ、頴川でしょう?黄巾の乱の時、一番激しく燃えた場所だよね。地面の下には、まだあの時の『怒り』が埋まっている。太守様が下手を打てば、またすぐに火がつくよ」
少年は再び窓の外へ視線を戻し、雨空を指差した。
「だって、あの時のスローガン……まだ生きてるもん」
そして、歌うように呟いた。
「――『蒼天、已に死す』」
その一言が放たれた瞬間、太守府の広間は、文字通り凍りついた。蒼天已死。それは漢王朝の滅亡を願い、黄巾賊が掲げた禁断の言葉である。それを、十歳の子供が、あろうことか太守と州牧の面前で、今の世の実情として口にしたのだ。
「仲達、控えよ」司馬防が静かに、しかし鋭く嗜めた。「子供の口にしてよい言葉ではない」
「あ、ごめんなさい父上」
司馬懿は舌を出し、悪びれもせずに父の背後へと戻ろうとした。
だが、その足が一瞬止まる。
少年はもう一度、ガタガタと震える李旻を見上げ、あどけない瞳で首を傾げた。
「でも……だってそうでしょう?太守様」
司馬懿は、先ほど届いたばかりの『帝の崩御』を告げる凶報を、楽しそうに指差した。
「――『蒼天、已に死す』」
少年は、大事なことだからもう一度言うよ、とでも言うように、残酷な無邪気さで繰り返した。
「そうなったんだもの」
クスクスと無邪気に笑う司馬懿。
帝が死んだ。天が死んだ。
ならば、あの呪詛はもはや反乱のスローガンではなく、ただの「事実」ではないか。李旻は椅子の上で崩れ落ちそうになった。
黄琬の圧力も、司馬防の論理も恐ろしい。
だが、この子供が口にした「終わってしまった時代」への淡々とした追認こそが、何よりも深く李旻の心をえぐり、絶望の淵へと突き落としたのである。
窓の外の雨脚が強まった。それは、間もなく訪れる洛陽炎上と、漢帝国崩壊の序曲を奏でているかのようであった。
司馬懿の言葉は、ただの童の戯言ではない。陽翟の土は、五年前の「黄巾」という名の狂気と、数万の死肉で腐り果てているからだ。
長社で焼かれた亡者の脂の臭い。官軍が築き上げた、見上げるごとき死体の塔「京観」。
昨日までの隣人が、黄色い布を巻いた刹那、笑いながら官吏の臓腑を引きずり出す「鬼」へと変貌した阿鼻叫喚。
帝の死を合図に、地下に押し込められたはずの怨嗟が、今まさに地獄の蓋を内側から突き上げようとしていた。




