第8話 徐庶の仇討ち 7/7
20.名の葬列、明日の誓い
陽翟の喧騒を遠く離れた、夜明け前の静かな川べり。
そこには、昨夜の業火と絶叫が嘘のように、冷たい朝靄だけが立ち込めていた。
徐福は小舟の縁に腰掛け、川の水で自らの顔を洗っていた。
肌にこびりつき、岩のように硬化していた漆喰が、水に溶けて白い欠片となり、川底へと沈んでいく。
それは、賈仁を討ち、柳安の仇を晴らすために彼が纏った「白亜の怪物」という名の皮が、剥がれ落ちていく儀式のようだった。
「……終わったんだな」
徐福が、誰に言うでもなく呟いた。
その声には、復讐を遂げた達成感よりも、唯一無二の親友を失い、さらに己という存在を捨て去らねばならない喪失感が色濃く滲んでいた。
傍らに立つ向朗は、泥と墨で汚れた手を組み、じっと川面を見つめていた。彼の頭の中では、すでに『徐福は火中に死せり』という偽りの報告書が、公的な真実として陽翟の役所に受理されている。
「ああ。終わったよ。……そして、君の人生もここで一度、幕を閉じる」
向朗は懐から、一通の何の色もついていない木簡を取り出した。
そこには、向朗が己の全知略を注ぎ込んで用意した、新しい身分と「影」の戸籍が記されている。
「徐福。君は昨夜の火事に巻き込まれ死んだことになる。死体は焼け爛れ、誰にも判別できない。……これからは、誰も君を追わない。だが、誰も君を『徐福』とは呼ばない」
向朗は、川の流れを見つめる友の背中に向かって、静かに語りかけた。
「新しい名が必要だ。君のその侠気、その剣。これからは特定の誰かのためではなく、この混迷する世に追多くも人々に囲まれる人になるんだ。……『庶』、。徐庶。今日から、それが君の名だ」
徐福――いや、徐庶は、その名を口の中で何度か反芻した。
「徐庶……か。福を捨て、庶の民と生きる。……悪くない名だ。巨達、あんたらしいよ」
徐庶は立ち上がり、向朗の方を向いた。漆喰を洗い流したその顔は、以前よりもどこか鋭く、そして透徹した覚悟を宿していた。
「しばらくのお別れだ。陽翟から離れてくれ」
向朗は、震える手を隠すように袖を握りしめた。事務屋として導き出した「生存のための最善の解」は、親友を流浪の身に追いやるという残酷なものだった。
「謝るなよ、巨達」徐庶が、向朗の肩を力強く叩いた。
「あんたの計算があったから、俺は柳安を笑って見送れた。……今度は俺が、あんたの計算を現実にするための剣になる番だ。この世のどこかで、必ずまた会おう」
「……ああ。約束だ」
向朗は、懐から筆を一本取り出し、それを川へと投げ捨てた。
「次に会う時は、こんな泥沼の工作のためじゃない。新しい時代を祝う詩を書くために、筆を執ろう」
陽翟の街から、霊帝の崩御を告げる重々しい弔鐘が再び響き渡った。天が砕け、一つの時代が完全に終わりを告げる音だ。
徐庶は、一歩、また一歩と、朝靄の向こう側へと歩き出した。
一度も振り返ることはなかった。
振り返れば、向朗の計算が揺らぐことを知っていたからだ。
向朗は、友の背中が霧の中に消えるまで、じっと立ち尽くしていた。
やがて、昇り始めた太陽が、灰色の世界を黄金色に塗り替え始める。
「待っていろ、徐庶。僕は、君が堂々とその名で陽の下を歩ける場所を作る。」
二人の男が、別々の道を歩み始める。
それは、後に『水鏡の門』と称される英雄たちが、歴史の表舞台へと駆け上がるための、最初の一歩であった。
しかし、時は止まらない。
風が止む。
その不気味な静寂の裏側から、かつてこの街を焼き尽くした「蒼天の終わり」が、足音もなく忍び寄っていた。




