第8話 徐庶の仇討ち 2/7
3.トロイの木馬
運命の夜が訪れた。
宴の準備が進む夕暮れ時。賈仁の屋敷の北門に、一台の大八車が到着した。
引いているのは、商人風の男に変装した向朗。
荷台を押すのは、粗末な着物を着た石韜と孟建。
そして荷台の上には、山積みにされた野菜と共に、大人が二人ほど入れそうな巨大な酒樽が鎮座している。
その樽の中に、徐福が潜んでいることは言うまでもない。
「と、止まれ!何の用だ!」
門番が槍を突きつける。その目は血走っている。牛鉄の厳命により、彼らもまた極度の緊張状態にあった。
「へ、へい。ご注文の品をお届けに参りました……」
向朗が卑屈な笑みを浮かべ、偽造した通行証を差し出す。
だが、門番はそれを引ったくるように見ると、疑わしげに荷台を睨んだ。
「怪しいな。牛鉄隊長からは、外部の者は厳重に改めろと言われている。……その樽、中身は何だ?」
「は、はい。宴席用の特級春酒でございます」
「ふん。……開けろ。中を確認する」
向朗の背中に冷や汗が流れる。
ここで蓋を開けられれば終わりだ。徐福が飛び出して戦うしかないが、それでは奇襲にならない。
「あ、あの、これを開けると香りが飛んでしまいまして……」
「問答無用だ!開けぬなら、槍で突いて確かめるぞ!」
門番が槍を振りかぶる。樽の中の徐福が、剣の柄に手をかけ、呼吸を止める。
万事休すか――。
「――おやおや。手荒だねぇ」
その時、門の内側から、気怠げな声が響いた。
門番が振り返ると、そこには酒瓶を手にした郭嘉(奉孝)が、千鳥足で立っていた。
彼はすでに花街のコネを使い、宴会の給仕の手伝い(という名目のサボり要員)として入り込んでいたのだ。
「郭嘉か……。邪魔をするな。俺たちは公務中だ」
「分かってるよ。でもねえ、その酒、督郵様が一番楽しみにしてる『西域の秘蔵酒』だって聞いてるぜ?」
郭嘉は門番の耳元で囁いた。
「もし槍で穴を開けて、中身が漏れ出したら……あの賈仁様のことだ。お前さんの首にも穴を開けるんじゃないかな?」
門番の顔色が青ざめた。
昨夜からの賈仁の錯乱ぶりを見れば、些細なミスで処刑されかねないことは容易に想像できた。
「う……し、しかし、隊長の命令が……」
向朗はすかさず、門番の帯の間に、重みのある巾着(賄賂)をねじ込んだ。
「お役目ご苦労様です。……ほんの少しですが、皆様で茶代にでも」
恐怖(賈仁)と、利益(賄賂)、そして郭嘉という「内側の証人」。
三つの要素が重なり、門番の警戒心が崩れた。
「……チッ。いいだろう、通れ!さっさと行け!」
ギィィィ……。
重厚な北門が、ゆっくりと開かれた。
向朗は深く一礼し、石韜と目配せをして車を押し出した。
ゴト、ゴト、ゴト……。
車輪の音が、向朗の心臓の鼓動と重なる。
敷居を跨ぐ。
(計算通りだ。……待っていろ賈仁。)
向朗は震える指で眼鏡を押し上げ、屋敷の奥を睨み据えた。
そこには、煌々と明かりが灯る広間がある。
震える賈仁、殺気を漲らせる牛鉄、樽の中で牙を研ぐ徐福、そして闇で嗤う戯志才。
全ての火薬が、一箇所に集まった。
あとは、誰かが火をつけるだけだ。
遠くで雷鳴が轟いた。
陽翟の街に、血の雨が降ろうとしていた。
4.血と酒の狂宴
ズシン、と重い音が響いた。
向朗と石韜、孟建の三人は、汗を拭うふりをしながら、野菜と共に運んできた巨大な酒樽を、広間に続く回廊の影に下ろした。
周囲には、宴の準備に追われる侍女や、殺気立った兵士たちが行き交っている。
だが、郭嘉(奉孝)の手引きと、向朗がばら撒いた賄賂のおかげで、もはや誰もこの「仕出し業者」たちを怪しむ者はいなかった。
(……配置完了。あとは合図を待つだけだ)
向朗は樽の蓋を指で二回、軽く叩いた。
中からは返事はない。だが、樽の中で徐福が呼吸を整え、剣を握りしめている気配が、木の板越しに伝わってくる。
広間からは、すでに騒がしい声が漏れ聞こえていた。
今夜の宴は、単なる遊興ではない。督郵・賈仁と、葛陂の賊の首領たちによる、闇取引の最終確認の場である。
広間は、異様な空気に支配されていた。
上座に座る賈仁は、酒杯を持つ手を震わせ、周囲を見回している。李譔が仕掛けた「怪異」への恐怖が、彼の精神を蝕んでいたのだ。
その左右には、招かれた「客」がふんぞり返っている。
葛陂の賊の首領、何儀と劉辟である。
「おいおい、督郵殿。顔色が悪いぞ。本当に取引できるのか?」
何儀が肉を食いちぎりながら下卑た笑いを浮かべる。彼らにとって賈仁は、兵糧と人質を供給してくれる「金づる」でしかなかった。
「う、うるさい!品物は地下にある!さっさと飲め!」
賈仁はヒステリックに叫んだ。
そして、賈仁の背後には、巨大な岩のような男が仁王立ちしていた。
警備隊長・牛鉄である。
彼は目を血走らせ、広間の出入り口、給仕の動き、窓の外の気配、その全てを殺気立った視線で監視していた。
(……隙がない。完璧な配置だ)
向朗は舌打ちをした。だが、ここまでは想定内だ。
彼は、買収した給仕女に目配せをした。彼女が盆に乗せて運ぶのは、とびきりの美酒。中身は、向朗が調合した即効性の痺れ薬入りだ。
給仕女がおずおずと牛鉄に近づく。
「隊長さん……。ずっと立ちっぱなしでお疲れでしょう?旦那様からの労いのお酒ですわ」
向朗の計算では、牛鉄のような武人は、主君の顔を立てるためにもこの酒を断れないはずだった。一口でも飲めば、数分で牛鉄の巨体は崩れ落ちる。
しかし。
牛鉄は、差し出された杯を一瞥すらせず、まさかの行動に出た。
パァンッ!
彼は裏拳で、給仕女の手から杯を叩き落としたのだ。
「きゃっ!?」
床に酒がぶちまけられ、広間が静まり返った。
「馬鹿者が!」
牛鉄の怒号が響く。
「今は戦時(非常時)だと言ったはずだ!毒見もしていない酒を、勤務中に飲めるか!失せろ!」
(なっ……!?)
向朗は凍りついた。
計算外だ。昨夜からの「怪異」への警戒心が、牛鉄を極度の潔癖症に変えてしまっていたのだ。李譔の策が、ここでは完全に裏目に出た。
「おい!牛鉄!脅かすな!」
悲鳴を上げる賈仁に、牛鉄は頭を下げた。
「申し訳ありません、殿。しかし、今の屋敷は何が起きるか分かりません。私の目が黒いうちは、一滴の酒も、怪しげな者も通しません」
その忠義は本物だった。だが、向朗にとっては絶望の宣告だった。
「……駄目だ。薬が効かない。だが、万全の状態の牛鉄と正面からやり合えば、徐福が樽から出た瞬間に両断される……!」




