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丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。  作者: こくせんや
第一章 街亭の戦い

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7話 万全 一箱は万変して鉄壁の城となり 三六の連環は天険の桟道を征す

本日2話目になります。

向朗的には真骨頂、一種のクライマックスです。

【茶色の木箱】


 漢室復興を賭した北伐の大軍が発する熱気は、盆地を覆う朝霧さえも焦がさんばかりであった。

 だが、この日、大演習場に集められた万に届くの将兵たちの顔に浮かんでいたのは、武者震いではなく、深い困惑の色であった。

 彼らは、各部隊から選抜された什長、百人将といった、現場を統率する古参の小部隊長たちである。


 招集の名目は「新兵器の受領」。


 彼らは期待していたのだろう。魏の騎馬隊を貫く強力な連弩れんどか、あるいは刀剣を通さぬ新型の鎧か。

 しかし、霧が晴れ、彼らの目の前に露わになったのは、そのような勇ましい鉄の塊などではなかった。

 私が彼らのために用意したのは、茶色い「山」であった。


 否、山と呼ぶにはあまりに不自然だ。自然界には存在し得ない、墨縄すみなわで打ったような直線と直角のみで構成された、奇怪な幾何学の集積。

 視界の限りを埋め尽くしていたのは、鈍い光沢を放つ、無数の「木箱」であった。


「……おい、俺たちは大工仕事でもさせられるのか?」

 隊列の中から、そんな囁きが私の耳に届いた。歴戦の古傷を持つ百人将の声だ。


 無理もない。そこには槍の一本、旗の一流いちりゅうすらない。ただ、無機質な茶色の正方形が、沈黙を守って並んでいるだけなのだから。

 ざわめきが波のように広がりかけた時、私は丞相と共に演壇に立った。


 綸巾りんきんを戴き、羽扇を手にした蜀漢の丞相、諸葛孔明。

 その隣で杖をつき、好々爺然とした笑みを浮かべながら眼下を見下ろすのが、この私――丞相長史にして、此度の遠征の兵站総監を務める、向朗、字は巨達である。

 私は、兵たちの困惑を、心地よい緊張感と共に受け止めていた。


 (迷うておるな。無理もない。わしがこれから見せるのは、戦の常識を覆す『ことわり』なのだから)


 孔明が羽扇を掲げると、数万の兵が息を呑んだかのように静まり返った。

 その声は決して張り上げたものではないが、静まり返った水面に石を投じた波紋のように、兵たちの耳の奥を震わせた。


「諸君。これより授けるのは、敵を斬る剣ではない。勝利を運ぶための『器』である」

 丞相の言葉は短い。彼は一歩下がり、場を私に譲った。


 私は前に進み出る。背後に積まれた箱の山を、杖で指し示した。

「これより、今回の北伐における『荷の運び方』のすべてを更新する。……古き常識は捨てよ。心して聞くがよい」


 努めて腹に響く声を出した。戦場を知り尽くした古参兵たちを黙らせるには、言葉の重みが必要だ。

 私は手を叩いた。

 すると、箱の山の影から二人の男が現れた。私の腹心、姚伷ようちゅう楊顒ようぎょうである。


 二人は武装していない。簡素な衣に身を包んでいるが、その動きには無駄がなく、まるで精巧な機巧からくりのような冷徹さを漂わせていた。


 姚伷が、奇妙なものを手にしていた。

 それは、湾曲した木の枠組みであった。梯子のようにも見えるが、人の背骨の曲線に合わせて滑らかに曲げられ、丈夫な革帯かくたいがついている。

 私は厳かに告げた。


「名を、『背甲はいこう』という」


 姚伷がそれを背負う。

 木の骨格は、吸い付くように彼の背中に密着した。腰の帯を締めると、枠組みは彼の一部となったかのように安定した。

 古参兵たちが眉をひそめるのが見て取れた。


 (ただの背負子ではないか。薪を運ぶのと何が違う?)――そう言いたげな顔だ。

 兵たちの落胆した空気を察し、私はニヤリと口の端を歪めた。


 ここからが、魔術の時間だ。

「そして、これが『方寸ほうすん』だ」


ただの木箱。そうとしか見えない。


 楊顒が、積み上げられた山から一つの木箱を取り上げた。

 縦、横、高さ、およそ二尺。表面には防腐のための漆が幾重にも塗られ、濡れたような茶色の輝きを放っている。

 楊顒は箱を抱え、背甲を背負った姚伷の背後に立った。

 古参兵たちは、まばたきをする間もなかったはずだ。

 楊顒が箱を、姚伷の背甲にある「爪」に合わせて滑り込ませる。


 カチリ。


 乾いた、硬質な音が演習場に響いた。

 楊顒が革紐を一本、ギュッと締める。

 それだけだ。


「……は?」


 最前列にいた兵士が、間の抜けた声を漏らした。

 終わったのだ。荷造りが。

 所要時間、わずか数瞬。


 私は、唖然とする兵たちを見回し、低い声で問うた。

「どうした。早すぎて見えなかったか?」

 ざわめきが、どよめきへと変わる。

 現場を知る者ほど、その光景の意味を理解し、戦慄していた。


 従来の行軍を思い出してみるがいい。

 個人の荷、食料、予備の草鞋、着替え。それらを風呂敷や布袋に包むのに、どれだけの時間がかかるか。

 背負い方が悪ければ、歩くたびに荷が揺れ、紐が肩に食い込み、皮が剥ける。


 休憩のたびに荷を解き、出発のたびにまた結び直す。雨が降れば中身はずぶ濡れになり、兵糧は腐る。

 それが「行軍」というものの常識であり、逃れられぬ苦痛であったはずだ。


 だが、今、私が彼らの前で行ってみせたのは何だ?

 風呂敷を結ぶ手間も、荷のバランスに悩む時間も、すべてが消滅していた。

 姚伷は背中の箱を揺らしてみせる。箱は背甲と完全に一体化し、微動だにしない。

 それはもはや「荷物を背負った人間」ではなかった。

 人間と木箱が融合した、全く新しい「輸送の機構きこう」がそこにいた。


「この箱は、南中の職人が魂を込めて削り出した、一分の狂いもない統一規格品である」


 私は杖で地面を突き、言葉を継いだ。


「寸法は縦横高さ、共に二尺。ただの木箱である」

 私は、呆然とする古参兵たちを見据え、言い放った。


「だが、中身が米であれ、矢であれ、薬草であれ、外見はすべてこの『方寸』になる。お前たちは、中身の形に悩む必要はない。風呂敷の大きさに、肩に食い込む荷紐に悩む必要はない。ただ、この四角い塊を背負い、運び、降ろせばよい」


 演習場を埋め尽くす、三十万個の茶色い箱。

 それらが単なる木箱ではなく、計算され尽くした「勝利のための礎石そせき」に見え始めた時、兵士たちの背筋に、冷たいものが走ったのが分かった。

 この老人は、戦を、英雄の武勇伝から、冷徹な数字の管理へと書き換えようとしているのだ――と。


「戦場において、一刻の停滞は、千人の屍に勝る損失である。……我々が魏に勝つための第一の秘策。それは、一十万の将兵から『荷造り』という無駄な時間を、永遠に奪い去ることである」


 私の目は、一糸の狂いも許さぬ職人が、材の反りを検めるように細められた。


「講義はまだ序の口よ。……姚伷、楊顒。続けよ。次は『うつろ』なる二段目を見せてやれ」

 私の合図で、二人の実演者が再び動き出す。

 茶色の教室は、まだ始まったばかりであった。


【方寸の解剖と展開】


演習場を支配する空気は、先刻までの困惑から、ある種の緊張感を帯びた静寂へと変わりつつあった。

数万の瞳が一点に注がれている。


演壇に積み上げられた、あの茶色い木箱――『方寸』だ。

私は、兵たちの視線が熱を帯びてくるのを感じていた。


彼らは歴戦の猛者だ。戦場における「荷」の重さと、それがもたらす苦痛を骨の髄まで知っている。だからこそ、先ほどの「数瞬での荷造り」が、単なる奇術ではなく、生存に関わる革新であることを肌で感じ取ったのだ。

私は杖を突き、一歩前へ進み出た。

喉を震わせ、腹の底から声を張り上げる。


「よかろう。では、この『方寸』の中身……いや、その真髄しんずいについて説いてやろう」


私が合図を送ると、楊顒が木箱の一つを高く掲げた。

朝陽を浴びて、幾重にも塗り込められた漆が鈍く輝く。


「寸法は縦、横、高さ、いずれも二尺。……なぜ二尺か、わかるか?」


私は最前列にいた、顔に深傷のある百人将を指した。彼は不意を突かれ、口ごもる。

私は答えを待たず、自らの肩を叩いて見せた。


「肩幅よ。……秦嶺の桟道は狭い。絶壁にへばりつくように架けられた板の道で、兵がすれ違う時、荷が岩肌に当たればどうなる? 体勢を崩し、谷底へ真っ逆さまだ。故に、人の身の幅を超えぬこの『二尺』こそが、天険を越えるための絶対ののりとなる」


兵たちが、なるほどと頷く。

桟道での滑落事故は、戦闘による死傷者よりも多いことすらある。この箱は、その死神を遠ざけるための結界なのだ。


「次に、重さだ。中身を入れた状態での最大重量は、二鈞(約十三キロ)までとする」

どよめきが起きた。

「たった二鈞ですか? もっと運べますぞ!」

血気盛んな若者が声を上げる。私はそれを厳しく睨みつけた。

「平地を歩くのと訳が違うぞ。険しい山道を、一日数十里、何日も歩き続けるのだ。二鈞を超えれば、お前たちの体は悲鳴を上げ、必要以上に飯を食うようになる。運ぶための食料を、運ぶ途中で食いつぶしては本末転倒」


燃費。

彼らには馴染みのない概念だが、兵站を預かる私にとっては、兵士の胃袋と筋肉の限界値こそが、最も冷徹な計算式なのだ。


私は杖で地面を叩き、念を押した。

「検問では厳密に量る。一両でも超過すれば、過積載として厳罰に処す。……よいな」

場が引き締まるのを見て、私は次の手品へと移った。


水桶が運ばれてくる。

「中身は問わぬ。米も、矢も、薬も、全てこの中だ。……楊顒、やれ」

楊顒は無言で頷くと、あろうことか『方寸』を水桶の中に乱暴に沈めた。


ボチャン、と飛沫が上がる。


兵士たちが悲鳴に近い声を上げた。中には貴重な薬や乾飯ほしいいが入っているかもしれないのだ。水濡れは輜重部隊にとって最悪の失態である。

だが、楊顒は涼しい顔で、水没した箱を抑え続けている。


十数えるほどの沈黙の後、彼は箱を引き上げ、滴る水を拭うこともなく、蓋を開け放った。

中から現れたのは、さらさらの乾いた砂であった。

一滴の染みもない。


「……南中の技よ」


私は静かに告げた。


「表面には漆を塗り重ね、板の継ぎ目には蜜蝋を溶かし込んである。蓋と本体の噛み合わせは、職人がのみで削り出した、吸い付くような密閉構造からくりを持つ。……例え泥沼に落とそうと、豪雨に打たれようと、中身は一滴の湿り気も帯びぬ」


おお、と感嘆の吐息が漏れる。

彼らは知っているのだ。雨の日の行軍の後、ドロドロになった袋を開け、カビの生えた飯を食わねばならぬ惨めさを。

この箱があれば、どんな嵐の中でも、乾いた飯と、湿っていない着替えが約束される。それは兵士にとって、命の次にありがたい保証であった。


だが、真の魔術はここからである。

私は杖を掲げ、さらなる命令を下した。


「今回の北伐において、歩兵は一人につき『二箱』を背負うものとする」


姚伷が再び『背甲』を背負う。

先ほど装着した箱の上に、もう一つ、同じ箱を重ねて滑り込ませる。

カチリ。

二段重ねになっても、背甲の骨格は揺るがない。


「下段は、お前たち個人の荷物だ。そして上段は……『から』の箱だ」


静寂が訪れた。

兵たちの顔に、疑問符が浮かんでいる。


無理もない。ただでさえ険しい山道だ。針一本でも軽くしたいのが人情である。それなのに、中身のない木箱を運べとは、老いた私の狂気かと疑う者もいたろう。


「長史……」

一人の古参兵が、恐る恐る手を挙げた。

「なぜ、空気を運ぶのですか? 無駄ではありませぬか」


私はその兵を見つめ、皺だらけの顔を綻ばせた。

そうだ、その疑問こそが、常人の発想だ。


「無駄、か。……ふふふ。姚伷、楊顒。野営の準備を」


私の号令一下、二人の腹心が動いた。

彼らは背中の箱を素早く取り外した。

演習場の地面は、昨夜の雨でぬかるんでいる。普段なら、ここに座るなど正気の沙汰ではない。尻も荷物も泥だらけになる。

だが、二人は迷わず『空箱』を泥の上に置いた。

そして、その上にどっかりと腰を下ろした。


「……椅子だ」

誰かが呟いた。

それだけではない。二人はもう一つの箱を重ね、その天板の上で、懐から出した水筒を置いた。


卓だ。

泥濘の地が、一瞬にして快適な休息所へと変わったのだ。

「地べたに座れば体温を奪われ、疫病にかかる。だが、この『方寸』があれば、お前たちはいつでも乾いたとこに座り、卓を使って飯が食える。方寸が四箱あれば寝ることも出来よう……休息の質は、翌日の行軍速度に直結するのだ」


兵たちの目が輝き始めた。

だが、私の「空箱」の用途は、福利厚生などという生ぬるいものではない。


「そして、敵襲があった時はこうする。……組めッ!」

鋭い裂帛の気合いと共に、姚伷と楊顒が跳ね起きた。

二人は周囲に積まれていた予備の箱を掴むと、猛烈な勢いで積み上げ始めた。

ただ積むのではない。

箱の天板と底板には、凹凸が刻まれている。大工仕事で言う「ほぞ」である。

彼らはそれを噛み合わせるように、交互に、煉瓦を積む要領で組み上げていく。


ガコッ、ガコッ、ガコッ、ガコッ……!

乾いた音が連続して響く。

槌も、釘も、縄も使っていない。

だというのに、箱同士は吸い付くように結合し、強固な一枚の壁となっていく。


所要時間、わずか数分。わずか数十の箱を並べ替えた。

二人の前には、大人の背丈を超える、高さ一丈(2.4メートル)、幅五丈(12メートル)の「城壁」が出現していた。


「な……!?」

古参兵たちは言葉を失った。

野営地を作る苦労を、彼らは知っている。森に入り、木を切り出し、杭を打ち、柵を結う。それだけで数刻はかかり、兵は疲労困憊する。


だが今、目の前では、またたく間に砦が築かれたのだ。

箱の中に土や石を詰めれば、矢はおろか、騎馬の突撃すら跳ね返す防壁となるだろう。


「どうだ。……まだ、空気を運ぶのが無駄だと思うか?」

私は兵たちを見回した。


もはや、疑いの色はどこにもない。

彼らの眼に映っているのは、ただの木箱ではない。

行軍の疲れを癒やす椅子であり、飯を食う卓であり、そして眠る自分たちを矢弾から守ってくれる、最強の守護神であった。


「杭打ちも、柵作りも要らぬ。お前たちは行軍で疲れ果てた後でも、箱を積むだけで、安心して眠ることができるのだ」


演習場に、どよめきに似た熱気が渦巻く。

それは、未知の兵器に対する恐怖ではなく、頼もしい相棒を得た安堵と、これから始まる戦いへの確信であった。


私は内心で、南中の若者たちに感謝した。

彼らが私の無茶な注文に応え、一分の狂いもない規格品を作り上げてくれたからこそ、この魔術は成立する。

「……姚伷、楊顒。見事だ」


私の労いに、二人は無言で拱手こうしゅを返した。

だが、茶色の教室はまだ終わらない。

ここにあるのは「歩兵」という最小単位の話に過ぎない。

この箱が、さらに巨大な獣――『木牛流馬』と結合した時、真の兵站革命が牙を剥くのだ。


「次へ進むぞ。……木牛ぼくぎゅうを入れよ!」

私の号令に応じ、演習場の奥から、地響きと共に巨大な影が動き出した。


【三六・六・二の調和】


演習場の地面が、微かに震え始めた。

南鄭の乾いた土煙を巻き上げ、荷車は姿を現した。

「見よ。あれが『木牛ぼくぎゅう』だ」

私の言葉と共に、兵士たちの視線が一様に困惑する。


現れたのは、どこにでもあるような荷車。


四つの堅牢な車輪を備え、太い車軸と木枠で構成された、極めて実用的な荷車であった。

だが、それはただの荷車ではない。その荷台には、先ほど兵たちが目にした『方寸』が、息が詰まるほどの密度で充填されていたのだ。


横に三つ、奥に四つ、高さ三段。

計、三十六個。


一分の隙間もなく、整然と積み上げられた茶色の塊は、あたかも移動する城壁のごとき威圧感を放っていた。


「……縄がない」


鋭い眼力を持つ小隊長が呟いた。

その通りだ。通常の荷車ならば、荷崩れを防ぐために何重にも縄を掛け、網を被せる。だが、この木牛にはそれがない。


車体の枠組みそのものが、『方寸』三十六個をぴたりと飲み込む寸法で作られているからだ。箱と箱はほぞで噛み合い、車体と箱もまた一体化している。


たとえ激しく揺れようとも、箱は微動だにしない。

木牛を引く姚伷が、演習場に設けられた坂道に差し掛かった。


かなりの急勾配である。通常なら、数人がかりで支えねば転がり落ちる難所だ。

だが、姚伷は合図と共に、あろうことか引手を離した。

兵たちが息を呑む。暴走する――誰もがそう思った瞬間。


ガッ。

短い音と共に、荷車はその場に凍りついたように静止した。

「車軸を見よ。あそこに突き出た棒が見えるか」


私は杖で示した。

車軸の下部から、牛の舌のような形をした木片が垂れ下がり、地面に突き刺さっている。


「名を『木牛の舌』という。引手を離せば自重で舌が下がり、地面を噛む。……この仕掛けがある限り、休憩のたびに車止めを探す必要もなければ、坂道で力尽きて荷を失うこともない」


おお、と感嘆の声が上がる。

山道での輸送において、最も体力を削ぐのは「止まる」動作だ。重力に逆らって荷を支え続ける苦労が、この小さな「舌」一つで消滅するのだ。


だが、木牛はあくまで平地や広い街道を行くための母船ぼせんに過ぎない。

秦嶺の真の恐ろしさは、車一台が通れぬほどの狭小な桟道にある。


そこで真価を発揮するのが、次なる獣だ。

「木牛を止めよ! ……『流馬りゅうば』、前へ!」


私の号令に応じ、木牛の背後から、軽快な足取りで六人の兵が進み出た。

彼らが押しているのは、車輪を一つだけ備えた独輪車。後世において「猫車ねこぐるま」と呼ばれるものの原型である。


だが、その形状は奇妙であった。車輪の上部と左右に、荷を載せるための籠のような枠がついている。

六台の流馬が、木牛の周囲に滑り込む。

ここからが、私が最もこだわり抜いた「換装」の儀式である。


「移せッ!」


楊顒たちが、木牛から『方寸』を降ろし始めた。

彼らは箱を抱え、流馬の枠へと次々に嵌め込んでいく。

車輪の上に二つ。左右のバランスを取るように二つずつ。

計、六個。


流馬一台が、あっという間に六個の箱を飲み込んだ。

そこには、一切の無駄がなかった。

結び目を解く時間。数を数える手間。重心を調整する試行錯誤。それら全てが存在しない。

ただ、茶色の箱を、大きな枠から小さな枠へと移動させるだけ。


三十六個の荷を積んだ木牛一頭が、またたく間に空になり、代わりに六頭の流馬が満載状態で待機していた。


私は兵たちを見回し、指を折って数えてみせた。


「木牛一台には、三十六の箱が載る。流馬一台には、六つの箱が載る。……つまり、木牛一台は、流馬六台と等価である」


私はさらに、二本の指を立てた。

「そして、兵一人には二つの箱を背負わせる。……ならば、流馬一台が通れぬ獣道では、三人の兵が荷を分ければよい。兵十八人がいれば、木牛一台分の荷を徒手空拳で運べる」


兵士たちの間に、戦慄にも似た理解が広がっていく。

三十六、六、二。


この整然とした数字の連なり。

余りが出ない。計算が狂わない。


山道で木牛が壊れれば、流馬に移せばいい。流馬が壊れれば、人が背負えばいい。


従来の兵站にあった「荷の積み替えによる混乱」や「紛失」が、この連環の中では起こり得ないのだ。

「これが『ことわり』だ。水が器に合わせて形を変えるように、我々の荷は、道の形に合わせて姿を変え、北へと流れ続ける」


しかし、諸君。

蜀の道は、時に我々の想像を絶する牙を剥く。

流馬すら通れぬ断崖絶壁。あるいは、落石によって道が寸断された時、巨大な木牛はどうするか?

荷物は人が背負えばいい。だが、貴重な輸送車を捨てていくのか?


否。


「楊顒。……『解け』」

私が短く命じると、楊顒は木槌を取り出した。

彼は空になった木牛の、特定の部位――木組みの継ぎ目に打ち込まれたくさびを、リズミカルに叩き始めた。


カン、カン、ガコッ!


乾いた音が響いた次の瞬間である。

堅牢に見えた木牛の車体が、まるで命を失ったかのように崩れ落ちた。 

兵士たちが「あっ」と声を上げる。壊してしまったと思ったのだ。


だが、違う。

地面に散らばったのは、車輪、車軸、荷台の板、手すりといった、規格化された「部材」であった。


楊顒はそれらを素早く束ね、紐で括った。

巨大な荷車は、数人の兵が背負える「角材の束」へと姿を変えたのだ。


「木牛も流馬も、釘一本使わずに組まれておる。手順さえ知っていれば、このように瞬時に分解し、人が背負って難所を越えることができる。……そして、平地に出れば再び組み上げ、荷を載せて進むのだ」


これは、南中への交易路を開拓した際、密林の奥地へ荷を運ぶために編み出した苦肉の策であった。

道がなければ、車を分解して運ぶ。単純だが、究極の機動性である。


そして、この機能には、もう一つ冷徹な目的がある。

私は、分解された車軸の断面を、最前列の兵に見せつけた。

そこには、複雑怪奇なほぞが刻まれていた。


「この分解には、正しい『順序』と『角度』がある。……もし、敵がこの車を奪い、構造を盗もうとして無理に分解すればどうなるか」


私は実演用の端材を手に取り、逆方向から力を加えた。


バキリ。

嫌な音を立てて、内部の継ぎ手が折れ飛んだ。

「このように、内部のかなめが砕け散る。一度砕ければ、二度と組み上げることはできん。ただのたきぎの山となる」


兵士たちはゴクリと喉を鳴らした。


自壊機能。

それは、最先端の技術を敵国・魏に渡さないための、執念の防壁セキュリティであった。


「木牛流馬とは、単なる車の名ではない。『方寸』との統一規格、自在な換装、そしてこの変形機構。……この運用体系システムそのものを指す言葉だ」


その時だった。

遥か彼方、私のいる演壇から、この大演習に参加している、万の超える小部隊長らをはさんだ位置にいた、私からは豆粒ほどにしか見えぬ魏延の視線が、正確に、演壇の上の私を射抜いた。


その言葉が魏延の耳に届いた瞬間、彼が微かに動いたのが見て取れた。

彼は、我々が「兵站」という名の悪鬼にどれほど苦しめられてきたか、誰よりも知る男だ。


あと一歩で敵を討てるという時に、兵糧が尽き、飢えた兵を抱えて血の涙を流して撤退した屈辱。その鎖が、今、私の発明によって断ち切られようとしている。


(……聞こえたか、文長。もう、お前を縛る鎖はないぞ)


物理的には、互いの表情など見えるはずもない距離だ。

だが見えたのだ。私には、はっきりと。

彼の隻眼から放たれる、灼熱のような歓喜と、戦友に向ける絶対的な信頼の色が。

そして彼にも見えていたはずだ。この老骨が、彼のためだけに切り開いた執念の道が。

視線が絡み合った、と感じた刹那。


魏延は私を見据えたまま、ゆっくりと、右の拳を天高く突き上げた。

音はない。

だが、その拳は空気を引き裂き、距離を飛び越え、私の魂に直接轟いた。


『向朗殿、受け取った!

兵站うしろの憂いは消えた。ならば、前にあるのは勝利のみ!』


広大な広場で、ただ一点突き上げられたその剛拳。

それは、遠く離れた場所にいる私と彼を結ぶ、鋼鉄の架け橋であった。

私は震える手を握りしめ、深く、深く頷いた。


言葉など要らぬ。

その拳一つで、私の苦労はすべて報われたのだから。


私は演習場を見渡す。

朝陽を浴びて輝く三十万個の箱と、数千の車両。

それらはもはや、単なる道具の集積ではない。


一つの巨大な意志を持って動く、茶色の生き物に見えたはずだ。

「平地では牛となり、山道では馬となり、絶壁では木材となって兵の背に乗る。……これこそが、丞相孔明と共に編み出した、秦嶺を越えるための『回答』である」


静寂が戻った。

だが、それは冒頭の困惑の静けさではない。

古参兵たちの目に宿っているのは、畏敬と、そして確信であった。

自分たちが扱おうとしているものが、伝説の剣や名馬をも凌駕する、蜀漢の叡智の結晶であるということを、彼らは魂で理解したのだ。


「……長史」

一人の小隊長が、震える声で問うた。

「我々は……人間ではなく、この巨大な機構の一部となるのですな」

私は彼を見つめ、力強く頷いた。


「そうだ。……だが誇れ。お前たちは、無敗の機構だ。英雄一人の武勇に頼る危うい軍ではない。誰一人欠けても代わりが効き、誰一人無駄死にすることなく、確実に勝利を北へと運び続ける、不滅の龍のうろことなるのだ」


兵士たちの背筋が伸びた。

彼らの背中には、すでに『背甲』が装着されている。その重みは、もはや苦役の重さではない。勝利への責任の重さであった。


「……姚伷、楊顒。木牛を戻せ。流馬を列に戻せ」

私の指示で、二人は再び手際よく車を組み上げ始めた。

さあ、準備は整った。

あとは、この巨大な機構に「命令」という火を入れるだけだ。

私は演壇を降り、天幕で待つ友――諸葛亮の元へと歩き出した。


この茶色の幾何学が、北の大地をどのように侵食していくか。その光景を夢想するだけで、老いた血が若人のように滾るのを抑えることができなかった。

さて、大変な北伐の進軍が始まります。


補給が乏しい中での行軍。

現代での大災害時でも同様な困難が発生します。コンビニどころか、水道も下水も電気も全て止まっている中での避難・救援・ボランティア活動等、どうやって規律を保てばいいのか。規律ない状態で行うとどうなるか、私の拙い経験が、今後の兵站線のモデルとなっています。


例えば段ボールのサイズが違うだけで、支援物資の配給が著しく非効率になるのです。


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