第7話 夜に嗤(わら)う 者 3/7
3.噂の伝播者
李譔の静かな、そして奇妙な戦いが開始される。
李譔が練り上げた秘薬や仕掛けを用い、屋敷内に「怪異」を現出させる。
だが、怪異を怪異として成立させるには、事前の周到な「筋書き」が必要不可欠だ。
すなわち、流言による土壌の整備である。
その夜。学問所近くにある、学生御用達の質素な飯屋。
店の隅で、二人の青年が声を潜めていた。潁川の才子、辛評と辛毗の兄弟である。
彼らの表情は、出された麦粥のように渋い。
「兄上、先日の処刑……どう思われますか」
辛毗が、周囲を憚るように声を落とす。
「明白な扇動だ。民衆の感情を煽り、罪の有無ではなく憎悪で人を裁いた。不満を逸らすには有効な手だが、あれは法の精神への冒涜に他ならない」
「ああ、虫酸が走る。督郵・賈仁。あのような男がのさばっているとは」
彼らは正義感が強く、潔癖な秀才であった。
ゆえに賈仁のやり口が許せなかったが、同時にたかが書生にすぎぬ己らの無力さを呪ってもいた。
「ねえ」
不意に背後から声をかけられる。
振り返ると、そこにはボサボサ髪の痩せた男――李譔が立っていた。
不気味な笑みを浮かべ、二人の卓に断りもなく座り込む。
「き、欽仲(李譔)か。驚かせるな」
「聞いたよ、君たちの会話」
李譔は、細い指で卓上の豆をつまみながら言った。
「柳安はね、不正を告発しようとした義士だったのさ。賈仁が裏で賊と通じている証拠を掴んで、消されたんだよ」
「なんと!」
辛毗が憤激して机を叩いた。
「それが事実なら、賈仁こそ万死に値する!」
「でも、証拠は握りつぶされた。法では裁けない……」
李譔は二人の顔を覗き込んだ。その瞳は、楽しんでいるようにも、彼らを試しているようにも見えた。
「ねえ、二人とも。その話を噂として広めてくれないかな。志の高い君たちが声を上げれば、皆が信じる。……これは、君たちが天下の理を正す端緒になるかもしれないよ」
「志の高い」「天下の理を正す」という甘美な響きに、辛兄弟の瞳に熱が宿った。
「……なるほど。民草の声で悪を包囲するわけか。やりましょう兄上。これぞ文人の戦いです!」
彼らは即座に乗ってきた。もちろん、その流言が数日後に決行される暗殺計画の援護射撃であることを、彼らは露ほども知らない。李譔は暗がりで、その口角を吊り上げた。
翌朝。
朝霧が立ち込める市場に、辛評と辛毗は立っていた。
気合を入れ、一番の晴れ着を纏っている。
「遅いな、李譔のやつ。怖気づいたか」
その時であった。
霧の向こうから、一人の少女が歩いてきた。
上等な絹の衣を纏い、顔を白い布で半分隠している。
だが、その切れ長の瞳と白磁のような肌は、隠しきれない気品を漂わせていた。
辛兄弟は見惚れて道を空けた。
「……美しい。どこの名家の姫君だ?」
少女は兄弟の前で足を止め、扇子で口元を隠しながら、聞き覚えのある少し鼻にかかった声で言った。
「さあ、参りましょう。辛家の勇士による、世直しの始まりです」
二人は石化する。
少女は扇子を下げ、不敵に笑う。
「ボクだよ、李譔さ。……この方が目立つだろ?」
「……は?」「はい?」
令嬢のごとき優雅な仕草で袖を翻す。
日頃、亀の甲羅に向かって呟いている姿との落差に、兄弟の脳は理解を拒絶した。
「り、李譔……だと!?き、貴様……やはり妖怪の類か!」
「失礼だなあ。これは演出だよ。男が噂話をするより、可憐な令嬢が涙ながらに訴えた方が、民衆の心には深く刺さるのさ。さあ始めようか。君たちの弁舌と、ボクの演技。最高の舞台にしよう」
その日、市場は異様な熱気に包まれた。
「賈仁の屋敷で殺された侍女の妹」を名乗る美少女の告白。
そして、それを義憤に燃えて解説する辛兄弟の演説。その相乗効果は凄まじく、夕刻には「賈仁の屋敷は呪われている」という流言が、動かしがたい事実として街中に定着していた。
4.隠微なる算術
決行の前々日、深夜。水鏡塾の外れにある廃屋。
そこは李譔が占拠している、異臭漂う実験室であった。
「……ふふふ。いい色だ。冥府の釜の底も、このような色をしているのかな」
甕の中では、ドロリとした液体が青白い炎を上げている。
暖かみなど微塵もない、不気味な青だ。
「気味の悪い野郎だ。何だ、その色は」
鼻をつまんで入ってきた徐福が顔をしかめた。後ろには向朗もいる。
李譔は頬のこけた顔を歪めて笑う。
「硫黄と硝石、それに、ある鉱石の粉末を混ぜたのさ。西域の術師が使う秘伝の調合だよ。水に濡れても消えず、骨まで焦がす」
「そんな手品で、屈強な兵士が怯えるのか?」
徐福が口を挟んだ。彼は李譔の書き記した算式を、真剣な眼差しで検分している。
「怯えさせるんじゃない。思考を停滞させるんだよ、徐福。人間は己の理を超える現象を見ると、意識の処理能力が限界に達し、一瞬の虚脱状態に陥る。幽霊だ、祟りだ、と勝手な解釈をして混乱するその刹那の隙こそが、君が侵入するための命綱になるんだ」
向朗は李譔に頷いた。
「欽仲(李譔)。いいよ……派手にやってくれ」
流言の下地は整った。その夜から、李譔による実力行使が始まった。深夜の巡回をする賈仁の兵たちは、昼間の噂を耳にしており、心ここにあらずといった風情であった。
「おい、聞いたか?古井戸の近く……」「やめろ。縁起でもない」
ヒュォォォォ……。風もないのに、庭の茂みから腹に響くような唸り声が聞こえてきた。李譔が仕掛けた、微風でも人のうめき声を出す特殊な風車である。
「な、なんだ今の音は!?」兵たちが松明を掲げた、その時。庭の暗がり、古井戸の周りに、ボッ、ボッ、と青白い火の玉が浮かび上がった。
例の「青燐火」だ。湿った夜気の中でゆらゆらと踊るその火は、死者の魂が彷徨っているようにしか見えなかった。
「で、出たぁぁぁ!!」新兵が腰を抜かして悲鳴を上げた。「柳安だ!柳安の怨霊が出たぞ!」
屋敷は大騒ぎとなり、賈仁も寝間着姿で飛び出してきた。
「騒々しい!何事だ!」
「幽霊です!青い火が!」
賈仁が怒鳴り散らす。
「馬鹿者、悪戯だ!犯人を捕まえろ!」
だが、兵たちが捜索しても、青い火は近づけば消え、唸り声の正体も見つからない。
見えない敵への恐怖は、着実に屋敷全体の士気を削り取っていった。




