第7話 夜に嗤(わら)う 者 2/7
2.秩序のため、毒のため
水鏡塾の回廊を、陳羣は静かな足取りで歩いていた。
その視線は常に正しく、乱れがない。だが、その瞳の奥には、陽翟を覆う腐敗への、凍てつくような嫌悪が沈んでいた。
(……賈仁。あの男は、法という聖域に巣食う蛆虫だ)
法を司る者として、本来なら法の手続きによってあの男を断罪すべきである。
だが、今の帝国に、それを成し遂げるだけの清流は残っていない。監視機関である督郵自らが腐敗している以上、法は死んだも同然であった。
ふと、物陰でひそひそと策を練る向朗たちの気配を、陳羣は鋭敏に感じ取った。
(向朗、徐福、郭嘉。……青臭い正義感と、制御不能の暴力、そしてそれらを煽る奇才か。実に不愉快な組み合わせだ。彼らがやろうとしているのは、秩序の破壊であり、ただの私刑に過ぎない)
陳羣にとって、彼らもまた法を乱す異物であった。だが、今の盤面を整理するためには、毒を以て毒を制する必要がある。
(……賈仁という名の巨大な綻びを直すには、もはや法の針は届かない。ならば、あの狼どもの牙を使わせてもらうまでだ)
陳羣は、自らの袖に忍ばせていた一巻の竹簡を指先でなぞった。それは、郡の役人として密かに入手した、賈仁の「未公開の公務予定表」であった。
(私が彼らに手を貸すことはない。ましてや、暴力を肯定することなど万に一つもない。……だが、そこに『落ちていた』情報を彼らがどう使おうと、それは私の関知するところではない)
陳羣は、向朗が必ず整理に訪れる太守府の文書庫の机の隅に、その竹簡を無造作に置いた。まるで、誰かが置き忘れた塵であるかのように。
「……汚れたものは、汚れた手で片付けさせるのが、最も効率的な処理だろう」
陳羣は自らに言い聞かせるように呟くと、一度も振り返ることなく、静寂の中へと消えていった。
その後。何食わぬ顔をしていつものように向朗が太守府の文書庫の傭書向かう。
「……おや、これは」
散乱する竹簡の山、そのわずかな隙間に、覚えのない竹簡。それは、郡の内部の者でなければ決して手にできぬはずの公務日程の草案であった。
(……繋がった。すべての変数が、一点に収束していく)
三日後の亥の刻。賈仁が密使を招くために、あえて屋敷の裏側に生じさせる警備の空白。
頭の中でバラバラに浮遊していた数多の計算式が、重力に導かれるように音を立てて組み上がり、一つの答えを導き出した。
(葛陂の賊は、この時間に屋敷に入るのか)
興奮が指先から全身へと伝播し、竹簡を握る手が激しく震える。だが、その熱が頂点に達した瞬間、心臓の奥で氷のような冷たさが弾けた。
(……ん。なんでこれが、これほど都合よくここにある?)
書庫の整理は私が一手に引き受けている。昨夜まで、ここにこれほど重要な機密が紛れ込む余地などなかったはずだ。絶望的な状況を打破するための解答が、あつらえたようなタイミングで、私の手の届く場所に落ちていた。
偶然か?否、あり得ない。
(……誘導されているのか?)
背筋を冷たい汗が伝う。
この情報の裏に、私以外の策士がいる。
向朗という駒を特定の盤面へと追い詰め、賈仁という標的へ突き動かそうとする、何者かの冷徹な意志。その得体の知れない巨大な意図に気づいた瞬間、底知れぬ恐怖が胃を締め上げた。
だが、私はその竹簡を、砕けよと言わんばかりに強く握りしめた。
(いいだろう。何処の誰の差し金かは知らないけど……この毒を喰らわずして、あの豚を屠ることはできないんだ)
他者に操られる屈辱よりも、不合理な計算式を放置する不快感が勝った。たった今、誰かの描いた絵図面の上での踊りであろうとも、賈仁の息の根を止めるのは、僕たちだ。
(……その誘導、その思考ごともらうよ。)
向朗は竹簡を懐に深く隠し、暗い書庫を後にした。その瞳には、恐怖を飲み込み、自らもまた怪物になろうとする決意が宿っていた。




