第6話 剣客と神算、そして奇策と青燐 4/4
5.青燐の幻影、嗤う道化師
郭嘉との間に「共犯の契約」が結ばれた、その直後のことだった。
水鏡塾の書庫にある隠し部屋。興奮と不安がまだ冷めやらぬ中、扉が控えめに、しかし執拗にノックされた。
コン、コン、コン……。
規則的だが、どこか躊躇いがちな音だ。
徐福が瞬時に反応し、剣の柄に手をかけて扉に近づいた。
「誰だ」
「あ、あの……僕だよ。李譔だ」
徐福が警戒しつつ扉を少し開けると、そこには小柄で猫背の学生、李譔が立っていた。
彼は普段から、誰も読まないような古い技術書や怪しげな方術書を読み漁り、独り言を呟いている変わり者として知られている。
李譔は部屋の中の異様な殺気に縮み上がりながら、それでも部屋に入ろうと体を滑り込ませた。
「な、何の用だ。俺たちは今、取り込み中だ」
徐福が追い返そうとするが、李譔は必死に食い下がった。
「き、聞こえちゃったんだ……。賈仁を……やるんだよね?」
室内が凍りついた。向朗の顔から血の気が引く。
聞かれた。計画が漏れた。
徐福の目に険しい光が宿る。口封じが必要か――そう判断しかけた瞬間、李譔は震える声で叫んだ。
「ぼ、僕にも……手伝わせてよ!柳安君のこと……許せないんだ!」
その言葉に、殺気が霧散し、困惑が広がった。
向朗は眼鏡の位置を直し、李譔を見つめた。
「手伝う?気持ちは嬉しいが、これは遊びじゃない。君のような腕力のない人間が関わっていいことじゃないんだ」
「そうだよ。家に帰って亀の甲羅でも磨いてな」
徐福も冷たく突き放す。
だが、李譔は引き下がらなかった。彼はオドオドとした態度を一変させ、早口でまくし立て始めた。
「郭嘉君の策……『潜入』だよね。盗み聞きしてごめん。でも、まだ足りない。成功確率は低いよ」
「なんだと?」
「賈仁は臆病だ。宴会で外部の人間を入れるとしても、監視の目は厳しい。……ただ紛れ込むだけじゃ、怪しまれて終わりだ。彼らの意識を、僕たち以外に向けさせなきゃ」
「意識を?」
「そう。騒ぎを起こすなら、『別の騒ぎ』も起こさないとね」
李譔の瞳が、奇妙な光を帯びていた。それは怯えではなく、自分の専門分野を語る職人の目だった。
6.狐火の奇術
李譔は卓上の図面を指差した。
「賈仁の屋敷には……出るんだよ。怨霊が」
「はあ?」
徐福が呆れた声を上げた。
「何言ってんだ。そんな非科学的なこと。俺たちがやろうとしてるのは、現実の暗殺だぞ」
「ぐふふ……」
李譔は不気味に笑った。
「計画だよ、徐福君。屋敷の古井戸には、無実の罪で殺された柳安の霊が出る。そして庭の土の下には、口封じに殺された侍女たちが埋められている……という噂を流すんだ」
向朗は首を振った。
「噂を流してどうする。そんな子供騙しの怪談、誰も信じないし、屈強な警備兵が怖がって逃げ出すとも思えない。無駄な労力だ」
李譔は人差し指をチッチッチと振った。
「信じさせる?違うよ、向朗君。……『何かある』と意識を向けさせるんだ」
その瞬間、李譔が懐から何かを取り出し、右手で軽く放り投げた。
ボッ!
暗い室内に、突如として青白い炎が出現した。
それはゆらゆらと空中で揺らめき、まるで生きているかのように漂った。
「うわっ!?」「火だ!」
向朗、徐福、石韜、孟建。そして後ろで寝転んでいた郭嘉までもが、その不可思議な現象に目を奪われた。
美しいような、おぞましいような、冥府の青。
数秒後、炎はパッと掻き消えた。
「……な、なんだ今のは」
徐福が剣に手をかけたまま問う。
李譔は「ぐふふ」と小さく笑い、今度は左手を掲げた。
「ほら。……屋敷に忍び込めた。そゆこと」
全員が息を呑んだ。
李譔の左手には、いつの間にか卓上にあったはずの「賈仁屋敷の重要図面」が握られていたのだ。
彼が図面に手を伸ばした瞬間を、誰も見ていなかった。
全員が、右手の「青い炎」に釘付けになっていたからだ。
パン、パン、パン。
乾いた拍手が響いた。郭嘉が、腹を抱えて笑っている。
「ハハハ!面白い!これだよ、これ!これが策ってやつだ。『視線誘導』か!」
李譔は鼻を鳴らし、図面を卓に戻した。
「人間はね、得体の知れないものを見ると、視野が極端に狭くなるんだ。……警備兵が『お化け』を怖がって暗闇を凝視している間、君たちは堂々と『明かりの下』を歩ける。そういう理屈さ」
向朗は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
この男、ただの変人ではない。人の認知の穴を突く、別の意味での天才だ。
「……分かった。採用だ、李譔。君の『怪奇』も、僕たちの計算式に組み込もう」
7.三日後の決算
夜明けの光が、書庫の埃の中に鋭い筋を引いた。
もはや、そこにいたのは「水鏡塾の学生」ではなかった。
友の無念をその身に刻んだ者、数字の歪みを許せぬ者、法の限界を知った者、そして、その危うい熱狂を愛でようとする者。
目的も、動機も、胸に秘めた想いも六人六様。
だが、彼らの視線の先にあるのは、ただ一点。陽翟の街を病ませる、賈仁という名の「不条理」であった。
「……三日後だ」
徐福が、鞘に納めた剣の重みを確かめるように呟いた。
「三日後、賈仁が宴を開くその夜、すべてを終わらせる。……柳安に、良い報告ができるようにな」
向朗は、算木を丁寧に袋に収めた。
「……三日。それまでに、すべての不確定要素を計算から排除する。一分の狂いもない、完璧な『死の算譜』に仕上げてみせるよ」
向朗の横顔は、もはや書生のそれではない。不正な数値を一掃しようとする、峻烈な監査官の如き厳しさに満ちていた。
「くくっ、期待しているよ」
郭嘉は、梯子に腰掛けたまま、瓢箪を振った。
「義に、理に、法に、知に、怪。……これに僕の『興』が加われば、どんな名軍師の布陣も形無しだ。三日後、この腐った街にどんな風が吹くのか、今からぞくぞくするねぇ」
郭嘉が瓢箪をあおり、不敵に笑う。その笑みは、共犯者たちの決意をより深く、暗い深淵へと誘うかのようだった。
窓の外では、陽翟の街が目覚めようとしていた。何も知らぬ民衆が歩き出し、昨日と同じ不条理な一日が始まる。だが、その水面下では、六人の若き才気と狂気が、歴史の歯車を強引に噛み合わせようとしていた。
三日の猶予。それは、ある者にとっては復讐の準備期間であり、ある者にとっては論理の完成へのカウントダウンであり、ある者にとっては、稀代の道化師が仕掛ける壮大な「遊び」への幕間に過ぎない。
蝋燭が、最後の一振りを残して静かに消えた。立ち上る一筋の煙が、六人の影を繋ぐように揺らめき、そして朝風に消えた。
三日後。陽翟の夜は、青い燐光と、冷徹な理によって、塗り替えられる。復讐の、そして「完全犯罪」の幕が、静かに上がろうとしていた。




