第6話 剣客と神算、そして奇策と青燐 2/4
2.招かれざる「遊び人」
「……あーあ。うるさくて眠れないねぇ」
不意に、書庫の暗がりから気怠げな声が降ってきた。
四人は弾かれたように振り返り、徐庶は即座に剣の柄に手をかけた。
「誰だ!」
書棚の最上段、積み上げられた竹簡の山の上で、影が動いた。
ゆらり、と起き上がったのは、ほっそりとした体躯の若者だった。着崩した衣服、乱れた髪。そして何より、この神聖な学問所には似つかわしくない、濃厚な酒の匂いを漂わせている。
郭嘉、字は奉孝。
水鏡塾きっての「問題児」であり、その奔放すぎる言動から、多くの学生に敬遠されている男だった。
「……郭嘉か。いつからそこにいた」
石韜が警戒心を露わにして問う。
郭嘉は大きな欠伸をし、梯子を使わずに軽やかに飛び降りてきた。着地の足音すらしない。
「いつから?昼過ぎからさ。講義が退屈すぎてね、ここで惰眠を貪っていたんだが……君たちの湿っぽいお喋りのせいで目が覚めちまった」
郭嘉は、悪びれる様子もなく徐庶たちの輪に近づき、卓上の図面を覗き込んだ。
「……賈仁の屋敷か。なるほど、熱心なことだ。復讐ごっこの作戦会議かい?」
「ごっこだと……?」
徐庶のこめかみに青筋が浮かぶ。
「俺たちは遊びでやってるんじゃねえ。柳安の無念を晴らすために、命を懸けてるんだ!」
「命を懸ける?」
郭嘉は鼻で笑った。その瞳は、酔っているようでいて、氷のように冷たく透き通っている。
「無駄死にするの間違いだろう?さっきの計算は正解だよ、向朗くん。君たちのその『力技』じゃ、賈仁の髪の毛一本にも触れられない。……蛮勇は勇気じゃない。ただの自殺願望だ」
「てめえっ!」
激昂した徐庶が郭嘉の胸ぐらを掴もうとする。
だが、郭嘉はまるで柳の枝が風に揺れるように、半歩下がってその手をかわした。
「怒るなよ。図星を突かれて怒るのは、図星だと認めている証拠だぜ」
郭嘉は瓢箪を取り出し、一口あおった。
「僕が言いたいのはね、君たちの作戦が『真面目すぎる』ってことさ。……正面から壁を登る?犬と戦う?馬鹿げてる。そんなのは、脳みそのない蛮族のやることだ」
「……ならば、貴様には何か策があると言うのか」
向朗が、徐庶を制しながら問いかけた。
向朗は感じ取っていた。この放蕩児の言葉の端々に、自分たちにはない異質な視点が含まれていることを。
郭嘉はニヤリと笑った。それは、復讐者の悲壮な笑みではなく、難解なパズルを前にした子供のような、無邪気で残酷な笑みだった。
「この要塞を落とすのに、兵隊なんて要らない。壁を越える必要すらない」
郭嘉の細い指が、図面の「正門」を弾いた。
「必要なのは『鍵』だ。……内側から門を開ける手があれば、壁も犬も兵士も、ただの飾りになる」
「鍵……?馬鹿な。内通者など作れるはずがない」
孟建が反論する。
「賈仁の配下は、金で厚遇されている。恐怖政治も徹底しており、裏切り者は一族郎党処刑される。危険を冒してまで我々に協力する者などいない」
「そうかな?君たちは『帳簿』しか見ていないから、そう思うんだよ」
郭嘉は、書棚に背中を預け、愉快そうに言った。
「人間ってのはね、数字じゃない。欲望と不満の塊だ。……どんなに堅牢な城壁も、人の心までは守れない」
3.郭嘉の情報網
「……情報源はどこだ」
石韜が鋭く問うた。
「お前は講義にも出ず、一日中遊び歩いているはずだ。どこで賈仁の内部事情を知った?」
「遊び歩いているからこそ、知ってるのさ」
郭嘉は、講義よりもずっと楽しそうに語り始めた。
「花街だよ。……陽翟の遊郭、酒場、賭博場。そこは情報の掃き溜めであり、宝の山だ」
郭嘉の言葉に、生真面目な四人は顔を見合わせた。
「賈仁の屋敷に出入りする商人、非番の兵士、料理人……彼らは皆、昼間は主人の前で忠実な犬を演じている。だが、夜になり、酒と女をあてがわれれば、どうなると思う?」
郭嘉は、あたかもその場にいるかのように、声色を変えて演じて見せた。
「『うちの主人はケチで困る』『隊長は厳しすぎて息が詰まる』『最近、屋敷の地下に妙な箱が運び込まれた』……。彼らの口は、酒という潤滑油があれば、驚くほど軽くなる」
郭嘉は懐から一枚の汚れた紙切れを取り出し、卓上に広げた。そこには、向朗たちの図面にはない、生々しい「人間関係」が書き殴られていた。
「金で繋がった関係だからこそ、脆いんだ。……僕は彼らの『愚痴』と『欲望』をたっぷり聞いている。例えば、門番の張は賭博で借金まみれだ。下女の春蘭は、賈仁に手籠めにされそうになって恨んでいる」
「……その者たちを買収しろと言うのか?」
向朗が問う。
「いいや。彼らごとき小物じゃ、門を開ける権限がない。それに、金で動く奴は、より高い金で裏切る」
郭嘉は、紙切れの真ん中に書かれた名前を指差した。
「狙い目はここだ。……数日後、賈仁は大規模な宴会を開く。名目は地元の有力者との親睦だが、裏では賊の首領たちとの手打ち式だ」
「宴会……。それがどうした」
「宴会には、大量の酒と食料が必要だ。だが、賈仁の屋敷の料理人だけじゃ手が回らない。……そこで奴らは、外部の仕出し業者と、臨時の料理人を雇い入れる」
郭嘉の目が、悪戯っぽく輝いた。
「花街の顔馴染みの料亭が、その仕事を請け負った。……人手が足りなくて困っているそうだ。もし、気の利く若者たちが『手伝い』として紛れ込んでくれたら、大助かりだと言っていたよ」
空気が変わった。
向朗の頭の中で、今まで「不可能」と弾き返されていた計算式が、急速に組み変わり始めた。
壁を越えるのではない。門から、堂々と入る。
それも、敵が自ら招き入れる形で。




