第5話法の死と修羅の目覚め 3/3
4.修羅の目覚め
水鏡塾の門を辞し、太守府からの帰り道。四人の若者は、死人のような足取りで歩いていた。
足元の泥が鉛のように重い。
だが、それ以上に彼らの心にのしかかっていたのは、逃れようのない徒労感であった。
孟建が、乾いた笑い声を漏らした。
「……滑稽だな、僕たちは。天下国家を論じ、聖人の教えを学び、何千という文字を覚えた。だというのに、たった一人の友も、たった一つの悪事も、正すことができないとは」
彼は天を仰いだ。
その目には、やり場のない涙が溜まっている。
「僕たちが学んできた『学問』とは何だ。無力な自分を慰めるための、ただの玩具に過ぎなかったのか」
「よせ、孟建」
石韜が、重い口を開いた。
彼もまた、拳を握りしめすぎて爪が掌に食い込んでいる。
「これが『治世』だ。水鏡先生も間違ってはいない。わかっていらっしゃる。だが法とは本来、国家という巨大な器を維持するためのものであり、個人の怨恨を晴らすための道具ではないのだ」
「……じゃあ、柳安の無念は?あいつの流した血は、誰が拭ってくれるんだ」
徐福が呻くように問う。
石韜は足を止め、徐福の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は冷徹に見えて、奥底には深い悲哀が沈んでいた。
「誰も拭わない。……歴史の闇に、ただの『数字』として消えるだけだ。それが、力なき者が受け入れねばならない現実だ」
「……そんな現実、クソ食らえだ」徐福は吐き捨てる。
最後尾を黙々と歩く向朗の頭の中では、まだ計算が続いていた。
法的な手続き、太守への請願、証拠の保全。
あらゆる可能性を考え、結果はすべて『破綻』として弾き返される。
(……詰んでいる。この盤面上には、正解にたどり着かない)
向朗は唇を噛んだ。事務屋として、計数に生きる者として、これほど不快なことはない。
明らかな『綻び』が放置され、それが正しい数値としてまかり通る世界。
ふと、徐福が足を止めた。そこは、朝に柳安が処刑された城門前であった。
夕暮れの中、門の上には柳安の首が晒されている。
雨風に打たれ、泥にまみれたその顔は、もはや生前の優しさを留めてはいなかった。
仕事帰りの民衆が通りかかる。彼らは晒された首に向かって、汚物を見るような目で石や泥を投げつけていた。
「こいつのせいで俺たちの食い扶持が減ったんだ!」
「地獄へ落ちろ、売国奴!」
「賊の手先め、いい気味だ!」
彼らは何も知らない。この首の主が、自分たちのために戦い、自分たちのために口を閉ざして死んだことを。
その時、通りの向こうから豪奢な馬車がやってきた。護衛を引き連れた、督郵・賈仁だ。民衆の態度は一変した。彼らは卑屈な笑みを浮かべ、地面に額をこすりつけるようにして平伏した。
「おお、賈仁様!」「我らの守護神!」「あなた様のおかげで、枕を高くして眠れます!」
賈仁は馬車の窓から顔を出した。彼は優雅に手を振り、それから門の上に晒された柳安の首を一瞥した。その唇が歪む。嘲り。侮蔑。そして、完全犯罪を成し遂げた勝者の、底知れぬ愉悦。彼は鼻で笑うと、再び馬車の中へと消えていった。
徐福は、その光景を呆然と見ていた。怒りではない。悲しみでもない。
彼の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
幼い頃から信じてきた、社会への漠然とした信頼。正しいことをすれば報われるという道徳。
『義』の文字に込めた、人間としての誇り。法も、役人も、守るべき民衆さえも。誰も真実を見ていない。ここは、正直者が馬鹿を見て、悪党が肥え太る地獄だ。
(ああ、そうか。向朗の言う通りだ)
徐福は虚空を見つめた。その瞳から、生気が、感情が、急速に色を失っていく。
(計算が合わない。この世の算式は、最初から狂っている。……欠陥品なのだ)
(なら、俺が無理やりにでも『答え』を書き込むしかない)
ポツリ、と雨が落ちてきた。雨脚はすぐに強まり、冷たい水が徐福の頬にこびりついた泥を洗い流していく。徐福は向朗の方を振り返った。その顔は、感情の一切を削ぎ落とした能面のように静かであった。
人は、人でなくなる瞬間――修羅として産声を上げたのだ。
「……向朗。計算では真実にはたどり着かない」
低く、冷たい声だった。向朗は雨に打たれながら、自分の無力さを噛み締めた。
「……ああ。僕の負けだ。理では、悪意に勝てなかった」
「だから、ここからは俺のやり方でやる。……止めないでくれよ」
徐福が歩き出す。その背中には、自らの手を血で汚すことを決めた断固たる意思だけが宿っていた。
5.共犯の誓い
石韜と孟建は、言葉を失って立ち尽くしていた。
遠ざかる徐福の向かう先は、賈仁の屋敷か、あるいは自らの死に場所か。
向朗は、その背中を見つめた。止めるべきだ。行けば彼は殺人者になり、未来を失う。それが合理的な判断だ。
だが。
(……このまま『計算違い』を見過ごしたまま、死ねるか?)
向朗の胸の内で、事務屋としての矜持が軋みを上げた。
柳安は無実だった。賈仁は真っ黒だ。
なのに、結果は真逆に出ている。悍ましい不正解。
こんな出鱈目な解答を見過ごすことなど、算術を愛する者として許しがたい。
「……ふざけるな」
向朗の足は、合理的判断とは逆の方向へ動いた。
理性が、感情に追い越されたのではない。
彼の理性が、「この不条理を正さねばならない」と咆哮したのだ。
「待てよ!」
向朗は叫び、雨の中を走った。泥水を跳ね上げ、徐福を追う。
「待てと言っているだろ!一人で行かせるか、馬鹿野郎!」
徐福が足を止める。振り返ったその目は、すでに死人のそれであった。
「……来るな。俺はこれから、お前の嫌いな『暴力』になる。お前のような綺麗な場所にいるべき人間は、関わっちゃいけねえんだ」
「君の剣だけじゃ届かない!賈仁の屋敷には私兵が五十人、守備犬が十頭いる。巡回の刻限も複雑だ。正面から行けば十三秒で死ぬぞ!」
「知ったことか!刺し違えてでも殺す!」
「死んだら何もできないだろうが!……だから、正解が必要なんだよ!」
向朗は息を切らし、濡れた髪をかき上げた。知性を宿した瞳の奥には、狂気じみた冷徹な光が灯っていた。
それは軍師の覇気ではない。数字を合わせるためには手段を選ばない、冷酷な事務屋の執念であった。
「法が裁かないなら、僕たちが裁く。あの豚が笑ったまま終わるなんて、僕の美学が許さないんだ。貸し借りは、きっちり精算させてもらうぞ」
徐福は目を見開いた。いつも「面倒だ」と逃げていた事務屋が、今は自分と同じ地獄を見つめている。
「……死ぬぞ。ただの学徒が、大罪人になるんだぞ」
「知っているよ!ああ、本当に面倒だ。……だが、放っておけないんだよ、この計算間違いだけは!」
向朗は懐から、太守府の書庫から密かに写しておいた屋敷の図面を取り出した。
「僕は英雄じゃない。ただの事務屋だ。だから、事務屋らしく処理を完遂する。やろう、徐福。法も権力も全部出し抜く、『完全犯罪』の計算を組んでやる!」
雨音が激しくなる。遠くで雷鳴が轟いた。石韜と孟建は、雨の中で向き合う二人をただ見ていた。彼らの間には、他者が入り込めない共犯の磁場が生まれていた。
徐福は、初めて心の底から笑った気がした。悲しく、残酷で、しかし何よりも頼もしい策士の前で。「……上等だ。地獄の底まで、計算頼むぜ、軍師」
「……僕は、軍師じゃない。でも完璧に計算してみせるさ」
二人の若者は、雨の降る路地裏へと消えていった。
法が死んだ夜。
代わって生まれたのは、凄絶な復讐の炎のみを宿す剣客と、その道を照らす冷徹な神算の知略家の顔であった。
「落ちこぼれ剣客と神算の事務屋」やっとタイトル回収です笑




