第4話 巨悪の兵站、蟷螂の斧4/4
5.間に合わなかった二人
深夜。太守府の正門前。息を切らして走ってきた徐福は、門番の交代の隙を狙って中へ入ろうとしていた。その時、門の脇の通用口から、一人の男が出てきた。向朗だ。彼は顔色を変えて、足早に歩き出そうとしていた。
「おい向朗!」
徐福が声をかけると、向朗はビクリと肩を震わせ、徐福を見て目を見開いた。
「……徐福か。なぜここにいる?」
「柳安を知らねえか?宿舎にもいねえ、倉庫にもいねえんだ!」
向朗は痛ましげに顔を歪めた。
「……嫌な予感が的中したらしい。僕の計算だと、今夜あたりに『証拠隠滅』の動きがあるはずだった」「どういうことだ!」
「賈仁だよ。奴は尻尾を出した者を消す気だ。……遅かったか」
その時、太守府の奥から騒がしい声と、松明の明かりが近づいてきた。ジャリ、ジャリ、という足音。鎖を引きずる音。門から出てきたのは、後ろ手に縛り上げられ、口を封じられた柳安と、それを囲む賈仁の私兵たちだった。
「柳安!!」
徐福の絶叫が夜空を引き裂いた。
柳安の顔は殴打され、無惨に腫れ上がっている。
だが、徐福の声を聞くと、彼は必死に首を振った。『来るな』『逃げろ』その目はそう訴えていた。
徐福は理性を失い、剣の柄に手をかけて飛び出そうとした。だが、その体を横から強烈な力で抑え込む者がいた。向朗だ。細身の彼は、全体重をかけて徐福の腕にしがみついていた。
「放せ!殺されるぞ!」
「待て!今行けば、君も『共犯者』にされる!相手は官軍だぞ!」
「関係ねえ!あいつは無実だ!何もしてねえ!」
「分かってる!分かってるから止まれ!」
向朗の叫び声は悲痛だった。騒ぎを聞きつけ、近隣の住民たちが集まってくる。賈仁は、その野次馬たちに向かって、朗々と演説を始めた。その声は、舞台俳優のようによく通った。
「市民諸君!夜分にすまない!ついに我々の兵糧を盗み、賊に流していた裏切り者を捕らえた!」
松明の光が、柳安の惨めな姿を照らし出す。賈仁は懐から、先ほどの偽造手紙を高々と掲げた。「この男こそ、諸悪の根源である!黄巾の賊と通じ、我々の血税を横流ししていたのだ!この手紙が動かぬ証拠だ!」
どよめきが広がる。
「あいつか!」
「俺たちの麦を盗んだのは!」
民衆の目は、一瞬で憎悪に染まった。飢えと不安に苦しむ彼らにとって、「裏切り者」は格好の捌け口だった。真実などどうでもよかった。
怒りをぶつける対象がいれば、それでよかったのだ。
「殺せ!」「売国奴め!」
誰かが石を投げた。それは柳安の額に当たり、血が流れた。柳安は呻き声を上げることもできず、ただ涙を流して耐えている。
徐福は、向朗を振りほどこうと暴れた。
だが、向朗も必死だった。爪が徐福の腕に食い込む。
「ここで君が暴れれば、柳安の罪は確定する!『賊の仲間が助けに来た』という既成事実を作らせるな!そうなれば、もう誰にも真実は証明できない!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!見てろってのか!」
「……法だ。明日、正式な取り調べがあるはずだ。そこで証拠を出して戦うしかない!」
徐福の動きが止まった。法。その言葉に、わずかな希望を託したのか、あるいは柳安の『来るな』という視線に射抜かれたのか。徐福は、血が出るほど唇を噛み締め、その場に崩れ落ちた。
6.沈黙の夜
深夜の寮室。外は不気味なほどの静寂に包まれていたが、室内の空気は張り詰め、今にも破裂しそうだった。
卓の上には、向朗が弾き出した計算書と、柳安が命がけで作成した告発文の下書き(写し)が置かれている。それは、督郵・賈仁による国家規模の横領と、賊との内通を暴く決定的な証拠だった。
だが、誰一人として、それを手に取ろうとはしなかった。そこにあるのは「真実」だが、「勝機」ではなかったからだ。
「……明日の朝、太守府で柳安への取り調べが行われる。表向きは在庫管理の不手際についての査問だが……十中八九、そこで彼に全ての罪を被せるつもりだ」
向朗の声は、乾ききっていた。計算は終わっている。
論理も完璧だ。だが、その先にある「解」が、どうしても導き出せない。
「告発するしかねえ!」徐福が卓を叩いた。
「この証拠を叩きつけてやるんだ!数字は嘘をつかねえんだろ!?これがあれば、あの悪党の首を取れるはずだ!」
「……誰が、誰にだ?」冷や水を浴びせるように、石韜が低く呟いた。彼は腕を組み、苦渋に満ちた顔で天井を仰いでいる。
「相手は督郵だぞ。郡内の不正を監察し、悪を糾弾するのが奴の仕事だ。つまり、この郡における『正義』の決定権は、奴が握っているんだ」
「だから何だ!奴自身がその悪党なんだぞ!」
「だから詰んでいるんだ。審判が犯人なんだぞ。俺たちが声を上げたところで、それは『正義の監察官に対する、無知な学生の誹謗中傷』として処理される。……捕まって終わりだ」
石韜の言葉は、冷酷な事実としてその場の空気を支配した。徐福は言葉を詰まらせ、歯ぎしりをした。
「た、太守・李旻様に直接ねじ込む!」
「会えるわけがない。太守への取次役こそが、他ならぬ督郵だ。訴状を出しても、太守の目に触れる前に賈仁の手で揉み消される」
「なら……水鏡先生だ!先生の名声なら……」
「……無理だよ」答えたのは、孟建だった。
彼もまた、絶望的な顔で首を振った。
「先生はあくまで民間人だ。行政権も捜査権も持っていない。もし先生が動けば、賈仁は『学者が政治に不当介入した』と騒ぎ立てるだろう。先生の名誉まで泥にまみれさせて、事態は悪化するだけだ」
「じゃあ、洛陽だ!都の官庁に……」
「ここから洛陽まで何日かかると思っている!明日の朝には、柳安は詰め腹を切らされるんだぞ!」
向朗が、悲鳴のような声を上げた。
物理的に間に合わない。制度的に届かない。
権力の中枢にいる者が腐っている時、外野にいる人間には手出しができない。それがこの国の「組織」だった。
沈黙が落ちた。窒息しそうな、重く、粘りつくような沈黙。
徐福は、震える拳を自分の膝に叩きつけた。血が滲むほどの強さで。
「……じゃあ、どうすれば!」
徐福の喉から、獣の唸り声のような、押し殺した憤りが漏れ出した。
「俺たちが『無冠』だからか?役職がないからか?たったそれだけのことで、人の命が見殺しにされるってのか!?」
徐福は立ち上がり、卓上の証拠書類を掴み上げた。
「柳安はな、毎日毎日、埃にまみれて働いてたんだ。国のため、正義のために、震えながらこれを書いたんだ!……それなのに、あいつの命は、あいつの覚悟は、役人のハンコ一つより軽いって言うのかよ!向朗。どうしたら!」
「……軽いんだよ」向朗は、感情を殺した声で言った。
目には涙が溜まっていた。
「悲しいけれど、今のこの腐った世の中では、権力を持たない者の正義なんて、道端の犬の遠吠えよりも軽いんだ」
向朗は、自分の無力さに打ち震えた。
どんなに賢くても、どんなに計算ができても、権限という「武器」を持たない自分たちは、社会という巨大な城壁の前では無力な赤子に過ぎない。
「……あまりにも、無力だ」孟建が顔を覆った。
「僕たちは天下国家を論じ、聖人の教えを学んできた。だが、たった一人の友人を、目の前の冤罪から救う手立てさえ持っていない。……これが、僕たちの現実か」
「蟷螂の斧、か」石韜が自嘲気味に吐き捨てた。
「カマキリが斧を振り上げても、暴走する戎車 (戦車)は止まらない。……俺たちがやろうとしているのは、そういうことだ。蟻が象に挑むようなものだ」
徐福は、ガタリと椅子を蹴倒した。
やり場のない怒りが、体の中で暴れ回っている。剣はある。腕もある。だが、この見えない「権力の壁」だけは、どうやっても斬れない。
「……くそっ、くそぉぉッ!!」
徐福は慟哭した。頭がいいとか、腕が立つとか、そんなものは何の役にも立たない。
友が殺されようとしているのに。
それが冤罪で、巨大な悪意による生贄だと分かっているのに。
指をくわえて見ていることしかできないのか。
向朗は、卓上の計算書を見つめたまま、動けなかった。
彼の脳内では、何度今後の展開について計算を繰り返しても、「柳安の死」という非情なる帰結 (バッドエンド)しか弾き出されない。
賢いからこそ、分かる。ここには、逆転の一手など存在しないことが。
「……ごめん」向朗は、誰にともなく呟いた。
「僕らに、もっと力があれば。……もっと大きな、理不尽なまでの『力』があれば……」
夜更けの鐘が、遠くで鳴り響いた。ゴーン、ゴーンと。それは、無力な若者たちへの断罪の音であり、友に迫る死への秒読み(カウントダウン)だった。
ろうそくの炎が尽きかけ、四人の影を頼りなく揺らしている。彼らの知恵も、勇気も、友情さえも。圧倒的な権力の闇の前では、ただ吹き消されるのを待つだけの、儚い灯火に過ぎなかった。




