第4話 巨悪の兵站、蟷螂の斧1/4
1.静かなる追跡
深夜の太守府。書庫の窓から差し込む月明かりだけが、静寂に包まれた室内を青白く照らし出していた。無数の竹簡が並ぶ棚の谷間で、向朗は一人、算木と格闘していた。パチリ、パチリ。乾いた音が、規則正しく響く。それは、見えない敵の輪郭をあぶり出すための、静かなる発砲音のようだった。
「……あり得ない。計算が合わない」
向朗は眉間に深い皺を刻み、手元の木札に記された数式を睨みつけた。彼が検証しているのは、過去三年間にわたる「葛陂の賊」による略奪被害と、太守府が計上した「討伐予算」の相関関係である。
葛陂の賊。黄巾の乱の生き残りである劉辟・何儀らが率いる武装集団は、推定三千人。彼らは湿地帯の自然要塞に立て籠もり、官軍の追討を逃れ続けているとされる。だが、向朗の頭脳が弾き出した「存続費用」は、公表されている数字と決定的な矛盾を示していた。
「兵三千を養うには、最低でも一日あたり五〇石の糧食が必要だ。年間で一万八千石。……だが、彼らが襲撃した村々からの略奪総量は、どんなに多く見積もってもその半分にも満たない」
向朗は、葛陂周辺の地図を脳裏に描いた。あの湿地帯に、大規模な農耕地はない。狩猟や漁労だけで三千の胃袋を満たすことも不可能だ。通常なら、彼らは半年とかからず飢餓で自壊するか、あるいは食糧を求めて玉砕覚悟で陽翟城へ攻め込んでくるはずだ。だが、現実はどうだ。彼らは痩せ細るどころか、勢力を維持し、時には新品の武器すら装備して現れるという報告がある。
「……算額を無視している。外部からの『供給』がない限り、この数式は成立しない」
向朗の手が止まる。外部からの供給。だが、誰が?賊に物資を売る闇商人はいるだろうが、三千人分の兵站を支えられるほどの規模を持つ商人は、この陽翟には数えるほどしかいない。そして彼らは皆、太守府の厳しい監視下にあるはずだ。
向朗は視線をずらし、別の竹簡の山――太守府の「出納帳簿」へと手を伸ばした。そこには、督郵・賈仁が承認した「討伐軍」への補給記録が記されている。
「討伐軍の出動回数、年間十二回。……多いな。だが、交戦記録は極端に少ない」
向朗の指が、記録の上を滑る。ここにある奇妙なパターンがあった。討伐軍が出動するたびに、大量の糧食と武器が「輸送中の事故」や「敵襲による放棄」、あるいは「行方不明」として損耗処理されているのだ。その場所は、決まって葛陂に近い山間部や、監視の目が届かない河川敷。
「……まさか」
向朗の背筋に、氷のような戦慄が走った。バラバラだった数字のピースが、恐ろしい絵図を描き出しながら嵌まっていく。
賊が村を襲う。民の恐怖を煽り、賈仁は「討伐」の名目で太守府から巨額の予算を引き出す。軍が動く。だが、彼らは戦わない。彼らは「輜重隊」として、大量の物資を賊の勢力圏まで運び、そこで「事故」に見せかけて物資を遺棄する。賊はそれを回収し、食いつなぐ。そしてまた、賈仁の合図で次の村を襲う――。
「……これは、『戦争』じゃない」
向朗は乾いた唇を舐めた。喉の奥から、吐き気がこみ上げてくる。
「これは、巨大な『物流機構』だ。……賈仁と賊は、敵対関係ではない。官民の血税を吸い上げて循環させる、完璧な『共犯関係』だ」
督郵・賈仁は、賊を討伐する気など最初からないのだ。なぜなら、賊がいなくなれば、彼が予算を中抜きする名目が消滅してしまうからだ。逆に、賊にとっても賈仁は命綱だ。彼がいなくなれば、正規の討伐軍に包囲され、干上がってしまう。
互いが互いを必要とし、そのための燃料として、無辜の民の命と財産が燃やされている。向朗が覗き込んだのは、単なる横領や汚職といったレベルの話ではなかった。賈仁が行っているのは、単なる横領ではない。郡内の不正を監察し、悪を取り締まる督郵という立場の人間が、郡の防衛機構・兵站機構そのものを乗っ取り、賊軍を飼い慣らすことで、半永久的に国家予算を吸い上げ続ける――「国家への反逆」にも等しい、巨大な循環構造だ。潁川一郡の問題ではない。漢王朝の根幹を腐らせる猛毒だ。
「……計算、完了」
向朗は算木を置いた。その指先は微かに震えていた。知ってしまった。この陽翟という街が、巨大な癌細胞に侵されていることを。いや、それどころではない。
向朗は、天井を見上げた。深く、あまりにも深い闇が、そこにあった。
「…………徐福はあの倉庫番を柳安といってたな。柳安は、この『深淵』の縁に立ってしまったのか」
倉庫番である柳安が見つけたのは、おそらく在庫の数字のズレや、横流しの現場といった「寄生虫の尻尾」に過ぎないだろう。だが、その尻尾を掴むということは、地中に眠る巨大な怪物を引きずり出すことと同義だ。柳安は不正を監察する立場の督郵・賈仁その人が、巨大な怪物そのものだとは気がついていないかも知れない。一人の誠実な労働者が、その正義感だけで告発するには、相手が大きすぎる。悪意が巨大すぎるのだ。
「柳安。君一人でどうにかできる問題ではないよ。これは……」
向朗は、誰もいない書庫で、うわ言のように呟いた。
「もちろん、僕一人でも無理だ。……相手は法を運用する督郵であり、その背後には武装した数千の賊軍がいる。僕がここで声を上げたところで、君と同じように握りつぶされ、闇に葬られて終わるだけだ」
向朗は、積み上げられた竹簡の山に寄りかかり、重いため息をついた。無力感が、鉛のように胃の腑に溜まっていく。
「ああ……面倒だ。本当に面倒だ」
計算は解けた。だが、解が出たからといって、解決策があるわけではない。正論も、法も、正義も、この圧倒的な「暴力装置」の前では、紙切れよりも軽い。この巨大なシステムを破壊するには、小手先の計算や、個人の勇気などでは到底足りないのだ。
「これだけの悪意を押し流すには……もっと大きな、『力』が必要なんだ」
向朗の脳裏に、ふと、あの無骨な男――徐福の顔と、その腰にある錆びついた剣がよぎった。だが、すぐに首を振って打ち消した。彼を巻き込めば、間違いなく死ぬ。この闇は、剣一本で切り裂けるほど薄くはない。
窓の外では、不吉な雲が月を覆い隠そうとしていた。それはまるで、これから始まる悲劇の幕開けを告げるかのように、世界を逃げ場のない憂鬱な闇へと塗り込めていった。
「……知りたくなかったな」
向朗は天井を仰いだ。この推論が正しければ、事態は深刻だ。一介の書生の手には余る。だが、このまま黙っていれば、柳安のような真面目な下級役人が、何も知らずに悪事の片棒を担がされ続けることになる。そして、いずれトカゲの尻尾として切り捨てられるだろう。
「告発するには、物証がいる。……あの倉庫番が告発する前に、何とかしないと」
向朗は焦燥に駆られ、再び地図に目を落とした。




