第3話 水鏡塾の異端児たち6/6
7.不穏な影
同時刻。督郵・賈仁の屋敷。
密室の闇の中で、ろうそくの炎が揺れていた。
部屋には、賈仁と、黒装束をまとった腹心の部下が一人。卓上には、太守府の正規の帳簿とは異なる、どす黒い取引を記した「裏帳簿」が広げられていた。
「……ほう。葛陂の連中、また要求を吊り上げてきたか」
賈仁は、酒を舐めながら裏帳簿を指でなぞった。
「劉辟に何儀。あの黄巾の残党ども、野盗に落ちぶれても食欲だけは一人前だな。官軍の横流し品で腹を満たすとは、いい度胸だ」
「はっ。奴ら、鉄と糧食がもっと必要だと申しております。『要求を呑まねば、陽翟周辺の村を焼く』と」
「ふん、焼かせればいい。治安が悪化すれば、太守府は『討伐予算』を組まざるを得なくなる。……その予算が、また私の懐に入り、奴らへの武器代に変わるのだ。……争いとは、なんと効率の良い錬金術だろうな?」
賈仁はクツクツと喉を鳴らして笑った。
黄巾の乱の残党である「葛陂の賊」を裏で操り、自作自演の討伐劇と横流しで私腹を肥やす。それがこの男の錬金術だった。だが、部下は表情を曇らせ、一枚の紙を差し出した。
「しかし旦那様。……その『錬金術』に、綻びが生じているようでございます」
「なんだ?」
「これを。……倉庫の管理をしている者の机から、押収してきました」
賈仁は紙を受け取り、目を通した。そこには、震える筆跡で、しかし驚くほど正確に、倉庫から消えた武器の数と、その搬出ルートの推測、そして賈仁の関与を疑う告発文の下書きが記されていた。
「……生意気な」
賈仁は、手元の紙を握り潰し、火鉢に投げ入れた。
紙が燃え上がり、一瞬だけ賈仁の顔を照らし出す。その顔からは、昼間の柔和な笑みは消え失せ、冷酷な獣の相貌が浮かび上がっていた。
「書いたのは誰だ?中央からの監察官か?それとも陳氏の間者か?」「いえ。……柳安という、しがない倉庫番です」
「柳安……?」
賈仁は呆気にとられ、次いで、顔を歪めて不快感を露わにした。それは、高価な衣に泥を跳ねられた時のような、純粋な嫌悪だった。
「倉庫番だと?……微禄の分際で。地を這う虫ケラの分際で、この私の絵図を読み解いたというのか?」
賈仁は舌打ちをした。最近、帳簿の数字を嗅ぎ回る鼠がいるという報告は受けていた。
だが、まさか身内の、それも取るに足らない下級役人だとは。
劉辟や何儀との取引は、露見すれば一族皆殺しにされるだけの大罪だ。それを、あろうことか「正義感」などという青臭い動機で暴こうとする者が、足元にいた。
「私の慈悲を無駄にしおって。……大人しく盲目のふりをしていれば、長生きできたものを」
賈仁の目に、どす黒い殺意が宿る。
放置すれば、いずれ太守の耳に入るかもしれない。たとえ証拠がなくとも、噂が立つだけで「取引」には邪魔だ。芽は、早いうちに摘まねばならない。それも、二度と誰も真似できないほど無惨な形で。
「処理しろ。……見せしめが必要だ」
賈仁が短く命じた。闇に控えていた部下が、低く答える。
「はっ。……どのような罪で?」
「『賊との内通』だ」賈仁は嘲るように言った。
「奴が我々の武器を盗み、葛陂の賊へ横流ししていたことにしろ。……正義感ぶった男が、実は一番の売国奴だった。民衆はそういう話が大好きだ」
「承知いたしました。証拠は……」
「今から奴の家に埋めてこい。横流しした武器と、葛陂の賊からの『礼状』をな」
賈仁は筆を取り、処刑命令書に印を押した。朱肉の赤が、まるで血のように紙に滲んでいく。
「例の『葛陂の客』との取引も近い。邪魔者は排除せねばな」
学問所で未来を夢見て筆を走らせる徐福。倉庫で国のために、友のために働き続ける柳安。そして、彼らを破滅させようとする巨大な悪意。
それぞれの夜が更けていく。若者たちがまだ知らぬ場所で、悲劇の歯車は音もなく、しかし確実に回転を始めていた。嵐はもう、すぐそこまで来ていた。




