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第三章 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪  作者: こくせんや
第三部 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪

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第3話 水鏡塾の異端児たち1/6

1.名士たちの登竜門


陽翟の城壁から北へ数里。

俗世の喧騒を拒絶するかのように鬱蒼と茂る森の中に、その学問所は静かに佇んでいた。

清らかな小川のせせらぎと、野鳥のさえずり。そして、それに重なるように響く朗々たる読経の声。

そこは、乱世にあって奇跡的に保たれた「知の聖域」であり、同時に、腐敗した漢王朝を立て直すべく、あるいは来たるべき次の時代を担うべく、若き才人たちが牙を研ぐ場所でもあった。

大儒・司馬徽、号して「水鏡」が主宰する私塾、「水鏡塾」である。


だが、この場所を単なる「学問所」と定義するのは、いささか実態を欠いていると言わざるを得ない。

実のところ、この学び舎は、巨大な「名士たちのサロン」であり、同時に冷徹な「出世への闘技場」でもあった。


当時の漢王朝における官僚登用制度は「孝廉」と呼ばれる推薦制である。試験の点数ではなく、地元の評判や、有力者の推薦によって官吏への道が開かれるこのシステムにおいて、最も重要なのは「名声」と「コネクション」であった。いかに才覚があろうとも、誰にも知られず、誰の後ろ盾もなければ、泥の中に埋もれて終わる。それがこの時代の掟である。


ゆえに、若者たちは渇望した。

人物鑑定の大家である司馬徽の「お眼鏡」に叶うことを。


水鏡先生に「王佐の才あり」と一言評されれば、その言葉は黄金以上の輝きを放ち、中央への推薦状となる。また、この塾で同世代の有力な名士たちと知己を得て、一目置かれる存在となることは、将来の派閥形成における強力な武器となる。


だからこそ、水鏡塾には潁川郡のみならず、遠方の郡国からも名門の子弟が集まってくる。彼らは華美な絹の衣を纏い、高尚な議論を戦わせ、己の才を孔雀の羽のように誇示する。ここでは、学問とは真理の探究であると同時に、自身を高く売り込むための装飾品でもあったのだ。


清らかな読経の声が響く回廊の裏側で、若き野心たちが静かに火花を散らす場所。

それが、水鏡塾という「龍の棲む庭」の正体である。


2.知の聖域


講義の合間の休憩時間。

回廊には、色とりどりの絹の衣を纏った塾生たちが溢れていた。彼らの多くは名門の子弟であり、その所作には生まれながらの気品と、エリート特有の傲慢さが漂っている。


「昨日の講義、『礼記』の解釈についてだが……」

「いや、そこは『公羊伝』の注釈を引くべきだろう」


彼らが交わす言葉は高尚であり、その視線は遥か古代の聖人を見つめているようだ。その輪の中心に、二人の兄弟がいた。兄の辛評、字は仲治。弟の辛毗、字は佐治である。共に名門、潁川辛氏の御曹司であり、その才気は塾内でも一目置かれている。


「兄上。見ましたか、太守府の通達を」

弟の辛毗が、冷ややかな笑みを浮かべて言った。

「また増税だそうです。『黄巾討伐特別税』の追加徴収。……現場を知らぬ役人どもが、机上の空論で民を絞り上げている」

「佐治よ、声が高い」兄の辛評がたしなめるが、その表情も渋い。

「だが、嘆かわしいことだ。上に立つ者が徳を失えば、下は乱れる。我々が学び、正しき道を示さねばならん」


彼らは憂国の士であった。

儒教的な理想を掲げ、この国の行く末を案じている。だが、そんな彼らの熱気を、氷のような冷徹さで見つめる視線があった。


喧騒から一歩引いた特等席で、一人、静かに全体を俯瞰している青年がいる。隣国・陳留郡きっての財力を誇る名門、衛氏の御曹司――衛臻、字は公振である。

父は、巨万の私財を持つことで知られる実力者・衛茲。その血筋ゆえか、彼は上質な絹の衣を隙なく着こなし、冷ややかな眼差しで学友たちを値踏みしていた。


「……騒がしいばかりで、中身がない。父上の資産を投じるに値する『本物』は、そうそういないか」


衛臻は退屈そうに書物に視線を戻そうとした。

だが、彼の背後の闇に控えていた「異形の護衛」が、ピクリと反応した。

それは、人間というよりは岩塊が服を着ているような、凄まじい巨躯の男だった。顔には深い傷跡。手には風呂敷に包まれた、長大な双鉄戟と思しき物体。名は典韋。

陳留で友の敵討ちのために殺人を犯し、数百人の追っ手を振り切って逃亡していたところを、衛家に匿われた指名手配犯である。


「……どうした、典韋」衛臻が問うと、典韋は低い唸り声で答えた。

「……臭うぞ、若旦那。遠くから、『血の臭い』が近づいてくる」


典韋の獰猛な視線が、学問所の正門の方角へと向けられた。平和な学問所には似つかわしくない修羅の気配が、微かに漂い始めていた。


一方、その厳格な空気からさらに外れた場所で、異様な行動をとっている男がいた。

庭の隅。枯れ木を集めて焚き火をし、そこで何かを炙っている。

病的なまでに色白で、枯れ木のように痩せこけた男だ。まるで整えていないボサボサの髪は、冠をつけることも結い上げることもなく、少年のようにだらしなく肩に垂れ下がっている。

その風貌は、聖賢の教えを学ぶ学徒というよりは、山野に潜む妖術使いのようであった。李撰、字は欽仲。彼は経書を読む代わりに、亀の甲羅を焼いていた。


「……ふむ。ひび割れの形が悪い。天の星が巡り、漢の赤き火が消えようとしているね」


李撰は独り言を呟き、虚空を見つめて不気味に笑った。その瞳は、現実の世界ではなく、遥か彼方の未来、あるいは冥界を見ているかのように暗く濁っている。


「死相だ。……この学び舎に、死の影を背負った男がやってくる。その男が、終わりの始まりを告げる鐘を鳴らす……面白くなりそうだね」


一方、講義室の裏手にある木陰では、もう一人の異端児が惰眠を貪っていた。郭嘉、字は奉孝。陽翟の名門・郭氏の出身でありながら、素行の悪さで有名な男だ。彼は高価な絹の服を草の上に投げ出し、酒瓶を抱えていびきをかいていた。


その寝顔は、通りがかる誰もが息を呑むほどに美しかった。透き通るような白磁の肌、長い睫毛、そして彫刻のように整った鼻梁。

もし黙って座っていれば、傾国の美女と見紛うほどの容姿端麗さを誇っている。神が丹精込めて作り上げた芸術品のような美貌だ。だが、その美しさは、染み付いた退廃的な酒の匂いと、常識を嘲笑うような放蕩ぶりによって、一種異様な妖艶さを放っていた。腐りかけた果実が放つ、抗いがたい甘い香りのように。


「奉孝!ここにいたか!」


鋭い声が飛んだ。現れたのは、姿勢正しく歩く端正な青年、陳羣、字は長文である。潁川陳氏の御曹司であり、学問所きっての秀才にして、規律の鬼だ。


「また講義をサボって……。酒の臭いがするぞ。神聖な学び舎を何だと思っている!」


郭嘉は片目だけを開け、あくびを噛み殺した。その仕草一つでさえ絵になるのが、陳羣にはさらに腹立たしかった。


「堅いこと言うなよ、長文殿。昨夜の酒がまだ抜けてないんだ。……それに、今日の講義は『孟子』だろ?性善説なんて退屈なお伽噺を聞いていたら、あくびで顎が外れて死んじまう」

「貴様……!聖人の教えをお伽噺と呼ぶか!恥を知れ!」

「事実だよ。人は善でも悪でもない。ただの欲望の袋だ。……中身が酒か、金か、名誉かの違いだけでね」


郭嘉が気だるげに寝返りを打とうとした時、遠く正門の方から騒がしい声が聞こえてきた。怒号。そして、何かがぶつかる鈍い音。


回廊にいた辛兄弟が顔を上げた。

「なんだ?騒々しい」「野犬でも迷い込んだか?」


李撰が、焼けた甲羅を火箸でつまみ上げながら言った。

「おや。……噂をすれば、嵐が来たようだね」

怒涛の新キャラ、有名人物達の登場でございます。

今後の重要人物達の人物紹介ですね。

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