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第三章 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪  作者: こくせんや
第三部 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪

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第2話 市場の侠、計算の理その4/5

4.理と情


陽翟の街が、茜色と群青色の混ざり合う逢魔が時に沈もうとしていた。

太守府の裏門から、向朗は逃げるように滑り出た。定刻にはまだ早いが、帳簿の数字と無能な上司の顔をこれ以上見ていたら、自身の精神衛生という資産が損耗すると判断し、早退を決め込んだのだ。路地裏には、家路を急ぐ人々の影が長く伸びている。


向朗は懐の手巾で、指先に残った銭の錆びた臭いを拭った。あの商人を追い詰めた時の、ひやりとした金属の感触がまだ残っている気がした。


「……おい、青白い色男」


低い、地を這うような声。 向朗はピタリと足を止めたが、振り返りもせずに溜息をついた。誰かを確認するまでもない。その声には、昼間の騒動で嗅いだばかりの、鉄錆と血の匂いが混じっていたからだ。 面倒な『変数』に捕まった――向朗の脳内計算機が警報を鳴らす。


「お礼ならいいよ。あれは僕の自己満足だ。君のためじゃない」


向朗は関わり合いを拒絶するように、視線だけを少し動かして通り過ぎようとした。この男からは、厄介ごとの匂いしかしない。 だが、徐福はその後ろ姿に、悲鳴にも似た問いを投げかけた。


「待てよ! ……聞かせろ。あんた、剣も握れねえような細腕で、なんであんな芸当ができた? 俺は……俺はあいつを殴り倒すことしか思いつかなかった」


徐福の声には、怒りよりも深い、悔恨が滲んでいた。 自分は命がけで剣を抜こうとした。全てを捨てる覚悟で。だが、目の前のこの優男は、一滴の血も流さず、息一つ切らさず、銭の束と数枚の書類だけで、悪党を社会的に抹殺してのけた。 力の差ではない。「武器」の差だ。


向朗は足を止め、ゆっくりと振り返った。 夕日の残照に照らされた徐福の顔は、行き場を失った迷える子供のようにも見えた。その瞳には、今まで信じてきた「暴力」という価値観が崩れ去った後の、空虚さと渇望が渦巻いている。


「殴れば、君の手が痛むだけだ。それに、殴って解決しても、明日になればまた別の悪党が出てくる。……でもね、『法』と『数字』で殴れば、相手は再起不能になるし、他の悪党への見せしめにもなる」


向朗は自分のこめかみを、細い指先でトン、と叩いた。


投資効率コストパフォーマンスの問題だよ。暴力は経費コストが高すぎるんだ。怪我をする確率リスク、捕まる確率リスク、復讐される確率リスク。……君の剣は鋭いが、使い所を間違えている」


「……とうし?けいひ、だと?」


「そう。安い労力で、大きな見返り(リターン)を得る。それが賢い生き方だ。……君のその立派な剣と命は、あんな小悪党一匹のために安売りしていいほど、価値のないものなのかい?」


徐福は拳を握りしめた。爪が食い込み、血が滲むほどに。 今まで、力とは腕力のことだと思っていた。拳で語り、剣で切り開くのが男だと信じていた。 だが、この男は言う。知恵こそが、最も効率的で、最も残酷な凶器になり得ると。


「……俺の剣は、安くねえ」


長い沈黙の後、徐福は絞り出すように言った。 彼は向朗を睨みつけた。

だが、そこには先ほどまでの殺気はなく、代わりに一種の清々しい敗北感があった。


「だが、あんたの言う通りだ。……完敗だ。俺のやり方じゃ、賈仁には勝てても、この腐った世の中には勝てねえ」


潔く認める徐福に、向朗は少し驚いた顔をした。 (……ほう?) 向朗の計算機が、カチリと音を立てて回った。


速読と暗算。 それらは向朗にとって、役人の末端として、世の中の隅っこで飢えずに生きていくための、ささやかな道具に過ぎなかった。 退屈な帳簿を埋め、日々の糧を得るだけの技術。それ以上の意味などないと思っていた。


だが、この男は違った。 極限の怒りの中で剣を抜かず、自分の非を認めて頭を下げる潔さ。その魂の熱量が、向朗の冷めた心に小さな波紋を広げた。


(僕のこの退屈な特技が……もしかしたら)


ただの事務処理能力だと思っていた自分の力が、この男のような「熱い心」を持つ者と合わされば、帳簿の中だけではない、現実の世界を変える力になるのではないか。 そんな淡い期待が、向朗の胸をよぎった。


「……酒、飲むかい?」 向朗がポツリと言った。

「あ?」 徐福が間の抜けた声を上げる。

「講義料だ。君のおごりで頼むよ」

「はあ!? なんで俺が……」

「安い店を知ってる。……今日は計算しすぎて頭が痛いんだ。君のような馬鹿正直な男と話して、脳を休めたい気分でね」


失礼な物言いだった。

だが、徐福は不思議と腹が立たなかった。

この青白いインテリが、初めて自分を「対等な人間」として扱ってくれた気がしたからだ。


「……けっ。減らねえ口だ」 徐福は鼻を鳴らし、歩き出した向朗の後を追った。

「いいぜ。安い酒で良けりゃ、付き合ってやるよ。……先生」


「先生はやめてくれ。背中が痒くなる」

向朗は苦笑し、歩きながら背中で名を告げた。


「僕は向朗。あざな巨達きょたつ。……君は?」


「……徐福じょふく」男は短く答えた。


「そうか、徐福くん。……よろしく頼むよ。」


夕闇迫る路地裏。計算高い事務屋と、無鉄砲な侠客。水と油のような二人の影が、初めて一つに重なり、夜の街へと消えていった。


向朗ら名士層(といっても向朗は下級の名士で、今後登場する陳羣や荀彧といった超富豪のなのある家柄ではありませんが)と、寒門(貧困層)の徐福とは、当時身分が違うという以上に、差別的な扱いを受けていました。日本の明治期の華族と平民のような違いでしょうか。

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