第2話 市場の侠、計算の理その1/5
1.陽翟の市場
翌日。豫州の治所である陽翟の空は、昨夜の不穏な風が嘘のように、抜けるような蒼穹が広がっていた。潁川郡の心臓部とも言えるこの街は、高い城壁に守られ、その内側には四百年の漢王朝が築き上げた繁栄の残滓が、未だ色濃く残っている。街の中央を南北に貫く大通りには朝から市が立ち、近隣の村々から運び込まれた荷車が列を成していた。
青々とした野菜、川で獲れたばかりの魚、織物、陶器。呼び込みの太い声と、値切り交渉の甲高い声。家畜の鳴き声と車輪の軋み。それらが混然一体となって熱気を生み出している。一見すれば、天下のへそ・潁川に相応しい、平和で豊かな日常の光景であった。
だが、その喧騒の渦中に身を置く一人の若者――徐福の目には、その華やかな彩りの全てが、腐り落ちる寸前の果実のような毒々しさとして映っていた。
「おい、麦の値段が昨日より上がってるぞ!これじゃあ売り物にならねえ!」
「仕方あるめえ。今朝方、太守府から『黄巾討伐特別税』の追加徴収のお達しが出たんだ。俺たちだって好きで値上げしてるわけじゃねえ。文句なら督郵様に言いな」
穀物問屋の軒先で、日焼けした農民と、脂ぎった顔の商人が怒鳴り合っている。道の端には、絹の衣を纏った役人の豪奢な輿が通り過ぎるのを、肋骨の浮き出た子供が、うつろな目で眺めていた。その子供の手には、親の物だろうか、欠けた茶碗が握りしめられている。
富める者は権力と癒着してより富み、貧しい者は泥水を啜って税を払う。黄巾の乱という巨大な腫瘍を切開し、膿を出したはずの帝国の体は、未だ熱病に侵されたまま回復の兆しを見せない。いや、傷口に群がる蛆虫どものせいで、腐敗は骨髄にまで達しようとしている。
(クソったれが)
徐福は雑踏を歩きながら、苛立ち紛れに足元の石を蹴った。石は放物線を描き、ドブ川へと吸い込まれた。昨夜、太守府の門前で見た光景が、焼印のように脳裏に焼き付いて離れない。泥にまみれて土下座する親友・柳安の姿。それを馬車の上から嘲笑いながら見下ろす督郵・賈仁の、あの粘着質な爬虫類のような目。
『その目は損をする目だ』
通りすがりの書生に言われた言葉が蘇る。何もできなかった。腰に一振りの剣を持っていながら、それを抜くことすらできなかった。抜けば柳安の立場がさらに悪くなるという理屈に縛られ、己の無力さを噛み締めることしかできなかった。
無力感が、徐福の腹の底でどす黒い炎となって燻っている。吐き出せない怒りが、体の中で暴れ回っていた。何かを殴りたい。何かを壊したい。だが、何を?この腐った空気そのものを切り裂く術を、徐福は知らなかった。
その時だ。市場の一角から、甲高い怒号と、何かが砕ける音が響いた。
「この泥棒猫が!往生際が悪いんだよ!」
人だかりができている。野次馬たちが、好奇と不安の入り混じった目で輪を作っている。徐福は舌打ちをしつつも、何かを期待するかのように、野次馬の肩を乱暴に押しのけて前へ出た。
そこは「王商店」という看板を掲げた、一際大きな穀物問屋の前だった。地面には白い米が散らばり、泥にまみれている。その中心に、粗末な麻の着物を着た老婆が這いつくばっていた。その横で、店主と思しき小男が、汚いものを見るような目で唾を吐き捨てていた。絹の服を着て、指にはいくつもの指輪を嵌めている。この辺りでは幅を利かせている悪徳商人の王だ。
「泥棒とは人聞きが悪い!私はただ、米の量が足りないと言っただけじゃ!」
老婆は涙ながらに訴えていた。その手には、なけなしの銭が入っていたであろう古びた巾着が、命綱のように握りしめられている。皺だらけの手が震えていた。
「息子の嫁が産気づいて……精をつけるために、半年ぶりに買った白米なんじゃ……。それなのに、家に帰って計ってみたら、一合も足りなかった!騙し取った分を返しておくれ!」
店主の王は、集まった人々に聞こえるように大げさに肩をすくめ、呆れたような溜息をついてみせた。
「やれやれ。貧乏人はこれだから困る。自分の家の秤が狂っているのを棚に上げて、真っ当な商売人に因縁をつけるとはな。いいか婆さん、当店の秤は太守府の検印付きだぞ?つまり、お上の認めた正しい秤だ。それにお前がケチをつけるということは、お上が間違っているとでも言うのか?」
「そ、そんなことは……。でも、確かに軽かったんじゃ……」
「うるさい!朝から縁起が悪い。商いの邪魔だ、とっとと失せろ!」
王が目配せをすると、店の奥から大柄な用心棒が二人、ぬっと現れた。筋骨隆々たる大男たちだ。彼らは無言で老婆の襟首を掴み、ゴミのように放り投げようとする。
周囲の民衆からは「酷い」「やりすぎだ」というささやきが漏れるが、誰も動かない。
動けば、自分が次のゴミになることを、骨身に沁みて知っているからだ。
(……ああ、やっぱりだ)
徐福の中で、ギリギリまで張り詰めていた理性の糸が、プツンと音を立てて切れた。この世界は、どこまで行っても強者が弱者を食い物にする地獄だ。理屈ではない。損得でもない。ただ、目の前のこの「悪」を、物理的に叩き潰さなければ、自分が自分でなくなってしまう気がした。柳安を見捨てた昨夜の自分を、肯定してしまうことになる気がした。
「おい」
低く、地を這うような声が響いた。
用心棒の手が止まる。徐福が、人ごみから一歩踏み出していた。その目は、飢えた狼が獲物を見つけた時のように、冷たく据わっている。
「その汚ねえ手を離せ。……婆さんの骨が折れるだろうが」




