第1話 憂鬱な書記官その2/4
2.黄昏の漢帝国
中平六年(西暦一八九年)、春。四百年の長きにわたり中華の大地を支配してきた漢という巨大な獣は、今や緩慢な死の床にあった。
四年前、太平道の教祖・張角が「蒼天已に死す」と叫んで蜂起した黄巾の乱は、帝国全土を紅蓮の炎で包み込んだ。
数十万の信徒が黄色い頭巾を巻き、官庁を焼き、豪族を襲ったあの動乱は、官軍の総力を挙げた討伐によって一応の鎮圧を見た。だが、それは高熱を出した病人が、熱が引いた後に訪れる死に至る衰弱のようなものでしかなかった。
都の洛陽では、時の皇帝、霊帝は病を得、宮中の奥深くでは宦官と外戚が互いの喉笛を狙って、陰惨な暗闘を繰り広げている。
十常侍と呼ばれる宦官たちは皇帝の目を塞ぎ、売官によって私腹を肥やし、忠臣たちは次々と粛清されていった。
その腐臭は地方へと伝染し、黄巾の残党は「黒山賊」や「白波賊」と名を変え、蝗の群れのように大地を食い荒らしている。飢えた民は道端の土を食み、行き倒れた骸が野晒しとなり、それを野犬が喰らう。
法は死にかけ、力だけが真実となりつつある時代。
だが、その濁流の中にありながら、奇跡的に秩序の堤防が決壊していない場所があった。天下の中心、豫州・潁川郡である。
古来より「天下のへそ」と呼ばれるこの地は、多数の人口を抱え、後の時代に多くの名士を輩出した学問の都でもある。高い城壁に囲まれた郡都・陽翟の街路には、戦火を免れた活気があった。商店には物が溢れ、学問所からは朗々たる読経の声が響く。
しかし、その活気はどこか空元気にも似ていた。沈みゆく巨大な船の上で、必死に平静を装って宴を開いているかのような、硝子細工の均衡の上に成り立っていた。
「葛陂の賊の動きはどうか」
潁川郡の政庁、太守府の奥まった一室。黒檀の重厚な机の上に広げられた羊皮紙の地図を前に、張り詰めた声が響いた。声の主は、この年、新たな制度によって絶大な権限を与えられ赴任した豫州牧・黄琬である。名門の出身であり、清廉潔白で知られるその眼光は、乱世の汚れを許さぬ厳しさを湛えていた。その背筋は老いてなお槍のように鋭く、纏う空気は冷たく澄んでいる。
「はっ。隣郡の汝南にて蜂起した黄巾残党「葛陂」、劉辟・何儀ら数万は、郡境を越える隙を虎視眈々と窺っております」
答えたのは、黄琬の右腕として実務を取り仕切る潁川太守・李旻だ。彼は真面目を絵に描いたような官僚で、連日の激務によりその顔には深い疲労の色が刻まれている。目の下の隈は濃く、整えられた髭には白いものが混じり始めていた。
「数万、か……。潁川の守備兵だけでは心もとない数字だ」
「しかし、ご安心を。我が軍の防衛線は強固です。加えて、督郵の賈仁が私財をなげうって兵を集め、また兵糧輸送を完璧に統制しておりますゆえ、前線の兵は士気高く維持されております」
「うむ。賈仁か……。彼のような実直な男が現場にいることは救いだ」
黄琬は地図上の「葛陂」の地点を、白く長い指先でトントンと叩いた。そのリズムは、彼の焦燥を表しているようだった。
「李旻よ。潁川は天下のへそだ。ここが破れれば、賊の波は一気に洛陽へ届く。なんとしても食い止めるのだ。……民のために」
「はっ!閣下の徳をもってすれば、必ずや賊も畏れをなしましょう」
二人の高官は、国の未来を憂いていた。
その志は高く、その瞳は遥か彼方の「正義」を見つめていた。
だからこそ、彼らは気づいていなかった。自分たちの足元、豪奢な執務室の床下で、シロアリのように柱を食い荒らす腐敗が進行していることに。
そして、太守府の片隅にある埃っぽい文書庫の隅にこそ、この国の本当の病巣と、それを冷めた目で見つめる一人の若者がいることに。




