第一回講義その2 後漢末期の残酷な兵站
【残酷な兵站】
「元々、確固たる兵站基盤を持たぬ反乱であったことから、黄巾党という巨大な組織は急激に瓦解し、歴史上稀に見る速度で鎮圧された。……だが、勘違いしてはならんぞ。黄巾党に参加した民が、全て根絶やしになったわけではない」
私は教壇の上で、ゆっくりと視線を巡らせた。 黒板に描かれた「黄巾」の文字に、無数の×印を書き加える。だが、その文字の周囲には、行き場を失った点々が無数に漂っているように見えるはずだ。
「土地を失い、家を焼かれ、戻るべき場所を持たぬ数百万の流民――すなわち難民が、中原一帯に溢れかえったのだ。彼らはもはや農民ではない。生産手段を持たず、ただ飢え、彷徨うだけの存在だ。多くの群雄にとって、彼ら流民はただの『治安悪化の要因』であり、抱え込めば自滅を招く『兵站上の重荷』でしかなかった」
教室の窓際で、魏延が不愉快そうに鼻を鳴らした。彼は愛用の短刀で爪の垢をほじりながら、吐き捨てるように言った。
「ただの、食いっぱぐれだからな。しかも、群雄らが爪に火を灯すようにして蓄えた糧では、到底養えない莫大な数の食いっぱぐれだ。……俺が守備隊長なら、城門を閉ざして矢を射かけるね。入れれば、俺の兵が飢える」
魏延の言葉は冷酷だが、戦場の真理を突いている。 私は頷き、言葉を継いだ。
「文長の言う通りだ。養おうにも、どの群雄にも物理的に養う術がないのだよ。自分の軍隊数万を養うための糧を用意するだけで、皆、精一杯だ。その数倍、下手をすれば数十倍の民のための糧など、この荒廃した世の中のどこを探しても存在しない。そのため、組織としての『黄巾の乱』は鎮圧されたが、それは問題の解決ではなかった。イナゴのように略奪を繰り返し、食い尽くせば移動する流民の群れは、各地に溢れかえったままだ」
物理的に救う事ができない民。
その言葉の重みに、最前列の姚伷と楊顒が息を呑む気配がした。彼らは優秀な事務官僚だ。だからこそ、計算機の上で弾き出される「救済不可能」という解の絶望感を、誰よりも鋭敏に感じ取っているのだろう。
姚伷が青ざめた顔で、震える声を出した。
「では……彼らはどうなったのですか? 誰も助けられないのなら……」
「史実を見れば明らかだ」
私は冷徹に事実を並べた。
「漢の名将と謳われる朱儁将軍は、南陽で黄巾賊の指揮官、韓忠や孫夏の降伏申し入れを拒絶し、これを徹底的に壊滅させた。また、皇甫嵩将軍は、黄巾の拠点である広宗を攻略した際、そこにいた黄巾の民を全て撫で斬りにし、その死体で京観(けいかん・死体の塔)を築いたという」
「なっ……! 全て、ですか!?」
新入生の姜維が、信じられないものを見る目で私を見た。彼の教科書には、漢の将軍たちの英雄的な側面しか書かれていないのだろう。
「虐殺だと言うのは簡単だ、姜維。だが、降伏させてどうする? 数十万の捕虜に食わせる飯が、漢軍のどこにある? 受け入れれば、翌日から漢軍の兵士の椀の中身が空になり、自分たちが餓死するのだ。……彼らは『殺す』しかなかった。それが、兵站という天秤の残酷さだ」
教室に沈黙が落ちる。英雄たちの栄光の陰にある、血生臭い計算式。それを突きつけられ、若者たちは言葉を失っている。
「乱の後も、各地の群雄達は、彼ら黄巾の残党を殲滅させるというより、自分の領地から『別の土地に追い払う』ことに終始した。イナゴと同じ扱いだな。自分の畑から追い出せれば、隣の畑がどうなろうと知ったことではない。……だが」
私はここで一呼吸置き、チョークを強く握りしめた。 黒板の真ん中に、一人の男の名を大きく書き殴る。
『曹操孟徳』
「ただ一人、曹操だけは違った。彼はこの厄介な流民を、『人的資源』と捉えたのだ」
【曹操孟徳】
「……資源、ですか?」
姜維が、理解が追いつかないという顔で首を傾げた。
「ただの食い詰め者ですよ? しかも銭も持っていない、武器も農具も失った、着の身着のままの難民です。それがどうして資源に……」
「そう思うのが普通だ。常人の発想では、彼らは『負債』でしかない。だが、曹操の目は狂気じみた計算を弾き出した。彼は、兗州に侵入してきた青州黄巾軍の残党三十万人……家族を含めれば百万人に及ぶ民の降伏を、全て受け入れたのだ」
「ひゃ、百万人!?」
楊顒が素っ頓狂な声を上げた。魏延ですら、呆れたように口を開けている。
「正気じゃねえな。百万人なんざ、抱え込んだ瞬間に自軍が破産だ。曹操の奴、どうやって食わせるつもりだったんだ?」
「そこで曹操が打ち出したのが、後に魏の国策となる『屯田制』だ」
私は黒板に、荒れ地と、そこに鍬を振るう人々の絵を描いた。
「戦乱で持ち主がいなくなり、荒れ果てた農地を強制的に国有化し、彼らに耕作させたのだ。彼らは『農民』として食料を生産し、戦時には『兵士』として戦う。……つまり曹操は、ただ消費するだけだった流民を、食料と兵力を生み出す生産装置へと改造し、自己完結型の軍隊を作り上げようとしたのだ」
「なるほど……!」
姜維が目を輝かせた。
「流民を兵士にすれば軍事力が増し、彼らが耕せば兵糧問題も解決する。まさに一石二鳥、逆転の発想ですね! さすがは曹操、見事な政策です!」
若者らしい、純粋な感嘆だ。教科書通りの解釈。後世の歴史家が記す、綺麗な上澄みだけの理解。 私はその輝く瞳を見つめながら、心の中で冷ややかに笑った。 甘いな、姜維。
「うむ。こうして生まれたのが、曹操最強の精鋭部隊『青州兵』だ。彼らは曹操の覇業を支える剣となり、盾となった」
私はゆっくりと教壇を降り、魏延の席の近くまで歩み寄った。
「だが、ここで一つ問いがある。……文長。青州兵は曹操が死ぬと、後継者の曹丕には従わず、勝手に太鼓を鳴らして解散し、帰農してしまったという。なぜだと思うかね?」
魏延は腕を組み、不機嫌そうに答えた。
「……恩義が、曹操個人にあったからか? 親分が死んだら、組はおしまいってことだろ」
「そうだ。彼らは漢王朝に忠誠を誓ったわけでも、曹操の思想や政治理念に共鳴したわけでもない」
私は拳を握りしめ、生徒たちに見せつけた。
「『餓死寸前の自分たち家族に、耕す土地と飯を与えてくれた』……つまり、生命維持(兵站)を保証してくれた曹操個人への、強烈な恩義と契約だけで繋がっていたのだ。これが、一般的に語られる『青州兵誕生の美談』であり、魏の正史が誇る政策の輝かしい側面だ」
教室の空気が、少し明るくなった気がした。曹操という英雄の、度量の大きさに感銘を受けているのだろう。 だが、講義はここからが本番だ。
私は声を低く沈め、その空気に冷水を浴びせた。
「だがな、若者たちよ。……これには裏がある。その『恩義』の正体を、数字で考えてみたことはあるか?」




