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第三章 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪  作者: こくせんや
第一章 丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

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34話 正議 命の灯火は道を照らし こぼれる情は友が拾う(エピローグ)

【正議】


敗北に終わった北伐から三月。

建興六年(二二八年)冬の到来を告げる成都。


政庁の大広間は、分厚い氷盤に閉ざされたような沈黙に支配されていた。

諸葛亮は丞相を辞し、多くの将軍が降格となった。街亭での敗北の責を取り馬謖は処刑され、そして、敗戦の主犯を庇った私、向朗は免職となった。


「魏は強大すぎる」「挑むこと自体が間違いだったのだ」という絶望と恐怖は、宮廷の床を冷たく這い回り、家臣たちの喉元を締め上げていた。


その時、衣擦れの音が静かに、しかし凛と響いた。


「丞相、ご出仕」


諸葛亮のその白い漢服が姿を現す。


激務に削げ落ちた頬、死人のように蒼白い顔色。

だが、その双眸だけは、さざ波ひとつない古鏡のような静謐さを湛えている。

彼は定位置についても、すぐには口を開かなかった。ただ、怯える群臣たちを責めることなく、まるで病人を労るような眼差しで静かに見渡した。


「……皆の不安、痛いほど伝わってまいります」


諸葛亮の声は決して大きくはなかったが、澄んだ清水の如く、広間の隅々まで染み渡った。


「魏は強大であり、抗うべからず。これと戦うは無謀である……。皆の腹の底にあるのは、そのような『恐怖』でありましょう」


図星を指された文官たちが、気まずそうに俯く。

諸葛亮は羽扇をゆっくりと胸元へ寄せ、諭すように言葉を継いだ。


「無理もありません。確かに魏は広く、兵も多い。しかし、どうか目先の恐ろしさだけに囚われないでいただきたい。……歴史という名の鏡を、見てください」


諸葛亮は遠い過去を懐かしむように、虚空を見上げた。


「かつて、項羽という覇者がおりました。その武勇は万夫不当、天下の諸侯は皆、雷鳴を聞くがごとく震え上がり、誰もが『項羽には勝てぬ』と信じて疑わなかった」


そこで彼は視線を戻し、群臣一人一人の顔を静かに見つめながら、問いかけた。


「冷静に比べてごらんなさい。……今の魏がいかに強いといえども、当時の項羽ほどでありましょうか?」

広間にわずかなざわめきが走る。諸葛亮は首を横に振り、自ら答えた。


「いいえ。項羽の強さは、今の魏などの比ではありませんでした。 当時の人々が感じた絶望は、今の比ではなかったはずです」

彼は一歩、前に進み出た。


「しかし、その怪物のような項羽を最後に倒したのは誰でしたか? 弱小で、戦えば負け続けてばかりいた、漢の高祖(劉邦)ではありませんか。 なぜ、今の魏よりも遥かに恐ろしかった項羽が滅び、最弱の劉邦が勝ったのか。 それは項羽が『不義』の逆賊であり、高祖が『道義』を背負っていたからです。不義は孤立し、道義は人を集める。それが世のことわりです」


諸葛亮は北の方角――魏の都がある彼方を見据え、静かに断言した。


「今の魏は、強いといっても昔の項羽には及びません。 対して、我ら漢室の正統なる法と道義は、当時の高祖に何ら恥じるものではない。 我らは、項羽よりも弱い敵を相手にしているのです。そして我らには、項羽を倒した高祖と同じ『正義』がある。 ならば、恐れることなど何もありません。我らが道を誤らぬ限り、賊を討つことは疑いようのない必然なのです」


静寂が戻った。 だが、それは先ほどまでの凍りついた沈黙ではない。憑き物が落ちたように顔を上げる臣下たち。その目には再び光が戻っていた。理路整然とした「勝てる理屈」が、彼らの恐怖を拭い去ったのだ。


その様子を見届けた諸葛亮。


ふと、胸の奥で爆ぜるような痛みを覚えた。 せり上がる咳。口の中に広がる鉄錆のような血の味。歪む視界。


(――まだだ!)

諸葛亮は表情一つ変えなかった。


ただ、羽扇を握る指の関節が白く浮き出るほどに力を込め、口元を隠す。喉元までせり上がった咳と、鉄錆のような血の味を、無音のうちに強引に飲み下した。


今、自分が倒れるわけにはいかない。この国の希望は、先帝より託された「夢」 は、この細い体一つにかかっているのだから。

彼は蒼白な顔は、悲痛な覚悟をひた隠し、自愛にも似た微笑を浮かべ、最後の言葉を告げた。


「……敵を討つ大義は、すでに我らにあります。あとは、行うのみ」


諸葛亮の声が、わずかに掠れた。


「臣、亮。駑馬どばに鞭打ち、この命の灯火が尽きる最期のときまで、 漢室のためにこの身を捧げ尽くす所存です。」

彼は羽扇を北へと向けた。


「……さあ、参りましょう。道は、まだ続いております」


丞相の静かなる宣言とともに、蜀漢という国は、涙を拭い、圧倒的な熱量をもってもう一度動き出した。 終わりなき道を、ただひたすらに進むために。


【決別】


政庁の大広間から湧き上がる、地鳴りのような熱気。 それは、恐怖と敗北感に凍り付いていた臣下たちの心が、丞相諸葛亮の言葉という火によって、再び燃え上がった音であった。


「臣、亮。この命の灯火が尽きる最期の刻まで……」


その誓いは、分厚い扉を隔てた回廊の闇に佇む私の耳にも、痛いほど鮮明に突き刺さった。

広間の兵たちが歓喜に震えるその熱気が、私には恐ろしい。それは希望の暖かさなどではない。友が、自らの骨を薪とし、血を油として燃やし尽くそうとする、命を焦がす熱だ。


私は、柱の陰で胸を強く鷲掴みにした。締め付けられるような悲痛な情が、喉元までせり上がってくる。


(友よ、……なぜそこまで己を犠牲にするのか。)


私の脳裏に焼き付いているのは、先日の謁見で見た、彼の後ろ姿だ。 かつては瑞々しかったうなじは、今や皮と骨だけになり、冠の紐さえ重たげに見えた。私よりひと回りも若いはずの彼が、私よりも遥かに老いさらばえ、枯れ木のようになりながら、なお千鈞の重荷を背負って立っている。


「法」と「理」で国を縛り、自らをも縛り上げ、その命を薪として漢室再興の炎を維持する。 その生き様はあまりに壮絶で、そしてあまりに孤独だ。


(お前は、生きようとしているのではない。死に場所を探して、自らを灰にするつもりか)


広間からは、再び軍の再編と次なる戦いへの準備を整える者たちの足音が響き始めた。

彼らは再び、友が敷いた道の上を走り出す。だが、その先にある未来に、私はどうしても暗い影を拭い去ることができない。

今回の街亭のような悲劇が、また繰り返されるのではないか。厳格すぎる法についていけず、零れ落ちる者たちがこれからも現れるのではないか。


(私に、彼を止める力はない……)


私は官を去った身だ。あの場に踏み込み、『休んでくれ』などという甘い言葉を掛ける資格はない。止めたい。止めに入って、その細い体を抱き留める権限もない。何もできない。友が命を削る音を聞きながら、ただ扉の外に立ち尽くす。 ……無力だ。


だが。 ただ指をくわえて、友が燃え尽きるのを見ているだけで良いのか?


「……いいや」

私は小さく、しかし力強く首を振った。


友が「法」で国を骨組みするなら、誰かがその隙間を埋める「肉」とならねばならぬ。友が厳格な法として民を導くなら、誰かが慈愛ある情として、傷ついた者たちを癒やさねばならぬ。


(友よ。君が天下という大河を征くなら、私はその岸辺で、君がこぼれ落とさざるを得なかった「情」を拾い集めよう)


戦場で散る命、残された家族の涙、法に裁かれた者の無念。

それらを救い、次代の若者たちに「人が人として生きる道」を説くこと。それこそが、官位を持たぬ私にしかできない、もう一つの闘いではないか。

友の身体を蝕む「孤独」を、私が民草の間から支えるのだ。


「行かれよ、友よ。君の背中は、この向朗が支え続けよう」


私は広間に背を向けた。 その足取りは、ここに来た時よりも軽く、確かな熱を帯びていた。私の戦場は、ここではない。成都の市井、人々の暮らしの中にこそあるのだから。


第一部 完

第一部エンディングに到達いたしました。

なぜ向朗が諸葛亮の友人枠に入らないのか、後継者と言われないのか。そんな私のアンサーとなります。


(友よ。君が天下という大河を征くなら、私はその岸辺で、君がこぼれ落とさざるを得なかった「情」を拾い集めよう)

「不干時事 」天下の世情に興味がなかった。と史書に書かれる向朗。

第一部の構想にあたって、最初に思いついた決め台詞ですね。


さて、次の話から第二部となります。

小説を作成するために集めた三国志の歴史を元に、向朗先生に解説をしてもらう話としています。


三国志に、向朗に、興味が湧いた方、ブックマーク・コメントなどしていただけるととても励みになります。よろしくお願いします。


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